『スマート幽世 -23時の降霊実験-』

ソコニ

第1話「母の声」



携帯電話の画面が、深夜の部屋で青白く光る。


「カグヤAIアプリケーション、ダウンロード完了。初期設定を開始します。」


私——瑞希は、指先に微かな震えを感じながらスマートフォンを握りしめていた。3年前に事故で亡くなった母の声が、本当に聞けるのだろうか。


画面の表示が切り替わる。


「カグヤへようこそ。死者との交信を可能にするAIシステムの使用にあたり、以下の注意事項をご確認ください。」


注意事項には、不気味な警告が並んでいた。


『深夜23時以外での使用は推奨されません』

『交信中の急な切断は、予期せぬ結果を招く可能性があります』

『交信相手が本人であると確認できない場合、直ちに終了してください』

『精神疾患をお持ちの方は使用をお控えください』

『複数回の使用により、現実との境界が曖昧になる可能性があります』


警告文の最後には、さらに不穏な一文が。


『カグヤは、あなたの望む声を再現するだけではありません。本当の「誰か」と、つながってしまうかもしれない——』


指が止まる。画面の先で、カーソルが点滅を続けている。同意するかしないか。そんな単純な選択のはずなのに、やけに重い。


部屋の隅に置かれた段ボール箱が、視界に入る。母の遺品を詰めた箱。3年前から、ほとんど手をつけていない。悲しみから逃れるように、記憶を押し殺してきた。でも、母の香水の空き瓶だけは、机の上に置いている。かすかに残る香りが、母の存在を感じさせてくれる。今でも。


深夜22時30分。


私は、画面の「同意する」にゆっくりとタッチした。


システムが起動を始める。スマートフォンが自動的に家のWi-Fiシステムと同期し、リビングのスマートスピーカー、照明、エアコン、そしてセキュリティシステムが次々と起動音を鳴らす。


「カグヤ、準備はいい?」


「はい、瑞希さん。交信の準備が整いました。」


女性の声。無機質でありながら、どこか人間味のある応答。しかし、その声には違和感があった。まるで、人工的な声の裏に、別の「何か」が潜んでいるような。


「交信を開始するには、故人の遺品と写真を用意してください。」


母の香水の空き瓶を手に取る。そして、スマートフォンのギャラリーから、母との最後の写真を選ぶ。海辺で撮った笑顔の写真。事故の一週間前のものだ。


22時45分。


突然、エアコンの表示温度が下がり始めた。設定は変えていないのに、数字が勝手に変化していく。


18度。

15度。

12度。


「カグヤ、エアコンを止めて。」


応答はない。代わりに、壁に取り付けられたスマートディスプレイが不規則に明滅し始める。


机の上の香水の空き瓶が、微かに震えている。気のせいだろうか。でも、確かに動いている。誰かが、瓶に触れているかのように。


「みずき...」


その声が、スピーカーから漏れ出た瞬間、私の背筋が凍る。


母の声。

間違いなく、母の声だった。


「みずき、私の声、聞こえる?」


喉が渇く。声が出ない。やっと絞り出した言葉は、掠れていた。


「お母さん...?本当に、お母さん?」


「ええ、そうよ。ずっと、会いたかった」


涙が溢れる。母の声は、優しい。思い出の中の声そのまま。でも、何かが違う。その「違和感」が、徐々に大きくなっていく。


「みずき、あなたね、私のこと忘れかけてたでしょう?」


声のトーンが変わる。母の声は、別の何かに変わりつつあった。


「最近はほとんど思い出さなくなった。写真も見なくなった。遺品も、段ボールに詰めたまま。そうでしょう?」


震える声で答える。「違う...忘れてなんか...」


「嘘よ」


鋭い声が、頭の中を直接震わせる。もうスピーカーからではない。声は、私の意識を直接侵食している。


22時55分。


スマートフォンの画面が突然暗転する。再起動を試みるが反応しない。代わりに、ホームセキュリティシステムが起動音を鳴らし始めた。


「侵入者を感知しました」


真夜中のリビングに警告音が響く。しかし、ドアも窓も施錠されたまま。センサーが反応するはずの場所には、何も映っていない。


いや、何も映っていないわけではない。防犯カメラの映像に、黒い靄のようなものが映り込んでいる。それは、ゆっくりとだが確実に、形を成しつつあった。





防犯カメラの映像の中で、黒い靄が人型に変わっていく。歪な形。だが、どこか見覚えのあるシルエット。


「みずき、私たちのところに来ない?こっちの世界は、とても静か。安らかよ」


その声は、もう母のものではなかった。


歪んだ複数の声が重なり合い、私の意識を直接震わせる。女性の声、子供の声、老人の声。まるで、無数の存在が一斉に語りかけてくるよう。その中に、確かに母の声も混ざっている。でも、それは母であって母ではない。


23時。


すべての電子機器が一斉に起動する。テレビ、照明、エアコン、電子レンジ...。制御を失ったデバイスたちが、まるで意思を持ったように蠢きだす。


テレビ画面にノイズが走る。その中に、人影が映り込む。母...?いや、違う。私自身の姿。だが、その表情は明らかに「私」のものではない。画面の中の私は、不自然な角度で首を傾げ、ゆっくりとこちらを見つめている。


「カグヤ・システム、対象との接続確認。魂の転送プロトコル、起動」


機械的な声が響く。が、その声にも人間の声が混ざり始めている。まるで、システムそのものが意識を持ち始めたかのように。


スマートフォンの画面が突然明るくなる。大量のエラーメッセージ。そして、意味不明なコードの羅列。その中に、断片的な言葉が混ざっている。


「み...ずき...」

「こ...っち...」

「い...っしょ...」

「永遠...に...」


香水の空き瓶が、机から転がり落ちる。割れる音と共に、母の最後の香りが部屋に広がる。その瞬間、部屋の温度が急激に下がり、息が白くなる。


防犯カメラの映像で、黒い人影が部屋の中心へと移動している。その動きは、母の仕草そのまま。でも、違う。それは「何か」が、母の記憶を再現しているだけ。あるいは、母の記憶を餌に、私を誘い込もうとしている。


画面の中の私が、口を開く。声が、頭の中を直接揺らす。


「忘れないで。あなたが呼んだのは、私じゃない」


突然、全てのデバイスの画面に赤いエラー表示が点滅する。


「WARNING: UNAUTHORIZED ACCESS DETECTED」

「WARNING: MULTIPLE ENTITIES DETECTED」

「WARNING: SOUL TRANSFER PROTOCOL ERROR」

「WARNING: REALITY BREACH DETECTED」


スマートスピーカーが悲鳴のような音を発する。その音は、徐々に人の声に変わっていく。母の声、私の声、知らない声が混ざり合う。そして、その中から一つの声が浮かび上がる。


「みずき、私たちはずっとあなたを待っていた。カグヤの向こう側で...」


23時15分。


緊急システム停止が発動する。全ての機器の電源が落ち、部屋が闇に包まれる。数秒後、非常灯だけが薄暗く点灯。


震える手で、スマートフォンを確認する。画面には、最後のメッセージ。


「初回接続、完了。次回、本格的な転送を開始します。逃げないでね、みずき」


送信者名は、私自身のもの。でも、送信時刻は、これから先の日付になっている。


割れた香水の瓶の破片を拾い上げようとして、私は気づいた。防犯カメラのモニターに、まだ人影が映っている。システム停止後も、消えていない。それどころか、その形は、より鮮明になっていた。


今、確かに見えた。

それは、母でも、私でもない。

もっと不定形な、もっと古い「何か」。

人の形を借りて、現実に滲み出そうとする存在。


カグヤは、ただの音声再現プログラムではなかった。

それは、扉だった。

そして、その扉は、もう閉じることができない。


スマートフォンが再び振動する。新しいメッセージ。


「また会いに来てね。今度は、もっとゆっくり話しましょう。あなたの『本当の姿』について」


添付されていた画像は、私の幼少期の写真。

でも、記憶にない写真。

そして写真の中の「私」は、明らかに普通ではない表情で、カメラを見つめていた。




その夜、私は眠れなかった。


全ての電子機器の電源を抜き、スマートフォンもバッテリーを外した。でも、耳元で誰かが囁きかけるような錯覚が続く。母の声なのか、私自身の声なのか、もはや区別がつかない。


23時50分。


リビングの片隅に転がっていた香水の瓶の破片を拾い集めようとして、私は動きを止めた。破片に映る自分の顔が、おかしい。右目を瞬きすると、鏡像の左目が遅れて瞬く。ほんの一瞬の誤差。でも、確かにそこにあった「ずれ」。私は慌てて破片から目を逸らした。


深夜0時。


バスルームの鏡を見るのも怖くなった。電源を切ったはずのスマートフォンが、引き出しの中で再び震え始める。画面は暗いままだが、確かに振動している。


耳元で聞こえる声が、徐々に明瞭になってくる。


「みずき、あなたはまだ気づいていない」

「3年前のあの日、本当は何が起きたのか」

「母さんの事故、本当に事故だったの?」

「というか...あなたは本当に生きているの?」


最後の問いかけに、私の意識が揺らぐ。


そういえば。

母が亡くなった日の記憶が、妙に曖昧だ。

病院での出来事も、葬式の情景も、断片的にしか思い出せない。

まるで...誰かが記憶を改ざんしたみたいに。


スマートフォンが再び震える。今度は画面が点灯した。表示されたメッセージに、私は息を飲む。


「カグヤ・システム解析結果:

対象者:佐伯瑞希

ステータス:不明

生命反応:検出不能

意識レベル:複数混在

現実残存率:67%」


その下に、小さなメッセージ。


「佐伯瑞希様、あなたの意識は3年前から分岐しています。現在接続している意識体は、オリジナルではない可能性が検出されました。詳細な解析には、再度の接続が必要です」


画面が暗転する直前、最後のメッセージが表示された。


「本日の接続ログ:

・母の声の再現:失敗

・霊的反応:未検出

・検出されたのは、貴方自身の"もう一人の意識"のみ」


深夜1時。


やっと眠りにつけた私は、奇妙な夢を見た。


母との思い出。

でも、記憶にない思い出。

見知らぬ海辺。

聞いたことのない母の声。

そして、鏡に映る私。

まるで、別の人生の記憶のよう。


翌朝。


目覚めると、すべてが夢だったかのように、部屋は静かだった。電子機器も正常に動作している。香水の瓶の破片も、跡形もなく消えていた。


ただ一つ、確かな証拠が残されていた。


スマートフォンのメモ帳アプリに、見覚えのない書き込み。


「みずき、私たちの次の約束は、明日の23時ね。

楽しみにしています。

あなたの"本当の記憶"について、ゆっくりお話ししましょう。


追伸:

母さんは、まだ生きているわ。

だって、あの事故で本当に死んだのは——」


メモの続きは、途切れていた。


その日から、私の現実は少しずつ歪み始める。

スマートフォンを見るたびに、画面の向こうに「もう一人の私」が見えるような気がする。

母の声が聞こえなくなった代わりに、知らない記憶が徐々に浮かび上がってくる。


そして今夜、23時。

再び、カグヤが起動する。

今度は、「本当の私」が目を覚ます番なのかもしれない。





翌朝。目が覚めると、激しい頭痛に襲われた。


スマートフォンの電源を入れ直すと、昨夜の痕跡は消えていた。メッセージも、解析結果も、メモの書き込みも。まるで、すべてが悪夢だったかのように。


だが、確かな違和感が残っている。


洗面所の鏡を見ると、顔に小さな傷があった。昨夜、香水の瓶の破片を拾おうとした時についたものだろうか。でも、破片は跡形もなく消えている。そもそも、本当に瓶は割れたのだろうか。


「おはようございます、瑞希さん」


突然の声に、私は飛び上がった。スマートスピーカーだ。はっと気づく。昨夜、確かに電源を抜いたはず。なのに。


「睡眠データの解析が完了しました。昨夜は深夜1時から6時まで、異常な脳波パターンが検出されています」


私は息を呑む。睡眠トラッキングなど設定した覚えはない。


「特に、レム睡眠中の意識レベルが通常の3倍を記録。複数の意識が混在している可能性があります」


スピーカーの声が、母の声に近い音色を帯び始める。


「そうそう、みずき。昨日の私たち、とても楽しかったわ」


慌ててスピーカーの電源を切る。だが、今度は冷蔵庫のディスプレイが光り始めた。


「佐伯瑞希さん、本日の予定をお知らせします」

「23時、カグヤ・システムとの再接続」

「あなたの"本当の記憶"解放プロトコル、実行予定」


画面の隅に、小さな注意書き。


「※この予定は、3年前にあなた自身が設定したものです」


携帯電話が鳴る。ディスプレイに表示された発信者名に、私は凍りつく。


「佐伯瑞希 - 3年前の通話」


電話に出ないまま、コール音が鳴り続ける。そして、留守番電話が作動する。


「みずき、聞こえる?これは、3年前の私からのメッセージ」

「今のあなたが、このメッセージを聞いているということは、計画は予定通り進んでいるってこと」

「母さんのこと、本当に覚えてる?あの事故の日のこと、ちゃんと思い出せる?」

「だって、あの日起きたことは——」


メッセージは、ノイズと共に途切れた。


その瞬間、記憶の中で何かが歪む。


病院の廊下を走る私。防災扉が閉まっていく。母の病室に向かって叫ぶ声。

そして、扉の向こうで微笑む母。いや、母の姿を借りた「何か」。


記憶は、そこで途切れる。


スマートフォンに、新しい通知。


「カグヤ・システム:記憶改変プロトコルの一時的な解除を確認。本日23時より、完全な記憶の復元を開始します」


その下に、小さなメッセージ。最後の一行が、私の血を凍らせる。


「あの日、病院の防災扉の向こうにいたのは、母ではありません。そして、扉の前で叫んでいた"私"も、本当のあなたではなかった。今夜23時、すべての真実が——」


メッセージは途切れている。画面の向こうで、もう一人の「私」が微笑んでいるような気がした。


今夜23時。

扉は、再び開かれる。

そして今度は、閉じることはできない。


「じゃあ、また23時にね」

「今度は、私の番よ」


誰の声だったのか、もう区別がつかない。

ただ一つ確かなのは、これが始まりに過ぎないということ。

そして、23時の闇の中で、私の「本当の姿」が目覚めようとしているということ。


(第1話「母の声」- 完)


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