弱音器

小狸・飯島西諺

短編

 弱音を吐くと、「病気を言い訳にするな」と言われる。


 弱音を我慢すると、「なんだ、全然平気じゃん」と言われる。


 生きづらい世である。


 令和の今となっても、精神に関する病気についての理解は、いまだ世の中に広まり切っていない。


 別に良い訳にしているわけでもないのだが、健常者の方々からは、言い訳をしているように見られるらしい。見られる。比喩表現ではなく、視覚的な問題である。骨折などとは異なり、心の病気は目には見えない。そのためにヘルプマークなどが市で無料配布されていたりもするのだが、それも世に浸透しているとは言いがたい。


 誰しもが精神疾患になる可能性を秘めている、明日布団から起きることができなくなって、身体と精神の繋がりが壊れてしまうことだってある、普通に毎日を送ることができていることに感謝しろとまでは言わないけれど、できるのなら私だって普通に仕事をして生活を送りたかったと思っているのだ。


 にもかかわらず、まるで精神疾患持ちは人間ではないように扱われることがある。


 ――若いうちの努力は買ってでもしろ。


 ――若いんだから多少の無理は承知でやれ。


 ――35歳までに頑張り切れた人間が成功する。


 インターネット上を浮遊していると、実業家や自称成功者たちの、そんな言葉が跋扈ばっこしていることがある。


 そういうものを見てしまうと、胸が痛くなる。私は、これらの言葉の適用外である。ならば若いのに努力できなかった、頑張ることができなかった、無理することができなかった私と、普通に仕事ができていた他の皆との差は、明確に開いてしまったように感じる。勝手に疎外感を感じて、勝手に自責の念を抱いてしまうのである。気を付けようと思う。


 私は――こんなことを臆面もなく言うと、結果論だろうと一笑に付されることを承知の上で言うけれど、中学生くらいの頃から、まともな社会人にはなれないだろうなと、どこかで思っていた。


 そもそも就活のエントリーシートの、「長所」の部分ですら、自己肯定感が低すぎて記載することができなかったのである。自分の「長所」なんてあるはずがない。「短所」しかない。自分は生きていてはいけない類の人間だ。中学の頃からそう思っていたし、それは実際その通りになった。


 皆が社会人として働いている最中、私は、まともに外出することもままならず、通院と服薬を繰り返しながら、ぼうと家で日々を過ごしている。


 することはない。


 いや、笑われるかもしれないけれど、本当に日中は、スーパーに買い物に行くとき以外は、アパートの自室の天井を見て過ごしている。


 何も思わない。


 何も思えない。


 昔は、本を読むことが好きだった。


 しかし、この状態になると、本を読むことすらままならない。


 読みたいという意志そのものが何かに阻害されるとでも言おうか。


 図書館で借りようとか、本屋で買おうとか、本棚から取り出そうとか、それすらまともに思えなくなるのである。


 大好きだった作家先生の新刊が発売されても、心躍らなくなってしまった。


 個人的にはそれが一番苦痛だった。


 思考は、頭の中に蜘蛛の巣が張ったようにぼやけていて取り留めがなく、会話にはまとまりがない。その蜘蛛との付き合いは十数年になるけれど、寝ている間に網を張って徐々に私の思考領域は狭められていっている。


 薬や通院のおかげで死にたいと思い――思いつめて行動に移すことはなくなったものの、生きているという感触はない。


 茫然と生きている。


 正確には、生かしてもらっている、と言うべきか。


 だから、せめて人に迷惑をかけないように、生きようと思う。


 私はいつまでこのままなのか。


 私はいつになったら、私は世の中の役に立てるのか。


 誰か教えてくれ。




《senza sordino》 is the END

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