バランを右にしないで

@fufufu222

第1話

昼下がり、居酒屋の中は静まり返っていた。夜の営業に向けて準備を進める中、昼間は寿司弁当を売る店だ。いつものように、常連客がちらほらと訪れる時間帯。店長が突然、いつもと違う指示を出してきた。


「バランを右にしてみて。」


普段、バランの長い方は左に向けて使うのが決まりだった。しかし、今日はなぜか店長がそう言った。理由を尋ねる間もなく、店長はもう次の作業に取り掛かっていた。俺は不安を覚えながらも、仕方なく指示通りにバランを右にして寿司を盛りつけ始めた。


その瞬間、どこか不穏な空気が漂ったような気がした。だが、それを振り払って、俺はいつも通りの仕事を続けた。


昼の営業が進む中、静かな居酒屋に一人の男が入ってきた。年齢は50代くらい。目つきは鋭く、疲れた様子で、どこか影のある雰囲気を漂わせていた。カウンターに座り、無言で寿司弁当を注文した。俺はその注文を受け、寿司を作り始めた。


だが、寿司を盛りつけている最中、背後から声が聞こえた。


「君、バランを右にしたな?」


その言葉に、思わず手が止まった。声の主を振り返ると、男がじっと俺を見つめていた。その目は、どこか遠くを見つめるような空虚さを持っていて、まるで生きているように思えなかった。俺は息を呑み、言葉を絞り出した。


「店長の指示で…」


だが、男は微動だにせず、低い声で答えた。


「それ、よくないんだよ。」


その言葉が、まるで冷たい風のように俺の背筋を駆け抜けた。突然、周囲の温度が下がったように感じ、寒気が背中を包み込んだ。だが、その男は何も言わず、代金を支払い、無言で店を出て行った。


その後、俺は不安な気持ちを振り払おうとしたが、どうしても気になって仕方がなかった。どうしてあの男があんなことを言ったのか?何かが引っかかっていた。


営業が終わり、バイト仲間の一人が話しかけてきた。


「さっきの客、見たか?」


「え?見たけど、普通のお客さんじゃ…」


「いや、あの人、もう10年以上前にここで亡くなったんだよ。」


その言葉を聞いた瞬間、俺の体から血の気が引いていくのを感じた。店長が静かに、そして重く語った。


「あの客、昔、事故で亡くなったんだ。あいつ、バランを右にすると現れるんだよ。」


その瞬間、頭の中で何かがガラガラと音を立てて崩れた。思い出すと、あの男が言った「それ、よくないんだよ」という言葉。あれは警告だったのか?それとも…。


店長は続けた。


「バランを右にすることは、あの客の亡霊を呼び寄せるって言われてるんだよ。あの客は、最後に右にされたことで、ずっとそのことを恨んでいたらしい。」


俺の心臓が急速に鼓動を速め、息が詰まるような感覚に包まれた。目の前で話している店長の声が、まるで遠くから聞こえてくるように感じる。


「あの客は、誰かに警告を伝えようとして現れるんだ。だから、もしバランを右にしたら、次に現れるのは…君かもしれない。」


その時、俺は再びあの男の目を思い出した。冷たく、無表情で、まるで人間じゃないような目。あの目の中に、確かに死者の気配を感じた。男が出て行った後、店内の空気が重く、どこか張りつめたような不安感で包まれた。


それからというもの、俺は一度もバランを右にしないようにしている。もし次にバランを右に置いたら――その先に待っているのは、あの男が再び現れる瞬間だと、俺は確信しているから。


だが、時々、ふと不安が襲ってくる。もし、今度は誰かが右にしてしまったら…。その時、あの男がどんな形で現れるのか、考えただけでも恐ろしい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

バランを右にしないで @fufufu222

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ