わたしのテオへ

「……あの……本当に、いいんですか? 唄先生……」


「ふぇ? なにがぁ?」


 シャクリ、レタスを咀嚼する音をぬるりと上塗りする声が、火花の後ろから響いてくる。


 テーブルについて朝食を口へ放る火花は、唄に惚けられてもなお、気にせずにいられなかった。……替えの服がなくって、唄のワンピースドレスを借りていることをか――――違う。唄のために作った朝食が、目の前でどんどん冷めてしまっていることをか――――違う。


 シャクリ、瑞々しい音を奏でてしまう、己の歯を。

 彼女はゆっくり、ゆっくり、止まっているのと相違ないほど緩やかに動かしていた。


「……私が、ここにいて……いいん、ですか? 本当に……?」


「…………? どうゆう、こと?」


「……そのまんまの意味ですけど……あぁいや違う違う! 出ていこうって話ではないです断じて! そうじゃなくって……その、私……作業中は邪魔だったりしないですか……?」


 魚焼きグリルで焼いた網目模様のパンに、恐る恐る噛みつきながら火花は言う。


 ザクゥっ、と硬い表面が割れる音にすら。

 背筋を跳ねさせ、ちらちらと、背後へ一瞬視線をやってしまう。


「……んぅ?」


「…………う、唄先生は、今まで、ずっと独りで、描いていたんですよね……? 作品、創っていたんですよね……? この部屋で、独りきりで……誰にも、邪魔されないで、想い描く作品の世界観に没頭して、ストーリーを夢想して――――で、でも今は、私が、いちゃってますし……や、やっぱり、向こうの寝室にでも――」


「そっ、そんなことしなくていいよぉ! ――――っ、とと、っとぉ…………どうしちゃったのさぁ、火花ちゃん……」


 音を立てて立ち上がろうとした火花を、唄は慌てて制した。背後から椅子の倒れる音がして、火花の衝動は強引に堰き止められた。


 ……本当は、振り返りたかった。椅子を倒してまで自分を止めた唄が、怪我をしていないかだけでも確認したかった。


 けれど、彼女は振り向けない。

 後ろを向いたら見えてしまう――――今まさに、完成へ向けて色付けされている、無耳唄の芸術が。


 だから――


「……不安、なんです、私…………。唄先生が独りで、独力で、築き上げて積み上げてきた世界観が、価値観が、作品の雰囲気が――――私っていう異物がいることで、濁っちゃわないか。弛んじゃわないか、鈍っちゃわないか。……私が、邪魔になって作品が損なわれるのは……嫌、です。怖い、怖いです、なによりも……!」


 友人ができてから、絵のタッチが変わった。

 妻と結ばれてから、作風が変化した。

 子供が生まれてから、テーマが別物へ変移した。


 ――――画家に限らずあらゆるクリエイターに、生じ続けてきた変貌だ。時にはプラスに働き、時には破滅へ手招きする。特別でもなんでもない、誰にでも起こり得る心情の変転。


 それが、戸練火花には。

 堪らなく恐ろしいものに思えて、仕方がなかった。


「私……唄先生の作品が、本当に好きだから、大好きだから――――だからっ! ……私の所為で、集中を欠いたり精彩を欠いたり、そんなことを、させたくないんです……。一緒にはいますけど、約束しましたけど、でも……でも作業中はやっぱり、別の部屋にいた方が唄先生も集中――」


「……え、へ」


 と。


 くるくるとフォークを忙しなく動かしながらも、声以外の音を立てないよう固まっていた火花へ。

 唄は、込み上げてきたのを漏らしてしまったように、笑い声を聞かせてきた。


「えへ、えへへへ、ふえへへへへへへへへへへへへへぇ…………」


「……唄、先生……?」


「ふえへへへへへ……そっか、そっかそっかぁ、そっかぁ……。えへへへぇ……わたし、火花ちゃんのこと、ちょっと誤解してたかもなぁ」


「誤解……?」


「もっと、凄ぉい娘だと思ってたの。わたしみたいなさ、社会不適合な犯罪者にまで優しくってぇ、お料理上手でぇ、お掃除もできてぇ、……わたしの、本当に欲しかった言葉も、解釈も、感情も、全部くれて――――けれど、ね」


 喋りながら、会話しながらでも、唄の手は止まることを知らない。ぴちゃっ、びちゃっ、と水音を絶えず立て続け、数時間前まで白紙だったキャンバスに色を乗せていく。


 再び切り裂かれた左腕は、既に長い一の字が赤黒く固まっていて。


 絵筆へ色を染みさせては、迷いなく、絵の上へ走らせる。


 その音は一デシベルたりとも取り零しなく、火花の耳にも、届いていた。


「……けれど……?」


「ふえへへへ……火花ちゃん、わたしに気を遣い過ぎて、変な心配しちゃってて……そゆところ、わたしと似てるなぁ、おんなじだなぁって――――そう思ったら、なんだか嬉しくって」


「嬉しい……?」


「そうだよぉ。だってわたし、火花ちゃんのこと大好きだもん。……好きな人と、似ているところがあったら、それは、嬉しくなっちゃうよ。なんだか、そう……運命、みたいなの、感じちゃうじゃん……?」


 だから、ね?


 ――――びちゃぁっ、と大胆に筆を振るって。告白より大胆な昂りを誤魔化しながら。

 唄は、取り組んでいる絵だけに視線を注いで、背後の火花へと、懇願を投げた。


「いない方がいい、邪魔だ、なんてさ、思わないでほしい、な……? むしろ……わたし、もっと火花ちゃんを知りたい、火花ちゃんとお話ししたい、もっと……火花ちゃんが、大好きな人が、わたしの絵を好きって言ってくれる人が、傍にいるんだって……感じさせてほしい……。その方がね、絶対、作品も、いいものになるから…………ね?」


「……………………」


 唄の、一世一代の口説き文句を聴いて。

 火花はなおも浮かしかけていた腰を、深く椅子へとこすりつけた。


「……好きな人と、同じところがあると、嬉しい…………っふふふ。確かに……そう、かもですね」


「! わ、分かってくれた? 火花ちゃん」


「はい。……杞憂、っていうんでしたっけ? それみたいでよかったです。……私もそうでしたし、気持ち、なんとなく分かりますから」


「んぅ? 火花ちゃんも……? ……そ、それってさ、さ、も、もしかして、もしかしてさ……わたしの話、だったりする、しちゃう、かな……?」


「っふふ、唄先生、照れてるの分かりやすいですね。……はい、そうですよぉ」


 シャクリ、シャクリ、シャクリ、シャクリ。

 お墨付きを得られたからか、火花の食事から遠慮が薄らいだ。フォークでザクザク貫いたレタスを、口いっぱいに頬張って噛み砕く。素材本来の味で殴るタイプのサラダは、青臭い風味を残して胃へと落ちていった。


「私、赤が一番好きな色なんですよ。……ネットで、初めて唄先生の絵を拝見した時、ひと目で惹かれました。引き込まれました。作品全体に散りばめられた血の赤が、あんまりにも鮮烈で、鮮明で――――あんなに赤色を正面から、堂々と美しく表現した絵は、初めてだったんです」


「…………変な奴の描いた絵、とか、思わなかったの……? ネットだし……反応だって、すぐ見られるでしょう……?」


 ――――曰く、不気味な絵。

 ――――曰く、厨二病を拗らせている。

 ――――曰く、奇を衒い過ぎたお寒いゴア表現。


 自身の絵が、ネット上でそんな風に評されていることを、唄は知っていた。自覚していた。極々少数は肯定的な意見もあるけれど、そんな人たちの書き連ねた文言は、彼女の心を動かさなかった。


 火花が自身の絵を、真摯に見てくれているのは知っているけれど。

 いや、知っているからこそ、彼女はつい、訊いてしまう。訊ねてしまう。


「あんな薄っぺらな連中のつまらない感想なんて、どうでもいいですよ」


 ――――望んだ通りの言葉が聴けて。

 耳が、燃えるように熱かった。笑い声を抑えるのに必死で、筆先まで頼りなく震えてしまっていた。


 そんな唄の喜色満面など、知る由もなく。

 火花は、ザクザク、ザクザクとサラダを蹂躙しながら険しい口調で続けた。


「『奴隷商の夜の檻』では喰われている女奴隷より、喰っている女奴隷の方にこそ赤が多い。生きている彼女が、死んでしまった奴隷をそのまま寄越されて、一体どんな気持ちで解体したのか! その肉を喰うという行動は飢えを凌ぐためなのか、主からの罰なのか、それとも弔いなのか! 血の配分ひとつで絵に込められたストーリーが幾重にも花開くんですっ!『絶対多数へ捧げる犠牲』だったら、アングル的に明らかにおかしく大きな血溜まりが見えました! あれは首を吊られた男を、誰かが下から眺めている構図だったからですよねっ!?『美麗九相図』なんて言うまでもありませんっ!! 朽ちていくごとに色合いも風合いも変化していく、圧倒的な血の表現……唄先生の作品はっ! あの鮮やかな赤があってこそ輝くんですっ!! ――――それをまぁ、不気味だのキモいだの語彙力が足りない、表面しか見られない匿名を盾にしたバカ共が平然と揶揄するっ!! あんな紙より薄っぺらな連中の戯言を、唄先生が気にする必要なんてないんですっ!!」


「え、えへへ、ふえへへへへへ……ありがとう、ねぇ、火花ちゃん。…………でも、まぁ――」


 ネットの意見も、大して間違ってはいないよ。


 ――――ぴっ、ぴっ、筆を振って絵の具を飛ばしながら、唄は言う。

 慰めの言葉欲しさではなく、ある種の、愚痴の混じった懺悔のように。


「なにを言って――」


「わたし……火花ちゃんに昨日、気付かせてもらうまで、さ。赤色とか、血とか、そういう自分が描きたいもの全部……漫然と、描いてたんだ。手癖みたいに描いちゃってた。……なぁんで自分が、こんなに血に執着するのかとか……あんまり、考えなかった。忘れちゃってた。……薄っぺらだったのは、だから、わたしもおんなじなんだよ……」


「……仮面効果で箍の外れたバカ共と、唄先生が同じだっていうのは、断固違うって言い続けますけど」


 けど、気になりました。


 ――――残っていたトーストを口へと放り、最低限の咀嚼で飲み込みながら、火花はやはり後ろを向くことはなく、代わりに天井を仰いで続けた。


「なんで、唄先生が血に執着するのか……そういえば、訊いていませんでしたね。唄先生、ネットでそういうの呟かないですし。……せっかく、唄先生の近くにいられるんです。聴きたいです、聴かせてください。唄先生の……創作の、根源を」


「な……なんか、期待、させちゃってる……? 別に、そんな面白くはないよぉ? 特別って訳でもないし…………聴いてガッカリしちゃわないでねぇ……?」


 そう前置きして、予防線を張りはしたが。

 唄は、話すこと自体には前向きだった。気分に呼応しているのか、いつもより筆の動きがずっといい。想い描いていた通りに色が乗り、想像した通りの、それ以上の絵が出来上がっていく。


 己の血を数滴混ぜた、生々しい赤で撫でながら。


「……幼稚園に通ってた頃の、話なんだけどね」


 求められた通りに、彼女は言葉を吐き始める。

 顔を合わせない声だけのやり取りである点も、奇しくも懺悔室のそれと類似していた。


「男の子のひとりがさ、工作の時間にふざけて、カッターをね、振り回してたの。それがたまたま、わたしの額をこう、びーって、切り裂いちゃって…………不思議とね、痛くはなかったの。熱かったりもしなかった。代わりに……眼の中にまで垂れてきた、真っ赤な血……あの赤さだけが凄く、凄く強烈に、記憶に残ってるんだぁ……」


「…………」


「わたし、血を見たのってその時が初めてで……なんて綺麗なんだろうって、ドキドキが止まんなくって…………同時に段々とね、息が苦しくなっちゃってさ。倒れちゃったの。昔は今に輪をかけて、細くて小さくて弱っちかったから、額を切られたくらいですぅぐ、貧血になっちゃった。……けど、それがよかったんだと、今は思うんだ」


「……倒れちゃったことが、ですか……?」


「うん。だって……あれがあったからわたし、あの真っ赤な血が、わたしの命だって分かったんだもん。だらだらって、ぼたぼたって、が流れ出て失われて……それを、綺麗だって、わたしは思ったの。命が一番輝くのは、が失われるその時だって、眼に張りついたあの赤が、教えてくれたんだぁ……!」


「……………………」


 聴いていた。聴いていた。聴いていた。聴いていた。

 一言一句逃すことなく、火花は唄の話を傾聴していた。幼稚園でのエピソードも、血の赤への感動も、気絶した事実も、そこからの結論も、余さず漏らさず。


 それでも彼女は、考える。思考する。

 敬愛する芸術家の論理を紐解こうと、懸命に、頭を働かせる――


「だから――――ありがとう。火花ちゃん」


 と。

 囁くように言いながら、ふわり、と。


 火花の矮躯を後ろから椅子ごと抱き締める唄の、その細く傷だらけの腕は。


 手に染みついた絵の具の匂いと共に、火花の思考を止めさせた。


「――……唄、先生……?」


「火花ちゃん……あなたは、わたしに、思い出させてくれた。……赤の、価値を。血の、意味を――――血が流れ命の喪われていく、その一瞬を切り取って表現したいっていう、わたしの、根源を」


 だから、この作品はね。

 復帰作、みたいなものだから。

 一番に、あなたに、見てほしいの。


 ――――不思議そうに、唄の両腕へと手を伸ばしていた火花の目の色が、がらりと変わった。


 顔を上げ、覗き込む唄の顔を見つめる火花。そんな彼女の鼻息が荒いのは、見ていれば分かるし、それ以上に。


 さりげなく、胸へと触れている指先が、どくどくと震えるほどに。

 火花の鼓動が速く猛っていることが、唄の胸すらもぞくぞく震わせた。


「っ……見て、いいですか……!? 唄先生……!!」


「……うん、勿論。聴きたい、な。火花ちゃんの、生の感想」


 ほどけた腕の隙間から、飛び出すように火花は椅子を下りて。


 やっと、振り向いた。振り返った。寝起きに我慢できずに見てしまった未完成の絵が、赤に染められて完成しているのが見えた。


 一歩、また一歩。

 幾星霜にも及ぶ冒険の末に見つけた宝物へ近寄るように、歩を進める。



「タイトルは、ね……『貴女が欲しくって』」



 その後ろ姿を見送る唄は、小さく頬を引っ掻きながら。

 再びのぼせてしまいそうなほどに顔が熱いのを堪え、最低限の礼儀として火花へ伝えた。


「昨日、の、夕方…………っ、わ、わたし、が……わたしが、火花ちゃんが欲しくって、……攫っちゃった、のを……題材に、描きまし、た……え、えへ、えへへ、ふえへへへへへへへへへへ……」


 ――『い、今までみたい、に、ね、ネットに上げなくたって、いい、もういい……』

 ――『火花ちゃんに、火花ちゃんだけに見てもらえれば、それでいいの……!』

 ――『わたし……火花ちゃんのためだけに、作品を創りたい……!』


 昨日の、あの言葉に偽りがなくて、火花は、凄絶に目を輝かせて笑顔を作った。



 血。血。血。血。血。血。血。血。



 髪の白い少女が、頭を血まみれにしているその絵画は、確かに。

 ネットに上げる訳にはいかない、自供にも近い仕上がりとなっていた。

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