2025年5月6日 01:36
『甘葛』への応援コメント
工藤行人です。此度はコメント欄の開放を誠に有り難く存じますと共に、別処にて如何やら“お強請り”するような形となってしまいまして大変恐縮でございます。遅れ馳せ乍ら漸くこうしてお邪魔致しております(麦湯やお茶請けは呉々もご無用に願います)。拝読して数日経ちますものの私の中に御作の余味は未だ残るようで、コメントをお寄せするに際して改めて拝読し直しても矢張り吃驚致しております。勿論それは、「歓待《もてなし》」「柔婉《なよやか》」のような、江戸戯作から明治美文までは慥かにその命脈を保っていたはずの義訓を含んで随処に鏤められた語彙の煌やかさ、折々に挟み込まれる体言止めの調子の如何にも語り物のような心地良さに支えられた、敢えて誤解を懼れずに云えば「正統的」美文の風合い、そう云った第一義として表層的な美点に拠るものでもありましょう。けれども、私が或いはそれ以上に唸らされておりますのは、巧妙に工まれた(と思われる)メタファやコノテーションの秀逸さ(と私として解したもの)なのです。植物に纏わる語彙の持つシンボリスム、広がる幻想的な恐怖とエロティシズムの「蔓」は、例えばギリシャ神話における〈デイモス(恐怖)〉と〈エロース(性愛)〉とが兄弟関係とされることにも仄めかされるような、洋の東西を問わぬ普遍的モチーフを絡め取った上で、更に「麦湯」と「少年」とに媒介されて、徳川時代の浮世絵に描かれた「麦湯売り」「茶屋」「美童」と云った世界観と御作に描かれる世界観との接続を確乎たるものにしているように思われます(実際の浮世絵に「麦湯売り」として多く描かれるのは「十四、五歳」の飽くまで女性ですけれども、衆道の「茶屋」に於いても同様のことは有りましたでしょう)。その上で、特に唸らされましたのは、従兄が茶請けを探しに台所へ立った後の件、---西日の飴湯に、磨硝子も砕いた氷が崩るるように濡れていた。そこへ飴の凝《こご》りの靄が、華奢な人影となって揺れるのが透けて見えた。---と最後の、---逢魔が時、魔に魅入られた友もまた籠絡された(中略)茶托の触れる底で、澄んだ硝子に氷の御弾《おはじき》が砂糖の名残《なごり》の靄と絡んで回る。---との間に見出される、美的トートロジーなのです。是には痺れました。「西日の飴湯」と「逢魔が時」の色は同じで、「砕いた氷が崩るるように濡れていた」「磨硝子」も、「澄んだ硝子」=氷の融けて表面に定めし水滴を纏うたであろうグラスと対応し、「砕いた氷が崩るるように」、そのグラスの中の氷も又、麦湯と馴染んで「御弾《おはじき》」のように小さくなっている(是は時間の経過をも読者に気取らせますね)、そして何より砂糖が飲み料の中で融ける時の、あの意志を持った水蛇のようなゆらびく筋のような「靄」……此方の世界と彼方の世界の混和する中に融けていく人物達、揺らぐ現実と虚構の境界線、何とも筆端に尽くし難い、強いて云えば「凄い」としか云いようのなく法悦すら覚える、名実相備わる美文なること疑い有りません。私もこんな文章を書いてみたいです……Meraviglia!!〈叙述(説明)〉を意味する〈ディエゲーシス〉が“digest”=要約するの語源であることは示唆的です。此の「要約」なる営為が(「何を」の観点から為され、「何で」を捨象してしまうから)苦手で専ら引用(と解釈、及び妄想)許りしております私にとって、雄弁に叙述(説明)するでなしに描写を提示して多様な〈読み〉を読者に聴して下さるような懐の深い御作を拝読すること出来まして、何とも滋味深い黄金週間となりました。改めまして御礼申し上げます。他の御作も少しずつ拝読しに伺いますので、今後ともよしなにお願い申し上げます。追伸:菅原さんの歌集、私としましても大当たりでした。静謐な熱感を帯びた御歌を拝読してさえ瀞むような心持ちになりました。パリの景色を詠まれた御歌が多いだけあって、舟や川、水がよく登場しますけれども、水の流れのように時の流れて何十年か後に、同じパリの景色を見て菅原さんは如何なる御歌を詠まれるだろうか、その変容(若しくは不変)を拝読叶うたなら、などと私かに期待しております(此方にて陳べるべきことでもありませんでした、お聴し下さいませ)。
作者からの返信
この度はご丁寧なご感想をありがとうございます。思えば挨拶を忘れておりました、あらためまして蘆蕭雪と申します。工藤様のような博学多識の御方の前では、自分の無知蒙昧が見透かされるようで恥じ入るばかりなのですが、造詣の深い読者の方々の「解釈」にゆだねることで作品としても新たな面を見出していただけるのだな……と感服しております。過分なお言葉を賜りおもはゆく恐縮しきりですが、心より感謝申し上げます。植物をはじめとした暗喩(仰る「メタファ」)には、実は書き手としての作為的な企図はなく、まったく偶然のもので、その連関にこちらが驚いております。麦湯と美童の取り合わせに必然性があれば嬉しく思います。執筆当時、意図していたことは数点ありました。掌篇の範疇(二千字)に納めること、叙述ではなく描写を重視すること……そのため、題名に「甘葛」、舞台として夏の田舎を定めた際、夏と結びつく物を用いて情景描写を「圧縮」することを試みました。冒頭の麦湯、伊予簾などはその代表例ですが、麦湯の色合いから茶褐色を景色のベースに定める連想に至っています。これは、作品の中での色数の制限(というと、現代のイラストやデザインの発想に近しいのですが)でもあり、現実=此岸=セピア色(麦湯、西日の色、褪せた写真)、異界=異類=極彩色(蔦、浴衣の柄)の対比を意識していたものと思われます。工藤様の仰る「美的トートロジー」は、その延長線上として硝子=氷、飴=甘葛=砂糖のような小道具を重ねて作品全体の融和を図ったもので、ご指摘の描写はまさにその通りの意図で書きました。但し、情景描写に偏るあまり心理描写が少なく、心理を仮託した表現にも乏しいことはひとつの課題かもしれません。御作の、心情を託すような情景に憧憬を抱いております。菅原先生の歌集をお気に召してくださったこと安堵しております。書籍を推挙することも恐れ多いのですが、大変嬉しいです。菅原先生の透徹な目を通じた時、どのような景色が涙の水面に浮かぶものかとこちらも愉しみになりました。拙作を深く読み解いてくださいましたこと、心より感謝申し上げます。この度はまことにありがとうございました。お言葉を胸に留め、恥じぬよう精進してまいります。(コメント欄は閉鎖する可能性もありますが、近況ノートのコメント欄は不定期で開放しておりますので、必要な時にはお声がけいただければ幸いです)
『甘葛』への応援コメント
工藤行人です。此度はコメント欄の開放を誠に有り難く存じますと共に、別処にて如何やら“お強請り”するような形となってしまいまして大変恐縮でございます。遅れ馳せ乍ら漸くこうしてお邪魔致しております(麦湯やお茶請けは呉々もご無用に願います)。
拝読して数日経ちますものの私の中に御作の余味は未だ残るようで、コメントをお寄せするに際して改めて拝読し直しても矢張り吃驚致しております。勿論それは、「歓待《もてなし》」「柔婉《なよやか》」のような、江戸戯作から明治美文までは慥かにその命脈を保っていたはずの義訓を含んで随処に鏤められた語彙の煌やかさ、折々に挟み込まれる体言止めの調子の如何にも語り物のような心地良さに支えられた、敢えて誤解を懼れずに云えば「正統的」美文の風合い、そう云った第一義として表層的な美点に拠るものでもありましょう。
けれども、私が或いはそれ以上に唸らされておりますのは、巧妙に工まれた(と思われる)メタファやコノテーションの秀逸さ(と私として解したもの)なのです。植物に纏わる語彙の持つシンボリスム、広がる幻想的な恐怖とエロティシズムの「蔓」は、例えばギリシャ神話における〈デイモス(恐怖)〉と〈エロース(性愛)〉とが兄弟関係とされることにも仄めかされるような、洋の東西を問わぬ普遍的モチーフを絡め取った上で、更に「麦湯」と「少年」とに媒介されて、徳川時代の浮世絵に描かれた「麦湯売り」「茶屋」「美童」と云った世界観と御作に描かれる世界観との接続を確乎たるものにしているように思われます(実際の浮世絵に「麦湯売り」として多く描かれるのは「十四、五歳」の飽くまで女性ですけれども、衆道の「茶屋」に於いても同様のことは有りましたでしょう)。
その上で、特に唸らされましたのは、従兄が茶請けを探しに台所へ立った後の件、
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西日の飴湯に、磨硝子も砕いた氷が崩るるように濡れていた。そこへ飴の凝《こご》りの靄が、華奢な人影となって揺れるのが透けて見えた。
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と最後の、
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逢魔が時、魔に魅入られた友もまた籠絡された(中略)茶托の触れる底で、澄んだ硝子に氷の御弾《おはじき》が砂糖の名残《なごり》の靄と絡んで回る。
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との間に見出される、美的トートロジーなのです。是には痺れました。「西日の飴湯」と「逢魔が時」の色は同じで、「砕いた氷が崩るるように濡れていた」「磨硝子」も、「澄んだ硝子」=氷の融けて表面に定めし水滴を纏うたであろうグラスと対応し、「砕いた氷が崩るるように」、そのグラスの中の氷も又、麦湯と馴染んで「御弾《おはじき》」のように小さくなっている(是は時間の経過をも読者に気取らせますね)、そして何より砂糖が飲み料の中で融ける時の、あの意志を持った水蛇のようなゆらびく筋のような「靄」……此方の世界と彼方の世界の混和する中に融けていく人物達、揺らぐ現実と虚構の境界線、何とも筆端に尽くし難い、強いて云えば「凄い」としか云いようのなく法悦すら覚える、名実相備わる美文なること疑い有りません。私もこんな文章を書いてみたいです……Meraviglia!!
〈叙述(説明)〉を意味する〈ディエゲーシス〉が“digest”=要約するの語源であることは示唆的です。此の「要約」なる営為が(「何を」の観点から為され、「何で」を捨象してしまうから)苦手で専ら引用(と解釈、及び妄想)許りしております私にとって、雄弁に叙述(説明)するでなしに描写を提示して多様な〈読み〉を読者に聴して下さるような懐の深い御作を拝読すること出来まして、何とも滋味深い黄金週間となりました。改めまして御礼申し上げます。他の御作も少しずつ拝読しに伺いますので、今後ともよしなにお願い申し上げます。
追伸:
菅原さんの歌集、私としましても大当たりでした。静謐な熱感を帯びた御歌を拝読してさえ瀞むような心持ちになりました。パリの景色を詠まれた御歌が多いだけあって、舟や川、水がよく登場しますけれども、水の流れのように時の流れて何十年か後に、同じパリの景色を見て菅原さんは如何なる御歌を詠まれるだろうか、その変容(若しくは不変)を拝読叶うたなら、などと私かに期待しております(此方にて陳べるべきことでもありませんでした、お聴し下さいませ)。
作者からの返信
この度はご丁寧なご感想をありがとうございます。
思えば挨拶を忘れておりました、あらためまして蘆蕭雪と申します。
工藤様のような博学多識の御方の前では、自分の無知蒙昧が見透かされるようで恥じ入るばかりなのですが、造詣の深い読者の方々の「解釈」にゆだねることで作品としても新たな面を見出していただけるのだな……と感服しております。過分なお言葉を賜りおもはゆく恐縮しきりですが、心より感謝申し上げます。植物をはじめとした暗喩(仰る「メタファ」)には、実は書き手としての作為的な企図はなく、まったく偶然のもので、その連関にこちらが驚いております。麦湯と美童の取り合わせに必然性があれば嬉しく思います。
執筆当時、意図していたことは数点ありました。掌篇の範疇(二千字)に納めること、叙述ではなく描写を重視すること……そのため、題名に「甘葛」、舞台として夏の田舎を定めた際、夏と結びつく物を用いて情景描写を「圧縮」することを試みました。冒頭の麦湯、伊予簾などはその代表例ですが、麦湯の色合いから茶褐色を景色のベースに定める連想に至っています。これは、作品の中での色数の制限(というと、現代のイラストやデザインの発想に近しいのですが)でもあり、現実=此岸=セピア色(麦湯、西日の色、褪せた写真)、異界=異類=極彩色(蔦、浴衣の柄)の対比を意識していたものと思われます。工藤様の仰る「美的トートロジー」は、その延長線上として硝子=氷、飴=甘葛=砂糖のような小道具を重ねて作品全体の融和を図ったもので、ご指摘の描写はまさにその通りの意図で書きました。但し、情景描写に偏るあまり心理描写が少なく、心理を仮託した表現にも乏しいことはひとつの課題かもしれません。御作の、心情を託すような情景に憧憬を抱いております。
菅原先生の歌集をお気に召してくださったこと安堵しております。書籍を推挙することも恐れ多いのですが、大変嬉しいです。菅原先生の透徹な目を通じた時、どのような景色が涙の水面に浮かぶものかとこちらも愉しみになりました。拙作を深く読み解いてくださいましたこと、心より感謝申し上げます。この度はまことにありがとうございました。お言葉を胸に留め、恥じぬよう精進してまいります。(コメント欄は閉鎖する可能性もありますが、近況ノートのコメント欄は不定期で開放しておりますので、必要な時にはお声がけいただければ幸いです)