「美貌の檻 ―23時、鏡は囁く―」
ソコニ
第1章:美しい転校生
プロローグ:顔のない少女
人は誰もが、仮面を被って生きている。
それは意識的な偽装ではなく、むしろ本能的な防衛なのかもしれない。自分が見せたい顔。他人に見せる顔。理想とする顔。それらの仮面の下に、本当の顔などあるのだろうか。
私がその問いの答えを知ったのは、あの転校生が現れてからだった。
いや、「知った」というよりも、全てを失った——その方が正確かもしれない。
私立聖アンジェリカ女学院。この由緒ある学び舎で起きた出来事を、私は今でも鮮明に覚えている。いや、忘れられるはずがない。
なぜなら、これは私の顔を奪った少女の物語。
そして、全ての顔の下に潜む「空虚」の真実。
記録を始めよう。
これが、「無貌の少女」の物語——。
第1章:美しい転校生
あの日、教室に漂っていた不吉な空気を、私は今でも鮮明に覚えている。
そう、あれは確かに五月病まっさかりの季節だった。しかし、私立聖アンジェリカ女学院では、それ以上に不穏な空気が漂っていた。四月から続く奇妙な出来事の数々が、生徒たちの心を少しずつ蝕んでいたのだ。
まず、入学式の集合写真から。そこには誰も知らない生徒が写り込んでいた。しかし不思議なことに、その生徒の顔だけが、プリントによってまるで違って見えるのだ。さらに気味が悪いことに、その生徒を気にする者は私一人だけのようだった。
次に、寮での出来事。深夜、突然の悲鳴で目を覚ました生徒が何人もいた。しかし誰が叫んだのかは分からない。まるで悲鳴そのものが幽霊のように、廊下をさまよっていたかのようだった。そして翌朝、誰もその悲鳴のことを覚えていなかった。私以外は。
そして、美術室の肖像画。たった一月で、十枚もの肖像画が破棄されていた。それぞれの絵の顔の部分が、まるで何かに引っ掻かれたように破れていたのだ。最初は生徒のいたずらかと思われたが、防犯カメラには何も映っていなかった。
これらの出来事は、すべて「彼女」の到来を予告していたのかもしれない。
2年B組の教室。春の陽射しが斜めに差し込み、黒板に落ちる光と影が、まるで何かの前兆のように揺らめいていた。
「えっと、転校生の……」
担任の深町先生が、手元の名簿を不安そうに見つめている。先生の手が微かに震えているのが見えた。後になって分かったことだが、この時すでに先生は「異常」に気付いていたのだ。
「水野澪さん、であってますよね?」
誰もが息を呑んだ。
教室の前に立っていた転校生は、この学校の厳格な紺色の制服姿でありながら、どこか違和感のある存在だった。それは決して彼女の容姿の問題ではない。むしろ逆だ。彼女は美しかった。しかし、その美しさは、見る者の目に異なって映るのだ。
私はその時、妙な既視感に襲われた。昨夜の夢。そう、私は確かに夢の中で彼女を見ていた。夢の中で彼女は、美術室の肖像画の前に立っていた。しかし、振り返った彼女の顔は、どうしても思い出せない。まるで、記憶の中の「顔」の部分だけが、黒く塗りつぶされているかのように。
「はい、水野澪です。よろしくお願いします」
彼女の声は、透明な水のように澄んでいた。しかし、その声には不自然なほどの響きがあった。まるで、遠く離れた場所から聞こえてくるような。あるいは、古い蓄音機から流れる音のような。
私の横で、親友の由香里が「かわいい!」と小声で叫ぶ。しかし、その直後に由香里が付け加えた言葉に、私は首を傾げた。
「まるで人形みたいな顔立ちだね。西洋の磁器人形みたい。ねえ、見てる?あの透き通るような白い肌」
人形?私の目には、どちらかというと凛とした和風美人に見えたのだが。しかも、由香里の目は異常なまでに輝いていた。まるで、催眠にかかったように。その瞳は、水野澪の姿を映して揺らめいていた。
「きっと、モデルとかやってたんじゃない?」
後ろの席の美咲が囁く。その声には、羨望と嫉妬が混じっていた。
「あんな大人っぽい顔立ちの子、見たことない。まるで映画女優みたい。クラシック映画に出てきそうな……」
大人っぽい?今度は違和感が強まった。私には、むしろあどけなさの残る可愛らしい印象なのに。それどころか、美咲の声にも、どこか取り憑かれたような響きがあった。まるで、自分の意志とは関係なく、言葉が流れ出ているかのように。
教室の空気が、徐々に重くなっていく。窓から差し込む光も、まるで濁ってきたかのようだった。
「水野さんは、海外から帰国したばかりなんです」
深町先生が説明を加える。その声は、どこか虚ろだった。
「みなさん、よろしく」
そう言いながら、先生は何度も名簿を確認している。まるで、水野澪の名前が本当にそこにあるのか、確かめているかのように。
空いている座席は、窓際の後ろから三番目。陽射しが微かに届く場所だった。その席は、不思議なことに先週まで誰かが座っていたような気がするのだが、誰だったのか思い出せない。クラスメイトに聞いても、「ずっと空席だった」と言う。しかし、机の中には消しゴムのかすが残っていた。新品の机のはずなのに。
水野澪が席に着くまで、クラスメイト全員の視線が彼女を追っていた。その視線の中には、純粋な憧れもあれば、どこか不穏なものも混じっていた。特に気になったのは、美術部の佐藤さんの反応だ。スケッチブックを手に、必死に水野さんの素描を試みているのだが、手が震えて線が引けない。そして、描こうとするたびに、紙が破れていく。
授業が始まっても、教室の空気は重いままだった。チラチラと後ろを振り返る級友たち。しかし、不思議なことに、それぞれが見ている「水野澪」の姿が違うようなのだ。
数学の時間。黒板に書かれた問題を解くために、水野澪が前に出る。その姿を見つめる生徒たちの表情が、徐々に変わっていく。まるで、別人を見ているかのように。
「あれ?水野さん、さっきより背が高くない?」
「何言ってるの。むしろ小柄になったわ」
「髪型も違うような……」
「いつもとは違う」
囁き合う声。しかし、誰もその「違い」を明確に説明できない。
昼休み。
「ねえ、水野さんって、やっぱりモデルやってたの?」
美咲が率先して話しかける。その目は、異常なまでに輝いていた。
「いいえ」
水野澪は穏やかに微笑む。その表情は完璧すぎた。人工的なまでに。
「普通の女の子です」
その言葉に、妙な違和感を覚えた。普通の女の子。その言葉自体が、彼女との間に大きな溝を作っているように感じた。まるで、人形が「私は人間です」と言っているような。
昼食時、私は食堂で驚くべき光景を目にした。
水野澪の周りに集まった生徒たち。しかし、彼女は一切食事をしていない。ただそこに座っているだけなのに、周囲の生徒たちは彼女に見とれ、自分たちの食事すら忘れているようだった。中には、箸を持ったまま固まっている生徒もいる。その表情は、まるで催眠術にかかったかのようだった。
そして、もっと奇妙なことに気がついた。
食堂の大きな鏡に映る水野澪の姿が、見る角度によって異なるのだ。
正面から見れば清楚な美少女。
斜めから見れば大人びた麗人。
そして、真横からは——。
私は思わず目を瞬いた。真横からの姿は、まるで——空白だった。いや、そうではない。「何か」はあった。しかし、それは人の形をしていなかった。
昼休みが終わる頃、トイレで聞こえてきた会話。
「ねえ、水野さんの顔って、見れば見るほど綺麗よね」
「そうそう。見ているだけで、吸い込まれそう」
「私、夢の中でも水野さんを見たの」
「私も!私も!」
笑い声が響く。しかし、その声には異様な熱が籠もっていた。まるで、熱病に取り憑かれたような。その笑い声は、次第に狂気じみたものに変わっていった。
放課後、私は図書委員の仕事で図書室に向かっていた。すると、美術室の前で立ち止まる人影が目に入った。
水野澪だった。
彼女は、薄暗い美術室の中を、まるで何かを探すように見つめている。夕暮れの光が、彼女の横顔を不思議な色に染めていた。その姿は、まるで浮世絵から抜け出してきたような、非現実的な美しさを持っていた。しかし同時に、どこか「間違った」ものにも見えた。
その時、美術室の中から物音が聞こえた。
「誰かいるの?」
私は思わず声をかけた。
水野澪が振り向く。しかし、その表情が見えない。逆光のせいだろうか。いや、違う。表情が「ない」のだ。まるで、顔の部分だけが闇に飲み込まれているかのように。
「ごめんなさい。気になる絵があったから」
彼女の声は、さっきの教室とは違って、どこか虚ろに響いた。まるで深い井戸の底から聞こえてくるような声。その声を聞いていると、私の意識も徐々に沈んでいくような感覚に襲われた。
「美術室は放課後は施錠されるはずなんだけど……」
私が言いかけたとき、廊下の突き当たりから、清掃員の足音が近づいてきた。
振り返ると、水野澪の姿はもうそこにはなかった。
まるで、最初から誰もいなかったかのように。しかし、美術室の窓ガラスには、何かが映っていた。人の形。だが、その「顔」は——空白だった。いや、空白ですらなかった。それは、まるで現実の一部が欠落しているかのような、異常な空間だった。
私は思わず目を逸らした。その瞬間、背後から冷たい息が首筋に触れたような気がした。振り返ると、そこには誰もいない。しかし、廊下の床には、水のような跡が続いていた。それは美術室の方へと続いている。
その夜、私は不思議な夢を見た。
美術室の絵画が、次々と顔を失っていく夢。額縁の中の人物たちが、一斉に私の方を向く。しかし、彼らには顔がない。そして、それらの「顔のない肖像画」たちが、ゆっくりと額縁から這い出してくる。彼らは私の周りを取り囲み、そして——。
目が覚めた時、なぜか頬が濡れていた。まるで、誰かが私の顔を撫でていったかのように。鏡を見ると、そこには薄い指の跡が。それは冷たく、しかも水のように流れ落ちていた。瞬く間に消えていったが、確かにそこにあったのだ。
翌日から、水野澪は学校の話題の中心となった。しかし、その話題の中心は、日に日に異常さを増していった。
「私、昨日の帰り道で水野さんを見かけたの」
由香里が、朝のホームルーム前に興奮した様子で話し始めた。その目は、異常なまでに輝いていた。
「本当に綺麗だったよ。まるでルネサンス期の肖像画のモデルみたいな顔立ちで。でも、その……」
由香里の声が急に震え始めた。
「でも、写真を撮ろうとしたら、スマートフォンが壊れちゃって」
「え?由香里が見たのって、駅前の本屋の前?」
美咲が割り込んでくる。その声も、どこか不安定だった。
「私も見たよ。でも全然違う。着物が似合いそうな和風美人だったじゃない。浮世絵の美人画そのものだったわ。私も写真を撮ろうとしたんだけど……」
美咲は言葉を途切れさせた。その手が小刻みに震えている。
由香里と美咲の会話に、不穏な空気が広がる。二人の目は、どこか虚ろだ。まるで、自分の見た光景が本当だったのか、確信が持てないような様子。
「二人とも何言ってるの?」
私は思わず口を挟んだ。
「水野さんって、もっとナチュラルな……」
その時、教室の扉が開いた。
水野澪が入ってくる。
朝の光を背に受けた彼女の姿は、まるで透明になりそうなほど儚げに見えた。しかし、その表情は昨日の放課後のように虚ろではなく、穏やかな微笑みを湛えている。だが、その微笑みには何か不自然なものがあった。まるで、誰かに強制されているかのような。あるいは、人形の表情のような。
「おはよう」
彼女の声が教室に響く。その瞬間、私は恐ろしいことに気づいた。
クラスメイト全員が、それぞれ違う表情で彼女を見つめているということに。そして、彼女たちの目が、どこか狂気的な輝きを帯びていることに。まるで、一斉に催眠術にかかったかのように。
昼休み、再びトイレで聞こえてきた会話。今度は複数の声が重なり合っていた。
「ねえ、水野さんの顔って、見れば見るほど綺麗よね」
「そうそう。見ているだけで、吸い込まれそう」
「私、夢の中でも水野さんを見たの」
「私も!私も!」
「でも、どんな顔だったっけ?」
「え?それは……」
笑い声が響く。しかし、その声には異様な熱が籠もっていた。まるで、熱病に取り憑かれたような。そして、その笑い声は次第に不安げなものに変わっていった。
「私、思い出せない……」
「私も……どんな顔だったっけ?」
「でも、綺麗だったのは確かよ」
「そう、確かに綺麗だった……」
狂気じみた笑い声が、トイレの中に渦巻いていく。
そして、その日の午後。最初の「事件」が起きた。
美術部の顧問である高木先生が、突然職員室で発狂したのだ。
「描けない……描けない……!」
先生は、スケッチブックを抱えたまま、床に崩れ落ちていた。その目は、何かに取り憑かれたように見開かれている。瞳孔は異常なまでに開いていた。
そのスケッチブックには、無数の顔の習作が描かれていた。しかし、どの顔も途中で歪み、最後は紙が破れるほど強く線が引かれている。まるで、必死に何かを捉えようとして、できなかったかのように。
さらに不気味なことに、それらの絵の中には、私たちの顔も混じっていた。由香里、美咲、そして私自身の顔も。しかし、それらの顔は全て、水野澪の顔に溶け込んでいくように歪んでいた。
そして、その全ての絵の隅には、小さく「水野」というサインが記されていた。さらに不気味なことに、それらのサインは、明らかに先生の筆跡ではなかった。まるで、誰かが後から書き加えたかのように。いや、自然に「にじみ出た」かのように。
この出来事は、ただの序章に過ぎなかった。
誰も気づいていなかったが、私たちの日常は、その日から少しずつ、けれど確実に崩れ始めていた。
水野澪の存在は、まるで静かな湖に投げ込まれた一つの石のように、波紋を広げていく。その波紋は、見る者の心を少しずつ蝕んでいった。
そして私は、その波紋の中心にいた。気付けば、私の机の上には、意識せずに描いていた無数の顔のスケッチが。しかし、それらは全て私の手によって引き裂かれていた。
その夜、寮の廊下で、また悲鳴が聞こえた。今度は、はっきりと言葉になっていた。
「私の顔が……私の顔が……!」
しかし翌朝には、誰も悲鳴のことを覚えていなかった。まるで、その出来事自体が幻だったかのように。
ただ、美術室の前の廊下に、一枚の紙が落ちていた。
それは破られたスケッチブックの一頁。
そこには、顔のない少女の姿が描かれていた。
そして、その裏には、水滴のような染みと共に、一行の文字が。
「あなたの顔を、いただきます」
(第1章・終)
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