死んだ姉のカノジョに恋をする話
まるメガネ
第1話 プロローグ
光の灯っていない薄灰色の照明。背中を冷たいフローリングに預けて青白い天井を見つめる。外光を遮っているはずのカーテンの隙間から漏れる春の暖かな日差しがひどく眩しく、鬱陶しい。
何十回と抱いた空疎な不満が頭の中で結んでは解ける。思考はどこまでも深い海に沈んでいくが、取り返しがつかなくなる前に、部屋の隅に置かれた芳香剤の香りが私の意識を引きづりあげる。
ずっと捨てようと思って捨てられずにいるレッドワインの芳香剤は、姉さんからもらった最後のプレゼントだった。
それはいつも姉さんがつけていた香水の匂いとよく似ていて、芳香剤の匂いで満たされたこの部屋にいると、姉さんに包まれているような感覚がする。
ふと、時計に目を向けると短い針はきっちり5時を指していて1日の終わりを感じさせる。そろそろ、篠澤さんが来る時間だ。
ピンポーン。
どうやらその予想は当たっていたらしい。私以外誰もいない家に間の抜けたチャイム音が響く。まもなく、扉を閉めたときに生じたであろう振動が伝わり、遅れて階段を登る足音が聞こえてきた。
学校がある日は決まってこの時間に私の家にやってくる先輩、それが
私が通っていた高校の生徒会長。しかし、その肩書きは私にとって何も重要でない。私にとって彼女は、姉さんの恋人という記号の方が何百倍も重い意味を持つ。
姉さん、甘川なゆたは去年の12月に交通事故で亡くなった。あまりに突然の別れで今も全然信じられていないけれど、3ヶ月という時の流れが無情にもその事実を私に叩きつけてくる。
姉さんの部屋は片付けられて今は物置になっているし、玄関の靴に姉さんのものはなく、スリッパも外出している両親のものが添えられているだけだ。
姉さんは私の光だった。共働きで帰りが遅い両親に代わって私の面倒を見てくれて、寂しさを埋めてくれた大切な家族。
私は、姉さんのことが好きだった。それは多分普通の家族に向けるものよりも重いものだったと思う。
そして、そんな姉さんと同じくらい私は志帆さんのことも好きだった。
篠澤志帆さん。姉さんが朗らかで優しい光だとしたら、志帆さんは太陽のような力強い光で私を照らしてくれる、私の――初恋の人。
私が志帆さんに向ける感情は、友達や尊敬する先輩という枠には当てはまらなかった。あるいは姉さんに向ける家族愛とも違うもっと特別なもの。
それを恋だと知るのにそう時間はかからなかったと思う。
気がつけば志帆さんのことを目で追っていたし、まだ恋仲になっていないときに志帆さんが姉さんの部屋に遊びに来たときは内心ドキドキしていた。
きっかけなんて分からない淡い恋心。だけど、その想いは実ることはなかった。
姉さんが私に志帆さんと付き合うことを告白してくれた日のことは今でも鮮明に思い出せる。
志帆さんと手を繋いて自慢気に交際を明かす姉さんの幸せそうな声、姉さんの隣で顔を赤らめて満更でもなさそうに目線を右往左往させる志帆さんの恥ずかしそうな顔。
私の大好きな人同士が結ばれた。そのことを喜び、誰よりも先に祝わなければならないはずなのに、私は「おめでとう」の一言も言えなかった。
私だけの姉さんではなくなってしまったことと、私の恋が叶わなかったことで頭がいっぱいになってしまい、黙って離れることしかできなかった。
それからは志帆さんとの距離が遠くなってしまったというか、なんとなく遠慮してしまい直接的な関わりがほとんどなくなってしまった。
私は世界が怖い。私から姉さんを奪ったこの世界が、姉さんのいないこの世界が。
でも何より怖いのは、心のどこかで志帆さんを欲している――いや、志帆さんが私の姉さんの代わりになって、私を姉さんの代わりにしてほしいと願っている酷く醜い私の心だ。
私は今でも彼女に恋しているのだろうか。姉さんの恋人になってからは姉の友達として正しい、適切な(はずの)距離感で接していた。学校、家で偶然すれ違った時も会釈や軽い挨拶こそすれ、目立った会話などはなかった。
お化粧やネイルを教えてもらった、姉さんが家事をしている間話し相手になってくれた、小さな頃の思い出は腕の中にあるけれど、成長して距離が生まれてからの彼女との思い出は希薄で、腕をすり抜けていってしまう。
そして今、私は志帆さんを拒絶してしまっている。3ヶ月だ。決して短くない期間、私は彼女を無視しているのだ。今更恋だなんて……
分からないこと、怖いこと、思い出したくないことが私を縛り付ける。一歩を踏み出そうにも私の全身に固く絡みついた鎖が邪魔でどうにもできない。
「
部屋の外から凛とした、しかしどこか不安気な声が聞こえた。
「…………」
「今日あなたの家に行く途中、桜が咲き始めていることに気づいたわ」
「…………」
こうして志帆さんに話しかけられても、何を話していいのか分からず押し黙ることしかできない。
もう3ヶ月間、ずっとこの調子。最低だ。私は全てから逃げていて、彼女の厚意を無碍にし続けている。
緊張か、それとも単に声をずっと出していないからか、石のように凝り固まった声帯は一切の音を発することができない。
「……そろそろ新学期ね。甘莉、進級はできそう?」
たぶん、進級はできる。あの日までは皆勤賞でそれなりの成績を残していたから。それでも、2年生になったらこれ以上の欠席は許されなそうだけど。
「大丈夫よ甘莉。もしもあなたが留年してしまっても、私が勉強を教えてあげるから」
……留年してしまったら何も大丈夫ではないだろう。
「ねえ、甘莉……私ね、来週から塾に通うことにしたの。だから、こうして毎日はあなたの家に来れなくなりそうなの」
「そろそろあなたの姿が見たいわ。お願い、甘莉。」
扉を軽く叩く音がした。彼女の声はいつもより切実で、胸が苦しくなる。それでも、私は彼女の願いに応えられそうにない。立ちあがろうとすると足に力が入らないし、声も相変わらず出せない。
「何度も言うようだけれど、私はただ甘莉のことが心配なの。あなたが今何をしているか、何を思っているのか……なんでもいいから教えてほしい。ただそれだけ」
少しずつ彼女の声が固く、速くなっていく。切実みが増す彼女の声が私の心に深く刺さる。
「……ごめんなさい。少し気がはやりすぎたみたいね。今日はもう帰るわ。夜はまだ冷えるから、暖かくして寝るのよ。それじゃあ、また明日」
少しの沈黙の後、廊下を歩くスリッパの間抜けた音が耳に届く。私は手を小さく振ることしかできなかった。
また明日、明日になれば何か変わるだろうか。変えるための勇気さえ持ち得ない自分の不甲斐なさを呪いたくなる。
足音が段々と遠のいていくかと思ったが、再び近づいてきた。
「別に私はあなたに何かを強要するつもりはないわ。それだけは覚えておいてほしい」
それはさっきまでの不安気な声でも焦りを感じさせる声でもない、とても芯が通っていて穏やかな声だった。
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