浮世穢離れ
――――もう、何分続いただろう。情熱的というにはあまりに湿ぼったい、ぐじゅぐじゅと音を立てる抱擁は。
「…………唄先生」
「ごめ、ん……もう、ちょっと……もうちょっとだけ……お願い……」
「……っふふ。仕方ないんですから、唄先生は……」
そう言う火花も、さすがに膝を立て続けるには限界があった。唄が身体から力を抜いて、しな垂れかかってくるのをいいことに、すっかり正座に戻っていて、抱き締めているというより凭れさせているに近い。
真っ赤なシャツも、青のオーバーオールも。
見るまでもなく唄の涙と鼻水で、ぐじゃぐじゃに濡れてしまっている。これがクラスメートの狼藉なら椅子でも振り回してキレ散らかすが、眼前の芸術家相手なら不思議と怒りは湧かなかった。
「火花ちゃん……火花ちゃん、火花ちゃん……♪」
鼻水を啜り、涙を止める術も知らないまま、唄は唱え続ける。歌い続ける。
――――無耳唄は、成人女性としては小柄な方だ。
それでもなお、未だ中学生の火花の方が矮躯の度合いでは上だった。人より短い腕でもぐるりと体躯を半周できてしまう、そんな小ささをぎゅうっと、抱き締めて痛感する。火傷しそうなくらいに高い体温を、すぐにでも折れてしまいそうな柔らかさを、立ち上る甘い香りを、全身で何度でも確かめる。
――綺麗。
――可愛い。小さい。愛おしい。……大好き。
「すぅー……えへ、ふえへへへへ……」
自分と同じくらいに短く整えられた、火花の真っ白な髪を撫でる。指を通す。絡めて鼻先へ寄せて、口付けするように香りを確かめる。
不思議だった。自分だって火花と同じ、XX染色体を持つ女性なのに。
自分の身体から、こんな甘美な匂いを感じたことはなかった。息をすることに集中していないと、思わず口に含んでしまいそうなほど、火花はどこもかしこもいい匂いがして、涙に加えて涎まで零れてしまう。
特にその白い髪は、少しだけ蒸れた柔らかい頭皮は。
脳の真ん中、下の方を絞るように刺激してきて――――生唾を飲む音が、鼓膜を内外から揺らしてやけに大きく聞こえる。
「すぅー……すぅー、すぅー……」
吐く量を明らかに上回る空気を、鼻が痛むくらい吸い込む。
夢みたいだった。ふわふわと意識が宙に浮いて、閉じた目蓋の裏はパステルなピンク色をしていた。
彼女にとって、こんな蛮行は一世一代の勇気を振り絞ったものだった。
普段は虫すら殺せない。ネットの非難に反論もできない。人を殴るなんて、考えたこともない人生だった。それでも、この少女を自分のものにしたかった。どこにも行かない最大の理解者を、たった独りの唯一を、誰にも渡したくなかった。
この温もりも、柔らかさも、甘さも、香りも、優しさも、輝きも、全部、全部。
「すぅー…………ふはぁ――」
抵抗しない。受け容れてくれる。文句のひとつも言わずにずっと、頭を撫でてくれる。
もう、何分経っただろう。それとももう、何時間になっただろうか。
それでもまだ、足りなかった。貪欲だった。耳の裏に鼻先をこすりつけて――――そこへ垂れてくる髪の毛が、まるで砂糖を縒った糸のようで。
思わず、無耳唄は。
くあぁ、と口を開けて、そこへ。
舌先を伸ばし、唇の内側へと。
彼女の、真っ白な髪の毛を――
――――ぐぅ~ぎゅるるるるるぅ……、と、壊れたエンジンのような音が鳴り響いた。
「へ?」
「っ~~~~~~~~!?」
火花の困惑は、唄の声にならない悲鳴に掻き消された。
彼女の矮躯から手を離し、一気に距離を取るように膝だけで跳ねる唄。腹を押さえた唄の顔は、泣き腫らしているのか恥じらっているのか、どちらにせよ絵の具を塗りたくったように真っ赤だった。
「……唄先生、おなか――」
「ちちっ、違うのっ! い、今のはその、えと、なんていうか…………そう! い、家のガス管がたまに変な音立てるからそれが――」
――――ぐぎゅぅるるるるるぎゅるぅ~るる……っ!
……ますます、唄の顔は赤一色に染まっていった。最早言い訳など立ちはしない、むしろその赤く恥じらった顔こそが、なによりの証拠だった。
「……おなか、空いたんですか? 唄先生」
「っ……そ、その、ね? ちょっと、あの、たまたま、たまたまね!? たまたま今回はちょっと大きめにおなか鳴っちゃっただけで、いつもはこんなこと、ない、ないんだからねっ!? し、信じて……? だってその、えと…………個展、初めてだったから、ね? 緊張して……二日くらいあんまり、ちゃんとごはん、食べられなかったというか……そ、そう! その所為だからっ!! その所為で――」
「……っふふ」
火花は。
長々と言い訳に終始する、唄の狼狽を見て、小さく笑った。
「唄先生……可ぁ愛い」
「っ……あ、あうあう、あぁうぅ…………」
言われて唄は、どう反応すべきか分からず、口をぱくぱく動かすだけになってしまった。
ひと回りも歳下の少女に『可愛い』と言われて、怒るべきなのか、恥じらうのが正解なのか。
それとも――――ふつふつと湧き起こる感情に身を任せ、口角を上げてしまうのが正しいのか。
分からなくて、動けなくて――――その硬直に「でも」と火花は言葉を差し挟んできた。
「二日もロクに食べていないんじゃ……我慢するより、身体の欲求に素直に従った方がいいですね。ごはん、食べましょう? 唄先生。空腹で倒れたりしちゃったら、作品制作に障っちゃいますし」
「っ……、う、うん、そう、そう、だよね……うん。ごはん、ごはん食べなきゃだ…………あぁそれにっ! 火花ちゃんも、おなか空いたよね? もう夜だもん。ご、ごめんね気が利かなくって……えぇっと、電気電気……」
「き、気にしないでくださいよぉ。……まぁご相伴に与れるならありがたく……」
ごそごそとワンピースドレスをまさぐっている唄へ、火花は遠慮がちに言う。
やがて、ポケットへ乱雑に仕舞い込んでいたリモコンを見つけた唄が、天井めがけてボタンを押す。幾度かの明滅を繰り返した後、丸型の蛍光灯が煌々と灯り――――やっと、部屋の全貌が露わになった。
「っ……ここ、が……!」
火花は、思わず息を呑んだ。
ただの居住空間だったら、別に驚くには値しない。しかしそこは、単なる生活スペースではなかった。腐臭や絵の具の匂いが濃いことに、ようやく得心がいった。
火花が座っていたのは、窓際のキッチンスペース。四人掛けの木製テーブルで区切られた生活空間であり。
その向こうには――――芸術家・無耳唄の、アトリエがあった。
「…………っ!」
ブルーシートが敷かれた床には、テーブルに遮られてはいるが椅子と、キャンバスが見える。そして壁の周りには、絵の具の缶や瓶、何十本もの筆が山と積まれていて――――その全てを、取り囲むように。
絵が、あった。
絵、絵、絵、絵。絵画、絵画、絵画、絵画。
すっかり痛みの引いていた膝を立てて、四方八方無造作に立てかけられた作品たちを見渡す。どれもがネットで見たことのある絵……では、ない。火花が今まで見たことのない絵も、何枚も交じっていた。
ただどの絵も、一枚たりとも例外なく。
赤い。赤い。赤い。赤い。
血。血。血。血。
無耳唄の作品たちは、未発表のものまで遍く全て、鮮烈な血の赤で彩られていた。
「…………!」
見たい。観たい。鑑賞したい。作品の背景へ思いを馳せたい妄想したい。
その衝動は、火花を立ち上がらせるのに十分だった。ゆらり、ずっと座りっ放しだった火花はだから、脚の痺れと重怠さを堪えながら、その身を幽霊の如く持ち上げた。
ふらり、ぐらり。脚が震える。身体が傾く。
視界が揺れる――――と、そこで気が付いた。
ブレた景色の片隅で、無耳唄がすたすたと、手慣れた調子で、いつもの調子で。
『ごはん食べなきゃ』と言っていたにもかかわらず、すぐ横の台所ではなく、壁の収納棚へ向かっていったのが。
「えーっとぉ…………うん、まだ平気、だね」
そう言って。
唄はごそごそとなにかを取り出すと、足で棚の扉を閉め、くるりと振り返った。
その小さな両手には左右ひとつずつ、計二個のカップ麺が握られていて。
ことり、とテーブルに置かれたそれを見て――――戸練火花は、絶句した。
「……唄先生……これ、って……」
「ぅ? あ、ま、待ってて、ね? 今、お湯沸かすから…………えっとぉ、ケトルってどこに置いたっけ……」
そこじゃない――――きょろきょろと周囲を見回す唄へ対し、火花は懸命にツッコミを呑み込んだ。
別に、カップ麺をお湯も入れず、生でバリバリ齧るとは思っていない。いや、このままケトルが見つからなければ、そうなる未来も待っていそうなことについてはひと言物申したかったが、問題はそこではなかった。
テーブルにふたつ並んだカップ麺に、火花は見覚えがある。
ただしそれは、スーパーやコンビニによく陳列されているという意味ではなく――――動画サイトで、配信者が悲鳴を上げながら食べる劇毒としての記憶だ。
唄の絵と同じくらい、いや、あれよりもっと露悪的に、赤い赤いパッケージは。
『一五歳以下の喫食はご遠慮ください』というとんでもない文言の添えられた、超激辛カップ麺のものだった。
「……唄先生……これ、いつも食べてるんですか……? 収納の中……似たような容器がいくつも、見えてたんですけど……」
「ふぇ? う、うん……え、えへ、えへへ、ふえへへへへ……い、いつもって言っても、夢中で描いてると結構、食べるの、忘れちゃうけど……えへ、えへへ、ふえへへへへ……」
「……………………」
「……? どうか、した? 火花ちゃん……あっ、そっか、辛いよね。火花ちゃん、まだ中学生だし、食べるのキツイ、かな……? えと、な、慣れるまではね? 卵とかマヨネーズとか、お酢とかでも案外辛味って減――」
「ちょっと、失礼しますね。唄先生」
鋭く、刀のように眼を尖らせて。
靴下で床を叩いて、火花はテーブルの横をすり抜けていった。灯台かなにかのように首だけをぐるぐると回し、電気ケトルを探して突っ立っている唄の元へ、五秒もかけずに辿り着く。
軽やかなその動きを、ぼんやり目で追っていた彼女の、黒のワンピースドレスの。
裾を掴み、火花は、がばぁと唄の服を捲り上げた。
「…………、……――――――――っ!?」
「……なんで下着、着けてないんですか、唄先生……」
呆れを前面に押し出した問いに、しかし唄は答えられない。
それどころではないのだ。彼女の視界は今、自らの身に着ける貫頭衣の、スカート部分の真っ黒で覆い尽くされていて――――それは即ち、捲れ上がった先の素肌を、見られていることになる。
攫ってきた少女に。
唯一で最大の理解者に。
まだ年端もいかない、女子中学生に。
……億劫で下着も着ていない、ロクな処理もしていない、だらしない裸体を――
「っ――――――――なっなななな!? なななななななに、なになに、なにしてるのかな火花ちゃんっ!?」
「こっちの台詞です。……さてはこっちも――」
「へ? あ、ぅ? ちょ、あの、火花ちゃんっ!?」
じっくりと唄の裸を観察した火花は、足早に今度はキッチンスペースへ向かっていった。
独り暮らしにしては、豪勢な設備だ。三口のコンロに、流しも広々。魚焼きグリルの下にはオーブンまで搭載されたそれの横に、明らかにファミリーサイズだろう冷蔵庫が鎮座している。
――――近付いた段階で、嫌な予感はしていた。
「すぅー……はぁー……、うん、よしっ」
肺の中に空気を確保して、火花は勢いよく冷蔵庫を開けた。
……覚悟していたほどの悪臭はない。ただその理由は、単に中身がすっからかんだからという、まったく嬉しくないものだった。
「…………これ……」
ドアポケットに、乱雑に放られたべこべこのマヨネーズの容器。
白味の強いクリーム色は、底から徐々に青黒へ侵蝕されていた。生き残りもすっかり黄色が濃くなったそれが、人間の食用に適していないのは一目瞭然だった。
少し上へ目を向ければ、卵がいくつか転がっていて。
……そのどれもにおいて、中で黄土色がぶよぶよと泳ぐ様が見て取れた。
そもそもの話――――その名に反して冷蔵庫の中は、汗ばむほどに蒸れて生温かく。
食料の保存という役割を、欠片も遂行できていなかった。
「……………………」
「……あ、あのー……火花、ちゃん? さっきから、どうしたの、かな? え、えっと……え、えへ、えへへ、ふえへへへへ……わ、わたしなにか、気に障ることとか、しちゃったかなー、なーんて……」
「………………唄先生」
静かな声は、しかし裏腹に、底で渦巻く怒気を察知させるのに十分なほど恐ろしく。
音を立てて閉められた冷蔵庫と相俟って、唄は怯えたように身体を震わせてしまった。
アトリエめがけて逃げ出してしまいそうになるのを堪える最中――――火花は足音を盛大に立てて、天板を殴りつけながら唄へ剣呑な目を向けてきた。
激しく、しかしなお静謐に。
戸練火花は――――怒っていた。
「ひぅ……っ、ひ、火花、ちゃん……?」
「唄先生――――あなたは、ダメです。てんでダメです。ダメダメです」
「……ふぇ……?」
へなへな、塩を撒かれた植物のように。
脚から力が抜け落ちて、唄はへたり込んでしまった。びくびくと痙攣し、立つどころか動くことすら儘ならない脚は、彼女に怒れる火花を見上げることを強制する。
――恐い。
――恐い。恐い。恐い。恐い。
――どうしよう、どうしよう。怒らせちゃった。怒らせちゃった。
――どうしよう、恐い、恐い、どうしよう――――嫌われちゃったら、どうしよう。
「ご……ご、ごごっ、ごめっ、ご、ごめんな、さい……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんにゃしゃい……や、やだ、恐い、怒んないで……謝る、謝るからぁ……」
「……謝るとか、そういう問題じゃありませんっ!!」
再び、天板が叩かれて。
何度目かの小さな悲鳴。頭を抱えて俯きそうだった唄の背筋を、火花は力尽くで伸ばさせた。
「そもそも唄先生、なんで怒られてるのか、分かってないでしょう? ……いいですよ、別に激辛カップラーメンくらい食べますよ。水多めに飲んでいいならね。――――問題なのは唄先生っ!! あなたですっ!! なんですかその身体っ! そしてその身体を作っている食べ物たちっ!! もうダメ、全っ然ダメ! いいところがひとつもないくらいにはダメダメですよもうっ!!」
こんな状況を続けていたらっ!
いつか本当に身体を壊して、作品創れなくなっちゃいますよっ!?
――――そう言う火花の目には、数十秒前の光景が焼きついて離れなくなっていた。
服を捲り上げて堂々と覗き見た、唄の身体。……皮膚があばらに張りついて、べこべこと凹んで所々が変色して、張りも艶も潤いもなにもかもが枯渇した肌。肉という肉全てを削ぎ落とした、スレンダーというよりスライサーで加工されたかのような身体。
創作者が制作に夢中になり、寝食を忘れるのは、よくあることなのだろう。
それでも、唄の体たらくは異常だった。
あんな不健康の色見本みたいな身体に、毒物にも等しい不健康の源を注ぎ込むだなんて――――考えられなかった。
「へ……ふぇ……? そ、そんなにダメ、かな……? あの、その……お、美味しい、よ? そのカップ麺――」
「脂質と油分、そして過剰なカプサイシンっ! 身体に必要な栄養が全然足りませんっ!! ――――あぁもう話してても埒が明かない気がしますっ! 唄先生っ!! 紙とペンありますかっ!?」
「ふぇっ? え、えとえと、ま、待ってて。す、すぐに持ってくるから……だ、だからその……お、怒んないで……」
「怒らないから早く持ってきてくださいぐずぐずしないっ!!」
「お、怒ってるよぉ……」
かくんっ、かくんっ、とバランスを崩しながら、唄はアトリエスペースからくしゃくしゃの紙と、煤けたボールペンを拾い上げてきた。眼の表面はうるうると常に揺れていて、あと一歩踏み込まれれば、あと一ミリ凄まれれば、途端に決壊して泣き出してしまいそうだった。
その点について、フォローする気はまるでないのか。
火花は持ってこられたそれらを引っ手繰ると、すぐにテーブルへ押しつけ、なにかを書き始めた。埃をかぶったボールペンはなかなかインクを吐かなかったが、がんがんと、天板へと叩きつけることでようやく黒色の線を描き出すようになった。
さらさら、さらさらさらさら。
手慣れた風に文字を綴る火花だが……唄は逆さまに見えるそれを、読み解くことができないでいた。
「…………あ、あのぉ……なに、書いてるの……? 火花ちゃ――」
「唄先生。お金ありますか?」
怒鳴られるかと、猫背で身構えていた唄の耳に。
冷たく固い、が、決して突き放している訳ではない言葉が響いて――――こくん、こくんこくんと、油を差されたばかりのブリキ人形みたいに首が揺れた。
「う、うん……結構、腐るほど…………でも、なんで――」
「これ、食材のリストです。今スーパーやコンビニに残ってる分だけでもいいんで、買ってきてください。……私はその間に――」
「ふえぇっ!? だ、だだっ、ダメ……ダメ、だよ、そんなのダメだよっ!」
びっしりと、食材の名前が書き連ねられたメモを突きつけられて。
反射的に受け取りそうになった右手を押さえ、唄は、身体ごと左右へ首を振った。
「か、買ってくるって、それ……わ、わたしがひとりで、買い物に行くってこと、だよね……? だだ、ダメダメ、ダメだってば! そ、そんなことしたら、火花ちゃん、この部屋にひとりになっちゃう…………わ、わたし、が、いない間、に……に、逃げちゃう、かも……ど、どこか、行っちゃうかも……そっ、そしたらわたし、わたし――」
――――先程までの恐怖が、如何にちっぽけだったか思い知らされる。
怒られるならいい。全然いい。むしろ怒るくらいに自分のことを見てくれているのなら、罵倒も叱責も全てご褒美だった。怒られて怒鳴られることは、頭を撫でられるのと変わらないのだと今この一瞬で、唄は理解した。
恐い。恐い。なによりも恐ろしい。
一〇年も孤独に頑張って、ひた走ってきて、ようやく出会えた最愛の理解者――――そんな少女に、火花に、消えられることが、いなくなられることが。
「やだ……やだ、やだやだ、やだやだ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だぁっ!! お、お願い、火花ちゃん、ねぇお願い、一生のお願いっ!! 逃げちゃわないで、どこにも行かないで、出ていっちゃわないで……わたし、わたしもう、火花ちゃんが――」
「もうっ、…………大丈夫ですよ、唄先生。大丈夫、大丈夫……」
俯いて髪を振り乱し、眼鏡まで落とさんばかりに首を振る唄の、震える顔を。
テーブルに乗り上げ膝立ちした火花は、優しく両手を添えて、ふわりと持ち上げた。
見下ろす火花と、見上げる唄。
ふたりの視線がかち合った瞬間――――唄は、堪え切れずに泣き出してしまう。
「火花、ちゃん……火花ちゃぁん……」
「まったくもう、仕方のない人ですねぇ、唄先生は。……ついさっき、約束したじゃないですか。どこにも行かないって。唄先生の傍にいるって。…………なにより、こんなにダメダメでだらしない唄先生を、放ってなんかおけませんってぇ」
「…………うぅぅぅ……」
「……私がいたら、作品、創ってくれるんでしょう? だったら、いつまでも素晴らしい作品を創り続けられるような、そんな生活をしましょうよ。……私、いくらでもお手伝いしますから。ね?」
「…………うぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ…………っ!」
無耳唄には、分からなかった。理解できなかった。
彼女は、戸練火花にとって加害者だ。頭を殴って気絶させ、家まで連れて帰って監禁した咎人だ。火花から怨まれたり、憎まれたりするなら道理は通るのに、納得できるのに、それなのに。
火花は、聖母のように優しくて、温かくて。
こんなに気持ちの悪い自分のことを、余さず受け容れてくれて。
縋れば縋った分だけ、受け止めてくれて、応えてくれて。
なんで、どうして、涙が止まらないくらいに優しいのか――――全然、これっぽっちも理解できないのに。
心地よくて、救われた気がして、何度も、何度も、何度でも。
少女の矮躯に、凭れかかってしまう。
「…………大、丈夫……? いなく、ならない……?」
「なりませんよ。ずっとここにいますってば。…………むしろここでしっかり片付けとかしとかないと、今後の私の食生活にも影響が……」
「…………わ、分かっ、た……か、買い物、行ってくる、ね。が、頑張るから、だから…………か、帰ってきたら、その……また、ぎゅうって、して、くれる……?」
「? っふふ、本当、可愛いですね、唄先生って。……いいですよ、お安い御用です。ちゃぁんとご褒美、あげますからね」
「……! う、うん……分かった……! い、行ってくる、ね……!」
頷いて、何度も頷いて一歩引いて、火花の腕から離れた唄は。
床へ乱雑に放られていた鞄を拾い上げ、いそいそと玄関へ向かっていった。ぺたぺたと音を鳴らす裸足を、年季の入ったスニーカーへと突撃させて――――そこで。
「あ、ちょ、ちょっと待ってくださいっ! 唄先生っ!!」
慌てた顔でテーブルから下りた火花が。
唄の背中を引っ掴み、部屋へと引き戻すようにしながら叫びを上げた。
「ふぇっ? えと、火花ちゃん……?」
「さっ、さすがに、外に出るんですからっ! 下着っ!! ブラとパンツは最低限身に着けていってくださいっ!! レギンスやストッキングまでは言いませんからぁっ!!」
――――言われても、唄は首を傾げるばかりだった。
性癖でも欲求でもなく、単純に習慣として下着を穿かない人間との認識の差異を埋めるのに、火花は結局、更に数分のお説教を挟むことになるのだった。
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