シーズン・パパ

lager

浮気

 もうじき、春が終わろうとしていた。

 街路樹や公園の緑は日ごとに濃さを増し、夜にコートを羽織る必要もなくなって幾日か経った頃。閑静な住宅街の一角に建つ一軒家の玄関先で、キャリーケースを携えた男が、一人の子供に見送られようとしていた。


「また出て行ってしまうの?」

「そうだね」

「次はいつ帰ってくるの?」

「また来年の春さ。お前が三年生になった頃だろう」


 外灯が黄色い光で不安げな子供の顔を照らしている。

 男は穏やかな顔で、子供の頭に手を置いた。


「いい子にしているんだよ。母さんと仲良くな」

「パパは僕たちのことが嫌いなの?」

「まさか」


 男は心底驚いたように、大袈裟な身振りで両手を広げ、子供を抱きしめた。


「なあ。僕はこの三カ月間、良い父親だったろう?」

「うん。ゲームで一緒に遊んでくれたし、博物館にも連れて行ってくれた」

「恐竜の模型を買ってあげたな」

「勉強も教えてもらったよ」

「そうとも。お前は今年、学校の授業で困ることはない。お前は俺に似て勉強が得意だものな」

「うん。春の間はね」

「俺がお前に色んなことを教えてやるのも、買ってやるのも、みんな、お前のことが大好きだからだ。そうじゃなきゃこんなことはやらないさ。お前だけじゃない。僕は母さんのことも愛している。心の底からだ」

「じゃあ、どうして春にしか一緒にいてくれないの?」

「お前たちを愛し続けるためだよ」


 男の顔は穏やかで、慈愛に満ちた微笑みで、子供の目を正面から見ている。


「僕はお前たちを愛している。けどな、愛し続けるのは三カ月が限界なんだ。僕が良い父親や良い夫でいられるのは、三カ月までなんだ。それ以上一緒にいると、だんだんお前たちのことが煩わしくなってくる。家にいても、仕事をしていても、外に出てもずうっとお前たちのことを考え続けていることに耐えられなくなってくるんだ」

「だから、出ていってしまうの?」

「そうだよ。九カ月の時間を置くことで、僕はまた良い父親でいられるようになる。これは必要なことなんだよ」

「その間、パパはどこにいるの?」


 生暖かい風が通りを吹き抜け、柔らかな子供の髪をなぶった。

 男は、それを丁寧に撫でつけている。


「別の家さ」

「別の家って?」

「ここからずうっと遠く離れた町さ」

「そこには誰がいるの?」

「別の家族さ。その家にはお前の母さんとは全然違う母親がいて、女の子が二人いる。僕は夏の間、そこでまた良い父親になる。ケーキを買ってあげるし、人形を使っておままごとにも付き合ってあげる。お前が大嫌いなショッピングモールの買い物にも喜んで行く。僕はこの家では小説を書く仕事をしているけど、そこでは絵本を描く仕事をしているんだ。だけど、それはお前たちよりもその家族のほうが大事っていうわけじゃない。大事なものっていうのはね、簡単には比べられないんだ。お前だって、母さんが焼いてくれたパンケーキと、僕がプレゼントした海の生き物の図鑑、どちらが好きかって聞かれても困るだろう?」

「うん。分かるよ」

「いい子だ」


 男は最後に子供の額にキスをすると、キャリーケースを握り直して立ち上がった。

 子供はくすぐったそうに身をよじると、恥ずかし気な笑みを浮かべた。


「パパの絵本、読んでみたいな」

「うん。じゃあ、今度お土産に持ってきてあげよう」

「約束だよ」

「分かってるさ」

「じゃあね、春のパパ」

「ああ。また来年の春にな。さあ、早くお休み」


 子供が家の中に入るのを見届けて、男は歩き出した。

 からからとキャリーケースを引きずって、夏の香りのする夜闇の中に消えて行った。


 そして。


「きちんとパパにさよならできた?」

「うん」

「いい子ね。じゃあ、早く寝ましょうね。もう遅いわ」


 家の中で、寝巻に着替えていた女が、子供を抱きしめ、ベッドへと導いた。

 柔らかな毛布にくるまれた子供は、女の微笑みに見守られながら、やがてすやすやと寝息を立て始めた。

 それをしっかりと見届けた女は、音を立てないようにベッドから抜け出し、姿見で髪を整えた。

 ダイニングへ灯りを点し、グラスを二つと、ワインのボトルを一つ用意した。


 やがて玄関の錠を開ける音が鳴り、足音を立てないように、ゆっくりとした足取りで、一人の男が入ってきた。

 男の姿を認めた女は慈愛に満ちた笑みを浮かべ、立ち上がった。

 男と女が抱き合う。


「ただいま」

「おかえりなさい、夏のあなた」

「あの子はもう寝たのか?」

「ええ」

「去年約束したグローブを買ってきたんだ。これでキャッチボールができる」

「ありがとう。きっと喜ぶわ」

「すっかり大きくなったんだろうな」

「もちろんよ。体を動かすのが大好きだもの」

「あの子は俺に似ているからな」


 女の唇が、笑みを作った。


「ええ。夏の間はね」

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