黄色の家に行きたくて
緋色友架
プロローグ
夜の覚醒
「ん……ぅ…………?」
床の硬さか、直線状に差し込む冴えた月明かりか。
或いは、部屋の中に満ちる異様な臭いだろうか――――果たしてどれが、彼女の目を醒ます一助になったのか、分かったものじゃないけれど。
少女は。
戸練火花は、自分が闇色の部屋で寝かされていることに、ようやく気が付いた。
「……な、に、ここ……――――痛っ…………!」
むくり、上半身を起こしても視線の先は真っ暗で、目を凝らしてもなにも見えない。
加えて、彼女は自身が傷つけられていることをも自覚した。ズキズキと、後頭部が沁み入るように痛い。咄嗟に手の平を当てると、温度の上昇を敏感に察知してかより痛みが鋭敏になっていく。内側から直接涙腺を刺激するようなそれに、火花は歯を喰い縛って耐える他になかった。
ぐるり、周囲を見回す。
恐らく台所の一部だろう流しが面する壁。そこが遮光カーテンの張り巡らされた窓になっていて、ほんの数センチ、青白い光が侵入できる隙間が開いている。夜空を見上げるには不十分な空隙、それでも今が夜中であることだけは分かった。
それだけだ。把握できることなんて、たったそれだけ。
直線状しか照らさない月光は、部屋の全貌を依然黒色のまま留めていて、ここがどこなのか、どんな部屋なのか、なにがあるのか――――何故、ここにいるのか。
全部、全部分からない。
視覚以外で得られる情報と言えば、唯一。
――――息をするだけで肺腑が腐り落ちそうな、酷い、腐臭くらい。
「っ……――――――――ま、ぁ……うん、いい、のか……別に……」
ここはどこ?
怖い。よく分からないけど怖い。
早く、早くここから出なくっちゃ。
――――そんな思考を、当たり前の反応を、吐き気を催すひと呼吸の間に、火花は呑み込んだ。うろうろと、じたばたと、ぺたぺたと手足を蠢動させるのを、疲れたような溜息と同時に停止させた。
自発的にこんな場所へ来た覚えがなく、今もなお後頭部が痛む以上。
火花は、拉致されたのだ。何者かによって殴られ気絶させられ、この、なにも分からない部屋の中へと。
それは分かった。その現実だけは把握した。
理解した上で彼女は――――戸練火花は、現状への抵抗を放棄していた。
――別に……別に、いいか。なんでも。どうでも。
――誰がやったか知らないし……これから私、どんな目に遭うのかも分からないけど。
――でも…………まぁ、いいか。どうでも。
――…………だって――
錠も鎖もない、服もバッチリ着ている、頭以外に痛む箇所はない。
監禁にしては生温い待遇。――――懸念点は異臭と、暗くて、なにも見えないという二点だけ。
暗いは、怖い。誰が決めた訳でもない、人類が猿だった頃からの刷り込みが。
まだ幼い火花の視線を、身体を、自然と月明かりの方へと動かした。
思考の介在しない、本能的な行動。だから火花は、欠片も考えはしなかった。毫ほども予想していなかった。
真っ暗闇が、意識から削ぎ落としていたのかもしれない。
――――部屋の中に、火花を攫った犯人が、いるかもしれないという可能性を。
「あ」
「――――――――――――」
聞き馴染みのない声がした。ぺたぺたと床をまさぐっていた手が、骨張ったなにかを柔らかく踏んだ。
ただ、それだけだったら火花はまず、悲鳴を上げていただろう。単純に驚いていただろう。一五歳という年齢相応の、オーバーリアクションで声の主を逆に驚かせていただろう。
それすらも、できなかったのは。
彼女の思考が、オーバーフローしたから。
声。感触。そして。
――――床を這うように揺れる、包丁の刃――
「……えへ、えへへ……ふえへへへへへ……」
掠れて上擦って、それでも必死に言葉の体を成そうとしているその声は。
誤魔化すように笑い声を奏でて――――火花が下に敷いていた手をするりと脱け出させ、彼女の頭を、優しく不慣れに撫でる。
「ご、ごめん、ね? 戸練……火花、さん……。い、痛かった、よね……。け、結構強く、ごちんっ、て……叩いちゃった、から……え、えへ、ふえへへへへ……お、驚いちゃったよ、ね……? ご、めん……ごめん、なさい……」
「――――っ、え、えぇっ!?」
剣呑な情報量にフリーズしていた火花の脳が、再起動を果たせたのは。
痛みも、腐臭も、包丁の鋭ささえも、忘れてしまうほどに。
思わず跳び退いてしまうほどに衝撃的な顔が、月明かりに照らされたからだった。
「…………え、えへ、えへへ、ふえへへへへ…………ご、ごめん、なさい…………そう、だよね……それが、そうなるのが、普通、当然、当たり前……えへ、えへへ、ふえへへへへ……」
「っ……!? あ、あな、た……――」
その顔を、火花は知っていた。
オレンジの癖っ毛ショートヘア。ぐりぐりと大きな眼に、不健康な色濃い隈。眼鏡でも隠し切れないそれから視線を下げると――――あの時見たのと同じ、肩を出した黒のワンピースドレス。
違うのはあの時、両手に嵌めていた長い黒手袋を、今は外していて。
片方の腕は床で身体を支えながら、包丁を握っている。
伸ばされた右手は、手持無沙汰のように下げられていて。
彼女は、無理矢理に取り繕った下手くそな笑顔を、すっかり床へと向けてしまっていた。
「――……
「――――っ!! お、憶えててくれたのっ!? 嬉しい……えへ、えへへ、ふえへへへへへ……♪」
尻餅をついたまま、火花が彼女の雅号を呟くと。
橙色の女性――――無耳唄は顔を上げ、満面の笑みを浮かべて、くねくねと上半身を揺らし始めたのだった。
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