『異形を狩る者達』四話

 真とアリスは、セントラルロードにそびえる廃ディスカウントショップの跡地へと足を踏み入れた。


 見た目こそ傷みが目立つ廃ビルだが、この場所は『新宿クオムの台所』とさえ言われている重要施設だ。


 ――そして、ここを利用するのは新宿クオムの住民だけではない。

 外部から物資を求めたり、取引にやってくる者達が訪れる、いわば交易所のような場所である。


 それ故に、クオムとの境界には建物をぐるりと取り囲むように警備フェンスが設けられ、警備担当のガーディアンは、暇そうに欠伸をしていた。

 いつものように警備へ声をかけ、クオムの住民カードを見せれば、フェンスを開けて通してくれる。


 階段で四階まで登ると……見知った顔が二人を迎えた。

 真たちの姿に気付いた影が、カウンター越しに身を乗り出す。


 「オオ……待ッテタヨ。使い送る前ニ、真の方から来タネ」


 店の主――王明ワンミンは、柔らかな笑みを浮かべながら、どこか残念なアクセントの日本語で声を投げかける。

 だが、その口ぶりには、彼なりの温かみと親しみが滲んでいた。


 「サァ、注文通リ、カスタム終わってるヨ。確認するイイネ」


 そう言って、彼がカウンターに置いたのは、真の新たな力となるM4A1カービン。

 ――さらに、黒光りする重厚な存在感を放つM110A2狙撃銃、そしてM107A1対物ライフルが並べられている。


 M4A1――世界中の軍隊や特殊部隊が採用するアサルトカービン。

 映画やドラマ、さらには近代戦を題材にしたFPSゲームでも数えきれないほど見かける、近代戦を象徴する鉄塊。

 銃器に詳しくない者ですら、その名を耳にしたり、姿を目にする機会は多いだろう。


 ベトナム戦争期に登場したM16ライフルの進化版と言えるこのモデルは、機関部上面に様々なオプションを装着できるピカティニーレールを標準装備している。

 そこには高度戦闘光学照準器ACOGがしっかりと据えられていた。

 上面には小型の光点投影型照準器ダットサイトが寄り添うように装着され、近〜中距離を自在に切り替える“二段構え”の視界が確保されている。

 被筒ハンドガードはピカティニーレール搭載のものにし、イルミネイターAN/PEQ-15も載せた。そして、銃床ストックも交換してある。


 真は躊躇なく手に取り、新たな相棒となるM4を早速構えてみた。


 カスタム化によるバランスの良さや、手に馴染むような細やかな変化は、従来の愛銃である56式歩槍と比べて歴然。

 弾倉こそまだ装填されていないが、そのコンパクトさと操作性の高さは、手に取った瞬間から明確に感じられる。



 選んだ高度戦闘光学照準器ACOGも申し分ない。

 電源を必要とせず、それでいて光点投影型照準器ダットサイトのように視認性が高く、照準線が鮮明に浮かび上がる。


 「おお……56式より格段にいい感じだ。完璧な仕上がりだよ、王さん」

 真は、新しい玩具を手に入れた子供のように、M4を何度も構えては目を輝かせた。


 「お客ガ喜んでクレル事、何よりネ。これデ、お嬢ちゃんの銃ノ件、安心シテ任せてくれるカ?」

 王は柔らかい笑みを浮かべながらも、その瞳には計算された自信が宿っている。


 彼は、同業のトレーダーとの差別化を図るため、銃の売買だけではなく、整備からフルカスタムに至るまで引き受ける独自の路線を打ち出したらしい。


 電災で日本の法体系は歯止めを失い、銃器の所持はもはや禁忌タブーでも、なんでもない。


 このご時世――電災が法の枠組みを吹き飛ばした結果、銃器の所持者はかつてないほど増加した。

 そして、良質な武器を求め、万全のメンテナンスを望む者は多い。それだけ、銃器の質は明日の生存率を高めるのだ。



 完璧なメンテナンスや、自分だけの専用銃カスタムが手に入るとなれば、飛びつく者は決して少なくないだろう。


 今回の取引では、その記念すべき第一号となる、アリス用にカスタムされた銃の購入が条件のひとつだった。


 この仕上がりを目の当たりにすれば、安心して王の手に任せられると納得できる。

 真も力強く頷き返した。


 「もちろんだよ。王さんのカスタムがさらに人気を集めるよう、精いっぱい協力させてもらうよ」


 真はM4をカウンターに置くと、次の段階――取引の精算に取り掛かる。

 

 だが、その時、真の耳に王明の低い声が滑り込んだ。

 帳簿を確認しつつ金額を計算する彼は、淡々とした響きなのに、どこか底光りするような、含みのある言葉を発した。


「――ソウ言えバ……ギルドで、ブレイズ隊の林ト揉メタ話、聞イタヨ?」


 ――あの騒ぎから、まだ一時間も経っていない。

 それなのに、ギルド内での出来事はすでに王の耳に届いている。


 いや、届いているどころではない。おそらく、どこの誰が、どの角度から見ていたかまで、すべて把握しているのだろう。


 一体、この新宿クオムの中に、どれだけ彼の目となり、耳となる者がいるのか。

 今こうして王明の前に立つ真とアリスの姿すら、どこか離れた場所で、誰かが息を潜めて見つめているのかもしれない。


 王の情報網にかかれば、どこかで誰かが鼻を穿った、屁をこいた……そんな取るに足らないことさえ、逐一把握されてしまうのだろう。


 

 ――確かに、電災前から彼の情報網は並外れていた。


 『眼觀四面,耳聽八方ヤングァン スーミェン、アーティン バー』――目は四方を見渡し、耳は八方の声を聞く。

 先日、彼自身が口にした、中国の古い格言である。


 ――その言葉どおり、王明は電災以前から、四方を見渡し、耳を澄ませてきた。

 歌舞伎町という、欲望と利権の渦が煮え立つ泥濘のような土地で、王明は長い時間をかけて根を張った。


 そして、混沌とした歌舞伎町の裏社会で、地面の奥深くまで太い根を張り巡らせることで、確固たる基盤を築いてきたのだ。

 しかもその根は、地表近くの浅い広がりなどではない。

 地下深く――暗渠のように、迷路のように……果てしなく延びている。


 1990年代、民主化の波を受け、急速な発展を遂げた中国は、世界市場の主役へ名乗りを上げた。

 高度経済成長を遂げた中国は、かつての発展途上国の面影を脱ぎ捨て、近代経済国の仲間入りを果たし、国際社会の重要な一角を占めるようになったのである。


 かつて、自家用車など持つことも叶わず、人民服に身を包んだ国民が一斉に自転車を漕いでいた時代は……今となっては、まるで遠い昔の物語だ。



 今や中国の国内各地に、摩天楼のように、天高く聳える高層ビルがいくつも立ち並ぶ近代都市が次々誕生した。

 街を走るのは、世界各国から輸入された高級自動車の数々。ハンドルを握るのは、富裕層と呼ばれる中国の成功者たち。

 眩いイルミネーションが輝き、真夜中であっても昼のように煌めく街。

 街並みの壮観さだけなら、日本よりもはるかに近代的な風景だろう。

 

 だが、体制そのものに根付いた覇権主義の気質だけは変わらなかった。


 ――富めば富むほど、締め付けも増す。

 膨張する民意を押さえつければ、必ずどこかで噴き上がる。

 政府の弾圧に端を発した暴動や衝突など、枚挙に暇がない。


 力による支配は、やがて大きな暴威を生み出すことさえある。

 押さえ込もうとしても、民意という濁流は渦巻き、時に荒れ狂うものだ。

 政府の弾圧から発する反政府運動は、時として過激な暴動へと発展し、ニュースを騒がせることも珍しくはない。


 王明という男は、そうした歴史の“揺れ”を熟知していた。

 だからこそ、短絡的な利権争いには乗らず、古代中国の流儀――『物事を長い時間軸で見定める』――を自身の行動規範として貫く。


 利権目当てに、歌舞伎町の住民や地元組織と衝突を繰り返す大陸系組織を横目に、彼は地元住民との共存と融和を選んだのだ。


 ――たとえ今、儲からなくても構わない。

 今、損をすることになっても、それを未来への投資と割り切り、最後には自らが勝者となる道を選ぶ。


 日本人には、なかなかできない発想だ。

 高度成長期の成功体験に酔い、いつしか“目先の利益しか見ない民族性”へと堕してしまった日本人が多い中で、王は悠然と“長いゲーム”を続けてきた。


 この辺りに、日本人との決定的な差がある。

 多くの日本人経営者は目先の利益ばかりを追い求め、『損して得を取る』ことができない。


 高度成長期を経て世界を席巻した『メイド・イン・ジャパン』の名声。

 日本人経営者は、いつまで経ってもその美酒の味が忘れられず、中国のような国を『後進国』と、傲慢に見下し続けてきた。

 その奢りが何を生んだのかは、今さら説明するまでもない。


 日本企業は目先の利益を最大化し、株主配当を優先。研究開発予算を削り、社員のリストラを繰り返した。”人と技術を育てる”ことを怠った。

 ――結果、技術革新が止まり、中国をはじめとする国々に次々と追い抜かれ始めることとなる。


 『メイド・イン・ジャパン』で名を馳せた企業が、次々と中国資本に飲み込まれていくのを、ただ傍観するしかできなかった。

 ブランド名こそ残ってはいるが、中身は中国資本。実質的な中国系企業へと“身売り”せざるを得なかった企業は多い。



 ――古代中国、孫子の教え。

 『戦わずして勝つ道を選び、準備に時間をかけ、忍耐強く待つ』


 王が選んだ道も、まさにその思想に基づくものだった。

 力で支配し、無駄に明日の敵を増やすよりも、地元民からの信頼と敬意を集める方向へ舵を切った王のもとには、歌舞伎町のあらゆる情報が集まることとなる。


 そのため、東邦会のように規模と荒事に長けた地元極道ヤクザだけでなく、香港紅龍會などの大陸系裏社会組織ですら、安易に手を出せない。

 台湾最大の黒社会組織の後ろ盾を抜きにしても、彼が歌舞伎町の地に深く張り巡らせた根は、いつ地下から飛び出し、寝首を掻く刃となるか分からないのだ。


 実際、彼の部下を襲った福建流氓が、悉く街から姿を消したこともある。

 ……もちろん、連中がどうなったかなど、誰も尋ねない。


 ――味方ならば頼もしいが、敵に回せば恐ろしい。

 直接的な暴力を売りにする極道ヤクザや半グレのような、恐怖とは違う。

 もっと静かで、もっと暗く、もっと確実な恐怖だ。


 それもそうだろう……誰が王明の密告者かも知れず、息を潜めた存在がすぐ隣にいるかもしれないのだから。

 言わば、暗闇の中で、いつどこから喉笛を掻き斬られるかも分からない心理的恐怖。

 

 言葉では「王のクソジジイ」などと強がっても、正面からその言葉をぶつけられる豪傑はいない。


 それが、歌舞伎町の闇に君臨した青竹聯盟チンチュー・リエンモン日本総監――王明ワンミンの姿だ。

 猛禽のような鋭い眼差しと、柔和な微笑を使い分ける好々爺は、瞳の奥で常に“盤面全体”を見つめている。


 「林ネ、多分追放ナル思ウケド、あのバカ、ほっといてモいなくなってタネ」

 真はその言葉に眉をひそめ、首を傾げる。

 「え? どういうこと?」


 真の疑問に応えるように、王はノートパソコンの画面を見つめたまま、静かに口を開く。


 「さくら通りニある『ゴールドラバーズ』って店の女ヲネ……手出シチャッタらしいノヨ、ブレイズのお兄ちゃんタチ」


 ブレイズ隊の連中は、そもそもクオム建設時から歌舞伎町にいたわけではない。

 新宿クオムが要塞居住区として評判が広まった頃、他所で食い詰め、流れ込んできただけの連中だ。

 頭の中身は酒と女で満たされ、空っぽの器のように何も残っていない。

 小さな依頼をこなすことはあっても、それはあくまで食い扶持のためであり、クオムの安全を考えた“漸減作戦”であるなどと、微塵も理解していない。


 やることといえば、容姿端麗な女性を見つけ、恋愛欲に飢えた者を巧みにたらしこむことだけだ。

 その毒牙にかかり、金や身体を要求された被害者は後を絶たない。

 だが、娯楽に乏しいこの世の中では、魅力的な異性に惹かれ、依存してしまうのは仕方のないことだろう。



 口に出すことすら憚られる、酷い行為もあるらしい。

 ――だが今のクオムでは、性犯罪にまで対応する秩序の番人は存在しない。

 警察が機能していた電災以前ならともかく、起きた事を調べ、犯人を捕まえて処罰する力を持つ者など、もういなくなった。

 何が善で、何が悪なのかも分からなくなったこの世界で、起きてしまった事の面倒を見ている余裕を誰も持ち合わせてはいない。


 だから、ブレイズの悪名が高まろうと、証拠が残らなければ『やった、やられた』の噂話に留まるだけだ。

 電災前のようにスマホ片手で即座に撮影や録音できるわけではない。

 迂闊にスマホを起動すれば、どこからともなく、レヴュラが押し寄せてくる危険性があるからだ。


 現行犯でもなければ、ガーディアンが介入することもなく、欲望の赴くままに行動できる。

 それをいいことに、ブレイズのようなクズは、好き放題に振る舞っているのだ。


 「どこで手ニ入レタカ知らナイケド、酒におクスリ盛タらしいのヨ……アトは言わなくテモ、分カルネ?」


 酒の席で盛られた薬――もちろん、食糧難の中で不足した栄養を補ってくれる、健康的なサプリメントを振る舞うなどという善意でないことは明らかだ。

 ――それは間違いなく、睡眠薬。


 女の酒に睡眠薬を混ぜ、酔い潰れたところで、ブレイズの連中がお持ち帰り。その後のことは、想像に難くない。

 手口が手慣れ過ぎている……あの連中は、電災前からずっと、そんなことばかりしていたのだろう。


 「でもネ、今回ばかりは手を出した相手、悪すぎたネ……その女の子、ジャオサンって人といい仲ヨ?」


 「ゴールドラバーズって……あれだろ……東通りに抜ける路地のビルにできたとこ……確かあの辺、紅龍會の仕切りだよね?」


 紅龍會――正確には香港紅龍會。

 新宿クオムがまだ歌舞伎町と呼ばれた歓楽街だった頃、裏カジノや違法賭博を幅広く手掛けていた組織だ。

 電災前は、紅包大抽籤ホンパオ・ダーチョウチェンという裏賭博で、多くの人間を熱狂させていた。


 流氓のように、子分をゾロゾロと引き連れ、街中をうろつくことは少ないが、暴力の腕前は地元組織である東邦会に引けを取らない。

 大陸系ならではの荒事の経験値を持ち、かつては東邦会直参・荒神会と激しく衝突してきた経歴がある。

 温和な組織であるはずもなく、紛れもなく血気盛んな男たち……『暴力を行使する側』の集団であった。


 電災後は規模こそ縮小したが、紅包大抽籤に似た賭博や、ギャンブルや酒、女を楽しめる店を次々と展開している。



 ――新宿クオムが立ち上がった際、無人となった数多くのビルや店舗を活かすため、出資額に応じて各組織は自分たちの縄張り――不動産の管理権を手にした。

 さくら通りは、その中でも電災前には風俗店やキャバクラが軒を連ねていた区域だ。旧店舗を再利用し、同様の業種を営む店が少しずつ増えている。

 娯楽がほとんどないこの世界では、夜になれば孤独や退屈を紛らわせるため、酒や異性に逃げ込む者も少なくない。


 その中でも、“ゴールドラバーズ”は比較的新しい店舗で、粒ぞろいのキャストを揃えているとの評判だ。

 しかし、この一帯には紅龍會の息がかかっている――新宿クオム初期からの住民なら、誰もが知っている。


 つまり、それを知らない、流れ者である林たちは……そんな危険なヤバい店の女性に薬を盛って“いたした”ということになる。

 その女性がよりにもよって、紅龍會の趙――過激で知られる人物と密接な関係であることも知らずに。

 


 ――狙った“獲物”を“落とす”のは、林本人ではなく、容姿端麗なメンバーの役割。

 言葉巧みに店の外へ連れ出し、酒の席を設ける。

 あとは、頃合いを見て酒に薬を混ぜるだけ。

 彼らの頭には、相手を傷つけるという感覚はない。目の前にいる女性は、夜の宴の“獲物”に過ぎないのだ。


 ――薬の効き目は早い。笑い声が途切れ、すぐに女性の瞼が重くなる。

 その瞬間を逃さず、手際よく女性を支え、連れ出す。

 夜の闇と、人通りのまばらな裏通りを選んで歩くその間も、林は軽口をたたき、楽しげに笑って見せる。

 彼らにとっては、これは“遊び”でしかない。


 その後の一連の行為――抱き抱える、背中を支える、拒絶の反応に冷ややかに笑う――どれも林らにとっては娯楽の延長線だ。

 女性の無力さや羞恥、恐怖の表情さえも、林の中ではゲームの駒のひとつに過ぎない。


 だが、その夜、運命の歯車は狂った。ターゲットの女性は――紅龍會の趙……と密接な関係にあったのだ。

 しかも、その女性は日本語が堪能なだけの……れっきとした中国人。


 無邪気で能天気な男の行為は、無自覚に大きな地雷を踏むこととなる。

 林の酒と薬による策略は、あっという間に“問題”へと変わり、既に噂となって伝播していた。


 ――能天気さゆえの暴走。自己中心的な遊び心。

 林には、自分がどれだけ危険な領域に踏み込んだのか、微塵も理解できていない。


 「ソウ。趙サン、大層怒ッテネ。ブレイズ全員“始末”するって、騒ぎ立てたノヨ」

 

 電災後、表面上は勢力争いもなく穏やかに見えるが、紅龍會はれっきとした黒組織マフィアである。

 同胞に対して、薬を盛ってお持ち帰りからの夜の宴……そんな“おいた”を笑って許してくれる、ハートフルな相手ではない。

 特に紅龍會の趙は、電災前は紅龍會きっての武闘派として、事あれば青龍刀を振り回す話は、真のような”表”の人間だって知っている。



 ――では、どう”始末”するのか。

 さすがに、クオムの中でドンパチするわけにはいかない。

 だが、答えは至ってシンプルだった。


 「今のクオムで人殺スなら、鉄砲なんて要らナイネ。黙って“外”に捨てテクルダケヨ。あとはレヴュラが勝手ニお葬式済ませテクレルネ」


 確かに、クオムの“外”はすべてが自己責任。

 運よく通りかかった者が助けてくれる場合もあるが、そんな余裕と気概を持つ者は、今の世の中では絶滅危惧種だ。

 誰もが自分を守ることで精一杯。貴重な弾薬を使って見ず知らずの者を助ける正義の味方など、存在しない。


 ――一度クオムの外に出れば、そこはレヴュラが支配する世界。

 縛り上げて放置するだけで、王の言う通り、レヴュラが葬式を済ませてくれる。

 レヴュラでなくとも、飢えたカラスや野犬がうろつく世界だ。

 どちらにせよ、楽な死に方はできない。


 ――林やブレイズのバカどもは、そういう恐ろしいことを”涼しい顔でやってのける”存在を侮り、怒らせてしまったのだ。


 あとはどうなるか――神などという曖昧な存在ではなく、怒りに震える趙のみぞ知る。

 同じ国の同胞であり、恋人か、婚約者か……はたまた情婦か。そんなことはどうでもいい。

 だが“大事にしている女性”を玩具にした。

 林は命が尽きるその瞬間まで、恐怖と後悔に泣き叫びながら、死んでいく事になるのだろう。


 「あのニヤついたニキビ顔を、二度と見なくて済むと思うと、清々するけどね」

 ユニオンの裁定がどう出ようと、林には望む未来は訪れそうにない。

 紅龍會のイケイケを怒らせたのだ。

 ――新宿クオムを追放されたその瞬間から後をつけられ、メンバー全員、確実に始末されるはずだ。

 多分、他のクオムやソロビトたちの暮らすネストなどへは、辿り着けまい。


 気の毒なのはブレイズ隊の他のメンバーだが……林のようなバカを担ぎ、一緒に“おいた”を働いたのだから、自業自得だろう。



 そして、王は脱線した話を元に戻す。

 

 「サテ、今回の金額は――大体これぐらいネ。ダイジョブか?」


 王がノートパソコンの向きをこちらへくるりと変える。

 表示された合計金額を見た瞬間、真の胃のあたりがきゅっと痛んだ。

 ……うん。しばらくは節約生活だな。もっとも、足が出なかっただけマシと言うべきか。


 三年近く連れ添った愛銃を失い、中身を想像したくもない水を頭から被り、埃まみれで死にかけた。

 ――その全部を“リセットする”代償と考えれば、むしろ安いものかもしれない。


 真は軍用背嚢バックパックのジッパーを開き、ギルドから受け取ってきた紙幣束ズクを一束ずつカウンターに積んでいく。

 そして、その手を止めず、ふと思い出した疑問を口にした。


 「王さん……今じゃなくてもいいんだけど、ロケットランチャーの類って入る予定ある?」


 川崎第三クオムが陥落した――さっきギルドで耳にした話が脳裏をよぎる。

 ――原因はA級レヴュラかもしれないという件だ。


 杞憂であってほしいが、最悪を想定して動くに越したことはない。



 「真、69式は持テルよネ? 弾頭だけジャ足りないカ?」


 確かに、先日B級レヴュラ相手に撃ち込んだ――69式火箭筒中国版RPG-7の発射器は自室にある。

 だが、今欲しいのは“それじゃない”。


 「RPGって、威力はいいんだけど、デカいし嵩張るんだよね。できればAT-4みたいに使い捨てできるやつが欲しい」


 ――AT-4ロケットランチャー。

 RPG-7のように発射器を使い回す方式ではなく、撃ち終われば即破棄する使い捨て式。

 成形炸薬弾で420mmの装甲を貫通する火力を持つ。


 重量6.7kgと、二本持てば69式と大差ないとはいえ、撃つたびに荷物がひとつ消えるという事実は、徒歩移動が基本の世界では何よりありがたい。


 レヴュラ相手ならM72 LAWでも十分だが――M72はとっくにAT-4へ置き換わった。

 今さら流れてくる可能性は薄く、あったとしても保存状態が不安だ。


 火力強化が目的なら、M4A1に擲弾発射機グレネードランチャーを付ける選択肢もある。

 だが、B級以上のレヴュラ相手に榴弾は心許ない。


 D級やC級レヴュラの外装は強化プラスチックで、装甲らしきものはほとんど無い。

 だが、金属外装のB級ともなると話は別だ。


 ――グレネードで戦車や装甲車が吹き飛ぶのは、フィクションの中だけ。

 もちろん、C級やD級のような小型種が群れる状況で撃ち込み、一掃する用途なら強力であり、持っていれば心強いのは確かだ。


 それに、69式火箭筒のように“発射器そのものが嵩張るタイプ”は、今後M110A2狙撃銃との二丁持ちを考えると、取り回しの負担が重すぎる。


 アリスとは現地で潜む位置が分かれるし、今後は彼女も自分の銃を持つことになる。

 荷物を減らすことを考えれば、軽量の使い捨て式ロケットランチャーこそ理想的なのだ。



 「AT-4ネ……チョット大物ヨ。確認して、すぐ送るヨ。急ぐカ?」


 もし川崎第三を落としたのが本当にA級なら、その移動速度は予測不能だ。

 確かに、羽田クオムや渋谷クオムのような大規模クオムが簡単に突破されるとは思えない。

 だが、レヴュラの行動はいつだって予測不能――これは真が何度も思い知らされてきた事実だった。


 「できれば二週間以内に。無理なら……69式用の弾頭を三発。それと、急ぎじゃないけどM4用の顎下グレラン、できればM320が欲しい」


 今回の買い物で、B級討伐報酬の大半は消える。

 さらに追加注文となれば、蓄えを切り崩すことになるだろう。


 だが――新宿クオムが落ちてしまえば、蓄えもクソもない。そこに残るのは、完全なる“無”だ。

 今、手にできる武器だけが命を繋ぐ。

 強力な武装は、生きているうちに確保しておくべきだ。


 「……真ガ先手を打つトキってのは、大抵勘ガ当たるネ。分かっタ。AT-4入手できたら真ッ先に知らせるヨ。M320は在庫ある筈ダカラ、準備しておくネ」


 今回ばかりは、勘違いであってほしいと願うばかりだ。

 相手がA級となれば――予想が外れてくれることを祈るしかない。できることなら、今後もA級レヴュラなどとは戦いたくはないのだ。


 「ソウソウ……そういえばネ、真が仕留めタ例のB級レヴュラ、分析が始まったらしいヨ」


 王は手際よく購入した銃器をケースへ収め、弾薬の箱を真の行軍嚢ダッフルバッグへ次々と押し込んでいく。

 その合間に、ぽつりと話を混ぜた。


 中野で真が倒したB級レヴュラ――通称『スカラベ』

 その残骸がようやく回収され、現在ギルドの技術班で解析が始まっているという。

 しかし、その進捗は……あまり期待できるものじゃないらしい。


 「相変わらず、何もワカラないらしいヨ」


 「やっぱり、メーカーも出鱈目なの?」


 これまで新宿クオムでは、幾体ものレヴュラを分解してきた。

 ――だが、その仕様には毎回まるで統一性がない。

 

 “第二世代AI相当”の制御システムが搭載されている――そこまでは電災直後から分かっている。


 だが、本当に分からないのは、その“脳”の部分だ。


 レヴュラの電脳は、半導体とのハイブリッド構造――量子半導体Q.H.P.(Quantum Hybrid Processor)。

 第二世代AI搭載デバイスなら、スマートフォンなどにも積まれているものだ。

 だが、レヴュラに使われているそれは、どういうわけか常識外れに小さかった。


 本来あるべきメーカー名や識別コードの印刷もない。

 ――とはいえ、Q.H.P.なんて、思いつきで密造できる代物ではないはずだ。

 単なる半導体プロセッサではなく、量子電脳技術を用いた、量子半導体Q.H.P.だからこそ、解析はそこから一歩も前に進まない。



 さらに奇妙なのは、その構成パーツだ。


 ――そのほとんどが市販流通品。

 珍しい部品も、特注らしいパーツも、それらしい軍用規格の代物もひとつとしてない。


 油圧シリンダーも、駆動モーターも、ケーブル類も、全部が町工場レベルで調達できる代物。

 まるで“寄せ集めのジャンク品”に高性能AIだけ載せて動かしているような……そんな違和感。


 どこで作られているのか。

 誰が組み上げているのか。

 そして、なぜこんな出来損ないのを、高性能なAIが動かしているのか――。


 何ひとつ分からない。


 「驚くイイヨ。今回の電脳、ウィンテール製だったらしいネ」


 「……は? ここにきて、市販の電脳チップだって?」


 「ソウ。Vortex-7。それをネ、贅沢に四基も積んでたらしいヨ」


 真は反射的に言葉を失った。

 ウィンテール――コンピューター技術に少しでも触れた事がある者なら、知らない人はまずいない、大手メーカー。

 その量子半導体Q.H.P.は第二世代AI向けとして広く流通している。

 つまり、“市場にありふれた電脳”が、B級レヴュラの中核を担っていたということだ。


 ……そんな馬鹿な話があるか?


 ウィンテール社は、パソコン向けの主演算装置で名を馳せたメーカーだ。

 半導体プロセッサー時代から存在感を示し、量子電脳技術が確立されると、積極的に新製品を投入してきた。

 パソコン用に開発されたVortexシリーズは圧倒的シェアを誇り、量子電脳の世界でも高い信頼性を持つ。

 

 電災以前に真が所有していたパソコンにも、バージョンは古いが、Vortex-7は積まれていた。

 それぐらい、Vortex-7とは、ごく身近に溢れている製品だという事だ。

 

 ――しかし、第二世代AI制御なら一基でも、おつりがくるほどに足りる“化け物スペック”を持ったウィンテール製Q.H.P.――それを四基も。

 それがB級レヴュラに使われているなど、常識的に考えればあり得ない。


 過去には、ウインテール社のライバル企業……RSD社のチップが搭載されていたこともある。


 「そういや、前にアプリコットのチップがC級に載ってた……なんてこともあったっけ」


 アプリコット――かつて高級パソコンメーカーとして名を馳せた企業。

 安定性の高さからグラフィックデザインや音楽制作などのクリエイティブ分野で重宝され、スマートフォン時代には『ApriPhone』シリーズで世界的なシェアを獲得した。


 先発の『Puppet』OSモデルとスマートフォン市場を二分した“好みの論争”は、今でも技術好きの間で語り草だ。

 


 そんな“高級志向”のチップが、C級レヴュラに搭載されていたこともあった――。

 それを思い出し、真はわずかに感慨めいた表情を見せる。


 「面白いノは、ここからヨ。前脚のシリンダー、ファンラグ製だったのニ、後脚のシリンダーはNISSI製らしいネ」


 「前脚と後脚でメーカーが違うって……どういうこと?」


 「ソレに、駆動モーターはエプソニア製と菱島製だタそうヨ」


 ――ますますわけがわからない。

 寄せ集め感の漂うD級やC級ならまだしも、B級のような、明確に人類への攻撃を目的とした個体が、出鱈目な部品構成で動いている。

 兵器としての整合性は皆無で、構成パーツはすべて作業機械メーカー製。軍需産業の匂いは一切しない。

 過去にはトラクターメーカーの油圧シリンダーが流用されていたことさえある。


 「なんだか相変わらずめちゃくちゃだなぁ……まるで合成獣キメラだ」


 「饕餮タオティエみたいネ。見た目は機械デモ、中身グチャグチャで、ヨクわからないネ」


 饕餮――日本語では『とうてつ』。

 魔除けの縁起物として珍重されることもあるが、本来は大食漢で、何でも貪り食らう邪神的存在だ。

 牛や羊の体に曲がった角、虎の爪に人の顔……滅茶苦茶な姿で、古代から人々に語り継がれてきた。


 王は微笑むように言う。

 『よくわからない』存在が、人の命を『喰らう』様子は、まさに饕餮――と。


 真は言葉を飲み込みながら、眼前に差し出された分析資料を見つめた。

 ――つまり、自分が倒したスカラベもまた、整合性のない“合成獣キメラ”だったということか。

 だが、それが何を意味するのか。


 誰が、何のために、こんな個体を生み出したのか――。

 そして、レヴュラという存在が何者なのか――王は、自らの見立てを静かに並べていった。


 「ホントウにジャンクだけデ組み立てているノか……ソレとも、製造元ヲ隠すタメの偽装カ」


 ――ジャンクという線は、やはり薄い気がする。

 確かに電災では膨大な自動車や作業機械が破壊され、突然として、片付けも追いつかない程の”がらくたの山”が生まれた。

 だが、それらを必要とするだけの”程度の良い”ジャンクパーツばかりが、都合よく、計画的に回収や再利用できるとは考えにくい。

 新宿クオムをとり囲む、瓦礫の山で築いたバリケードならまだしも、レヴュラのような機械兵器に組み込むとなれば……壊れたパーツでは意味がないはずだ。


 ――王の推測通り、製造元を特定されぬよう、意図的に混ぜ物をしていると見た方が自然だと思う。

 あえてバラバラのメーカーの部品を寄せ集め、いかにも場当たり的な“拾い物の合成獣キメラ”であるかのように偽装。

 そうすれば、出所を辿る線は完全に断てる。


 「それカ……ホントウに、“それシカ使えるモノ”が無かった……トカね」


 そう言って肩をすくめる王に、真は少し逡巡した後で、ためらいがちに問いを投げた。


 台湾出身の王に向けて口にするには気が引けるが、それでも一度は考えてしまう疑念。

 「――中国が仕掛けてきているって線は……ないの?」


 中国は、急激な経済成長と底なしの資金力を武器に、科学大国の座を狙って突き進んできた。

 欧米や日本が握っていた産業に次々と参入し、特にドローン産業では中国勢が市場を席巻。

 AI技術でも攻勢を強め、中国版TalksGPTとも呼ばれた『DeepSeer』や、AI搭載ヒューマノイドの開発――世界的に見ても、その勢いは驚異的だった。


 そして日本とは、長く尾を引く領土問題、そして台湾を巡る価値観の衝突。

 中国は台湾を自国領土と主張し、日本を含む多くの国は台湾を独立国家と見なす。

 その綻びは幾度となく外交摩擦へと発展し、禁輸措置をはじめとする“いやがらせ外交”を繰り返してきた。


 さらには――海軍力の増強。

 広大な太平洋への進出を視野に入れる中国にとって、その玄関口に立ちはだかる日本列島はどうしても邪魔な存在だった。

 幾度となく行われる領海や領空への侵犯行為、艦艇の体当たりも辞さぬ強硬姿勢……そこに透けて見える征服欲を、世界は薄々感じ取っていた。

 実際に、そうして、いつのまにか領土を”中国”にされてしまった地域はいくつもあるのだ。


 さらに、中国には『国防動員法』がある。

 中国政府が“有事”と判断すれば、国外在住の中国人であっても、国防の名のもとに動員できるという、極めて強権的な法律だ。


 ――もしかすると電災とは、中国が日本へ仕掛けた、実質的な侵略戦争なのではないか?


 だが、真が抱いたその推論は――王の一言で、ばっさりと斬り捨てられる。


 「モシ、本当にそうナラ、今頃、東京の街全部、解放軍ニ占拠されてるネ」


 王の言葉は淡々としているが、含意は重かった。

 中国が本気で日本へ武力侵攻を仕掛けるなら、手間暇をかけて構成パーツを出鱈目に組み上げた、レヴュラなどという非効率な存在は使わないだろう。


 大量の人民解放軍兵士を送り込み、政府中枢を一気に叩き潰す――数で押し切れば、瞬く間に日本本土の制圧も可能だ。


 いかに自衛隊が優秀だろうと、現代戦は物語とは違う。

 一騎当千の活躍など戦局を左右するほどの力は持たない。やはり、数は正義なのだ。


 さらに、もし国防動員法で在日中国人が動いているのなら、武装がバラバラで計画が行き当たりばったりというのもおかしい。

 中国民族の思考ならば、事前に時間をかけて準備し、武器を行き渡らせ、反撃の余地を与えまい。蜂起と共に、一気に制圧するはずだ。

 

 ――王の意見により、真の頭の中で描いていた“中国が裏で仕掛けている可能性”という稚拙な空論は、あっさりと論破された。


 だが、通信網が遮断されている今、その真相を明らかにすることも至難の業だ。

 メーカーの工場へ直接向かうことが最も有効な手段だとしても、どんなレヴュラが待ち受けているか分からない以上、偵察部隊を安易に送り込むこともできない。


 今の世の中には、警察のような捜査機関も、自衛隊のような正規の軍事組織も存在しない。

 銃器で武装しているハンターたちでさえ、クオムの命令だけで動くわけではない。


 一円の得にもならない正義感や使命感だけで、危険を顧みず遠征する者など存在しないのだ。

 クオム全体の資金も有限で、勘や疑念だけで大盤振る舞いできる状況ではない。



 「奴がぶっ放していたガトリングやグレネードはどうなの? いくらなんでも重機メーカー製とは思えないけど」


 「アア……それは正真正銘、自衛隊御用達の王和工業製ダタらしいネ」


 「HGX-556R……自衛隊で言う26式廻輪機関銃カ? 擲弾発射器グレネードランチャーは、ホンモノの22式自動擲弾銃ダッタそうヨ」


 「そこは本物の銃器なのか……ますます訳がわからなくなるなぁ」


 パーツは寄せ集めでも、銃器だけは本物。

 やはり、全体としては巧妙な偽装工作の可能性が高い。


 「黒幕は企業なのカ、それトモどこかのテロ組織なのカ……ソレに、在日米軍がサッサと尻尾巻いて撤退シタのも気になるネ」


 疑問は尽きず、しかし答えはどこにもない。

 真が抱く不安と猜疑は、ますます膨れ上がるばかりだった。


 ――在日米軍が電災発生とほぼ同時に撤退を開始したのは事実で、数か月後にはその跡形もなくなった。

 撤退の際、慌てたせいか、多くの銃器がそのまま置き去りにされていたという。


 もちろん、それらはコレクターたちが命を懸けて回収し、現在はハンターたちの相棒となっているものが多い。

 今日、真が手に入れたM4やM110A2も、まさにその類だ。


 しかし、ヘリコプターのような、”持ち帰れなかった大物”は制御系統が悉く破壊され、どれも実用には耐えなかったらしい。自衛隊機も同じ状態だった。

 戦車や装甲車も同じ有様で、重要部品が取り外されるか、銃弾で破壊されていたという。

 ――悪しき者たちが利用できないようにするためなのか、すべてが動かせない措置を施されていたらしい。


 もし電災がテロリストによるものであるなら、必ず何らかの主義主張があるはずだ。

 だが、実際に行われたのは、電災発生時の『人類を排除する』という一文だけ。

 それにしたって、スマホや街頭ビジョン、テレビ、デジタルサイネージやインターネットに至るまで……同時に同じ映像を流す手の込みようは、単なるテロ組織の仕業とは到底考えられない。


 テロらしき勢力が確認されていないことも、さらに不可解さを増す一因だった。


 ——日本の近現代で最大規模のテロ事件といえば、三十数年前の『都心有毒ガス同時散布事件』だろう。

 朝の地下鉄で有毒ガスが散布され、五千人を超える負傷者と、十数名の死亡者を出し、日本国中を震撼させた事件だ。


 だが、あれでさえ犯人像は人間であり、手口も薬品と自作器具を用いた“人為的テロ”であることは発生当初から、誰もがわかっていた。

 実行犯は霊天昇会なる新興宗教団体――いわゆるカルト集団で、犯行に使われた器具も、手作り感すらある、原始的なもの。


 ――しかし電災は違う。

 実行犯は見たこともない機械兵器で、動機も不明。犯行声明すら存在しない。

 それでいて破壊規模は巨大で、自衛隊のヘリすら撃墜する攻撃力を有している。


 既存のテロ事件の枠組みでは説明がつかない。

 ——だからこそ、敵対国による攻撃説も考えられたが、やはり腑に落ちない点が多すぎるのだ。


 「日本政府モ壁の向こうでダンマリ決め込んだままネ。お偉いさんタチ、生きているのカ死んでいるのカモわからないヨ」


 電災が発生して以来、日本政府は首相官邸や国会議事堂を防護壁ジャイアントウォールで封鎖し、以後ずっと沈黙したままだ。

 それは今に至り、国民への声明もなく、政府直轄機関はすべて機能停止。自衛隊も、警察も、行政機関も……そのすべては瓦解した。


 日本政府は国民を守る意思を残していないのか、それともすでに全滅してしまったのか。

 ――電災発生から三年あまりが経過した今、その無力さは誰の目にも明らかだった。

 

 かつてユニオンマスター・羽山が言った言葉『日本政府はもうあてにならない』――今まさに、それを痛切に実感させられる。


 結局、B級レヴュラのような『大物』を解体しても得られる情報は限られ、混迷はますます深まるばかり。

 

 ――レヴュラと名付けられた謎の機械兵器とは、一体、どこの誰が何のために作り、なぜ人間を攻撃させているのか――その真相は、未だ深い闇の中だった。

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