天使のいない部屋

霧草 若

天使のいない部屋

「天使のいない部屋でお願いします」

 僕がそう言うと、向かいに座った不動産屋の男は、少し虚を突かれたような顔をした。だが、さすがは客商売のプロというべきだろうか、彼はすぐにいつもの憎たらしい笑顔に戻り、こう返してきた。

「お客様のご予算でしたら、天使付きでも十分に選択肢がございますよ」

「いえ、天使がいないほうがいいんです」

 僕は即答した。この答えを聞いて、不動産屋は僕を変な客と認定したのだろう。それから彼が天使付きの部屋を勧めてくることはなく、物件選びは淡々と進行した。


 今どきの物件はどれも天使がいるから、天使のいない部屋となると古い建物に限られてしまう。しかし、古い物件だからといって天使なしとは限らない。集客意欲のある大家なら、空室になったタイミングで業者に依頼し、天使を呼んでもらうのがセオリーだ。だから、天使なしの物件は古いだけでなく、あまりまじめに管理されていないということになる。

 しかしながら、どんなことにも例外はあるものだ。一軒だけ、天使なしの割には築浅で、かつ管理の行き届いたアパートが見つかった。そして僕は、運良くそこの一室を借りることができた。


 僕が新居に移動してからしばらく経ち、季節は夏になった。天使なしの物件だとエアコンもついていないことが多いが、ここにはちゃんと最新式のものが設置されていた。おかげで、この夏は快適に過ごせそうだった。

 また、時々廊下ですれ違う別室の住人の姿も、僕を安心させてくれた。彼らの顔には、世間に蔓延るあの憎たらしい笑顔が浮かんでいなかった。みんな僕と似たような人たちなのだろう。そういえば、炎天下でマスクをしている人も見かけた。世間から見れば不審者だろうが、僕にはあの人の気持ちがよくわかった。きっと天使の影響を受けまいと、ささやかな抵抗をしていたのだ。


 ある雨の休日、僕は散歩に出かけることにした。雨の日を選ぶのはもちろん、人混みを避けるためだ。いつもの防水靴を履き、大きな傘を片手に玄関の戸を開けると、湿った夏の空気が鼻をかすめた。


 丘の上にある公園は、普段は家族連れでにぎわっているが、今日みたいな日は静かだ。僕はお気に入りの東屋に到着すると、濡れたイスをタオルでぬぐい、そこに腰かけた。そうして、ただ雨音に聞き耽るうちに、ふと昔のことを思い出した。あれはまだ、僕が地元で学生をやっていた頃の話だ。学生といっても学校にはほとんど行かず、たまに保健室に顔を出す程度だったが。そして雨の日には、今日みたいに東屋でぼんやりとした時間を過ごしていた。やっていることは変わらないなと思うが、今と違う点が一つあった。それは、そこに常連がもう一人いたということだ。


 二人の常連、つまり僕とあの子の間には、二つの共通点があった。一つは、同じ学校の生徒であるということ。もう一つは、あの憎たらしい笑顔が苦手であるということ。僕らは同じ世界から同じ理由で逃げ出し、同じ場所にたどり着いた仲間だった。ただ、僕らは全然社交的ではなかったから、それ以上深くお互いを知ろうとはしなかった。


 彼女は今どうしているのだろう。卒業後は全く連絡を取っていないし、そもそも取る手段もない。社会に順応してうまくやっているのだろうか、それとも…。その先の言葉を考えようとして、やめた。こんなことを気にしても仕方がないのだ。そう切り替えて、立ち上がろうとしたその時だった。


 目の前に彼女が立っていた。ずいぶんと大人びてはいたが、確かにその顔に見覚えがあった。そして何より、僕を見た彼女の瞳に広がった驚きが、僕らが初対面でないことを証明していた。


 僕の胸は一瞬跳ねあがったが、それはすぐに懊悩へと変わった。彼女の表情に、あの憎たらしい笑顔の残滓が見て取れたからだ。彼女はあの頃と同じ物憂げな表情を作っていたが、そのことがむしろ僕の心を一層痛め付けた。


「あなたは、変わらないのね」

「きみは、ずいぶん変わったね」

 僕は叫びたくなる気持ちを抑え、ギリギリのところで返事をした。彼女はそれを感じ取ったのか、何も返さなかった。しばらくの間沈黙が流れ、雨音だけが場を支配していた。


 やがて彼女は、意を決したように語りだした。

「私は今、天使の研究をしているの。もしよかったら、見に来ない?」

 まったく想定外の提案だったので、僕はうっかり、ああ、と返してしまった。


 そこは、名門大学のとある研究室だった。日夜優秀な研究者が働いているであろう実験室は、悪天候の休日とあって無人だった。僕はその実験室の隣にある、こぢんまりとした応接室に通された。


「飲み物を用意するからちょっと待ってて」

「お構いなく」

 僕がそう告げるのも待たず、彼女はそのまま隣の部屋に入っていった。ほどなくして、彼女は二人分のアイスコーヒーを持って帰ってきた。


 コーヒーを少し飲んだあと、彼女はこう切り出した。

「ねえ、覚えているかしら?私たちも天使にかぶれるべきか否かについて話し合ったときのこと」

「もちろん、覚えているよ。確かあの時の結論は、こんな感じだったよね。確かに天使に触れれば僕らはより社交的になり、より生きやすくなり、より幸せになれるかもしれない。でもそれは、本当に素晴らしいことだろうか。幸せになれる新しい人格を形成することは、本来の人格の擬似的な死とすら呼べるのではないか、と」

 僕は自分が前のめりになっていることに気付き、少し恥ずかしくなってこう付け加えた。

「まあ、大体君の受け売りなんだけど」

「そうね…」

 彼女は懐かしむようにつぶやいた。


「じゃあ、今度は別の質問をするわ。そもそもなぜ、天使は人の性格を変えてしまうのだと思う?」

 彼女は話題を変えた。そしてこれこそが彼女の研究の核心なのだと、僕は直感した。僕は黙って首を横に振り、彼女に説明を促した。

「今まで、いろいろな説が唱えられてきたわ。本当に天使が存在して、私たちに働きかけているという説。天使を強く信じることで、プラセボ効果で変化が起きるという説。あるいは、みんなで同じ物語を信じることが、安心感を生むという説。でもどれも、これといった証拠は提示できなかった」

 ここまでは、僕でも知っている話だ。彼女は僕の理解を確認し、説明を続ける。

「それで、私はあるとき思ったの。みんなが考えるような高尚な仕組みなんてなくて、もっと別の、身も蓋もない理由があるんじゃないかって。それで、この研究を始めたの」

 彼女の弁はそこからさらに熱を帯びた。結論を要約すると、防音や断熱のための建材と天使呼びの聖水がゆっくりと反応し、その生成物が揮発して居住空間に放出され、それを住人が吸い込むことで精神に変化が起きる、という仕組みらしい。

 とても興味深い話ではあったのだが、小難しい理論をずっと聞いていたせいか、僕はだんだんと眠気に襲われだした。飲みかけのコーヒーを一気に口に流し込んでみたが、それも効果がなかった。

 そんな僕の様子を見て、彼女は少し変なことを口にした。

「ごめんなさい。でも、私はあなたを救いたかったの。かつてあなたがそうしてくれたように」

 僕の曖昧な意識はその言葉の意味を理解できなかったが、そこにある優しさだけは感じ取ることができた。

「それで、さっきの話の続きだけど、この生成物を精製して水に溶かして飲むと、人体にとても効率的に吸収されることが分かったの。その際の副作用として強烈な眠気を催すのだけど、これは一時的なものだから安心して…」

 微睡の中にいる僕には、もう彼女の言葉は届いていなかった。


 カラッとした冬晴れのある日、不動産屋の男は爽やかな笑顔でこう挨拶した。

「お客様、ようこそいらっしゃいました。前回に引き続き、また我が社をお選びいただけましたこと、恐悦至極に存じます。さて今回、お客様はお二人で入居する物件をお探しと伺っております。まずは物件に対するお客様のご希望をお聞かせ願えますでしょうか?」

 僕は同じ笑顔を作ってこう答えた。

「天使のいる部屋でお願いします」

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天使のいない部屋 霧草 若 @kirikusa_waka

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