102号室

猫又毬

第一章:着信

篠原美咲は、深い眠りに落ちていた深夜、枕元のスマホがけたたましく鳴り響く音で目を覚ました。

好きな仕事に就いて八年。右往左往する時期を乗り越え、仕事の幅も広がった。

探求する面白さにも気付き、バリバリ仕事をこなす日々は順調そのものだったが、比例する様に疲労と睡眠不足が堆積し、いつの頃からか帰宅後は泥の様に眠る日々が続いていた。

寝ぼけ眼で画面を見ると、知らない番号が表示されている。

固定電話からの着信だった。


――こんな時間に誰だろう?


寝ぼけた頭で、無意識のうちに通話ボタンを押す。


「もしもし…?」


受話器の向こうからは確かに人の気配を感じたが、しばらく沈黙が続き、薄気味悪さよりも眠りを妨げられた苛立ちが湧いてくる。


「もしもし?」


まだ醒めきらない目をこすり、再び不機嫌な声を出したその時、沈黙の中から突然、低く震える声が聞こえてきた。


「……助けて……」


切羽詰まった懇願とも、呪いの囁きともとれる響きに、ハッと意識が冴えてくる。

が、その瞬間、ブツリと電話は切れてしまった。

慌てて着信履歴を確認するが――不思議なことに、その番号はどこにも残っていない。


「いまのは…夢?…」


震える指で画面をスクロールし、何度も確認するがやはり履歴は残っていなかった。

不安な気持ちを抱えたまま、美咲は再び眠りにつこうと目を閉じたが、先程聞いた「助けて」という囁きが耳に残り、結局、明け方に少しまどろんだだけだった。


朝6時、いつも通り起床時刻を告げるアラームが枕元で鳴ると、美咲は重い頭と体をベッドから起こし、フラフラとキッチンへ入りコーヒーを淹れはじめた。

職場の近くにある小さなコーヒーショップでいつも買う、インスタントではあるがいい香りのするお気に入りのコーヒーだった。

コーヒーの入ったマグカップに少し口をつける。

唇に滲むコーヒーの苦味と共に、香ばしい香りが鼻腔を抜け、頬がほころぶ。

少し大ぶりなカップを両手で包み込む様に持ち、しばらく両手を温めると「完全栄養食」が売りのパンを戸棚の奥から引っ張り出す。

開けにくい袋を横向きに破り、ノロノロとした動きで口へと運び、ゆっくりと咀嚼を繰り返した。

穀物のツブツブとした食感を噛みしめ、袋の裏に印刷された栄養成分の多さを確認すると、ちゃんと栄養を摂れている、自分を労っている感じがして何となく落ち着くのだ。

アラサーと呼ばれる年齢に差し掛かった頃からだろうか、食べる物に意識を向ける様になったのは。

体力の変化はあまり感じない美咲だったが、それでも荒れてしまった肌の回復や、血色の良し悪しが気になるようにはなっていた。

ビタミンがアレコレ配合されているというサプリを飲みつつも、なるべく食事から栄養を摂れるようにと気を使ってはいた。

が、仕事が繁忙期ともなれば帰宅後の最優先事項は睡眠に取って代わられてしまう。

食べられる物を食べ、とにかく眠るのだ。

そんな時の罪悪感を少しでも減らすアイテムとしてストックしてあったパンが、今朝の美咲を助けてくれていた。

パンと温かいコーヒーが胃を温め、ぼんやりとしていた意識が徐々にハッキリとしてくる。


――昨夜の電話は何だったんだろう……。


疲れた意識が見せた夢だったとも、いわゆる怪奇現象に遭ったのだとも思えた。

しかし、夢にしては囁かれた声が生々しすぎるとも感じていた。

スマホを当てた耳に、発声と共にマイクを振動させる相手の息づかいまで感じたのを思い出す…。

美咲は小さく身震いすると、わざとらしく時計を確認し、カップに残ったコーヒーを喉に流し込むと身支度の為に席を立った。


いつも通りの時間に家を出て、いつも通りの通勤電車に揺られ、いつも通りの時刻に会社に着く頃には昨夜の奇妙な出来事は美咲の中ですっかり影を潜め、頭の中は今日のスケジュールに切り替わっていた。


――今日は打合せが二件。その前に資料の再チェックと、メールの確認と……


そんな事を考えながら、美咲はオフィスの入るビルのエレベーターに乗り込んだ。

不動産を取り扱う会社の業務は多岐に渡るが、学生時代にインテリアについて学んでいた美咲は、主に物件の設計やリフォームを請け負う現在の部署に入社三年目で配属されて以降、仕事が楽しくて仕方がなかった。

綺麗に整えられたデスクに着くと座りなれた椅子に腰を下ろし、パソコンの電源を入れ今日の予定を再度確認する。


――午前中:担当している物件のオーナーと、リフォームについての打合せ。


――午後:新築予定物件の内装についてのミーティング。


今日の為に既に用意してあった資料をもう一度見直し終わったところで、美咲に来客の知らせが入った。

彼女は引き出しから小さな手鏡を出すと掌の中でそっと開き、自分の顔を映す。

ファンデーションのヨレも、マスカラの滲みも無い。

やっと肩につく長さまで伸びたダークブラウンの髪も、今日はハーフアップで綺麗にまとまっている。

鏡の中の自分に小さく頷くと、美咲は今しがた最終確認を終えた資料の山を抱え、来客ブースへと向かって行った。


帰宅ラッシュを少し過ぎた電車の心地よい振動に揺られ、美咲はつい、うつらうつらと眠りに誘われたが、降車駅の名前を告げるアナウンスが聞こえるとパッと顔を上げ、目を瞬かせながら降りやすい位置へと移動した。

いつもながら慌ただしい一日に疲れてはいたが、予定していた打合せは何れもスムーズに進み、美咲は充実感に満たされていた。

その夜は、冷凍してあったご飯に同じく冷凍してあった豚汁と煮物を解凍して簡単に夕食を済ませると、いつもよりもゆっくりと湯舟に浸かって体を温め、すぐに就寝してしまった。

その深夜、気持ちよく眠る美咲を再びけたたましく鳴る着信音が呼んだ。

画面を見ると、またしても知らない固定電話の番号が表示されている。

昨夜掛けてきた番号と同じだろうか?…嫌な予感がしたが、好奇心に負け通話ボタンを押してしまった。


「……助けて……」


男とも女ともつかない、あの低い声がぞっとするような囁きで響く。

心臓が跳ね上がり、思わず電話を切った美咲だったが、恐る恐る確認した履歴には、やはり何も残されていなかった。

その日から深夜の不気味な着信は連日の様に続き、耳元で囁かれる「助けて」という生々しい声が、美咲の日常をじわじわと侵食していった。

人の話し声に敏感になり、昼間掛かってくる仕事や友人からの電話にすら怯える様になっていた。

それでも、美咲のプライドがそれを悟られまいと上手く繕わせ、何とか平穏に見える日々をおくっていた。

そしてここ数日で分かった事が一つ。この着信は無視することが出来ないのだ。

深夜の着信に怯える美咲は、これを無視することを何度も試みた。

しかし駄目なのだ。この着信だけは、何故か数コール後に切り替わるはずの留守電には繋がらず、美咲が通話ボタンを押すまで鳴り続けるのだ。

一体誰が、そしてなぜ自分に「助けて」と訴えかけてくるのだろう?

確かにある着信が、履歴に残らないなどという事が果たしてあり得るのだろうか?

夜ごと執拗に繰り返される電話に、美咲は追い詰められていった。

そして幾度目かの夜、もはや日課と化している深夜の着信に、暗澹たる思いで通話ボタンを押す。――と、スマホからはこれまでのぼんやりとした囁きとは違う、はっきりとした言葉が聞こえてきた。


「……松葉ハイツ、102号室……」


その言葉に、美咲の全身が凍りつく。

――松葉ハイツ、102号室――

その場所には覚えがあった。

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102号室 猫又毬 @necomatamari

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