第5話:心の底から
バーカサブランカ。最後に来たのは海と付き合うことになったあの日。もう三十年、いや、四十年近く前になる。街並みはすっかり変わったというのに、道に迷うことなくたどり着いた。
「ここ?」
「ええ。そうなのだけど……」
たどり着いたはいいが、店は閉まっていた。臨時休業という張り紙がしてある。店に来いと言ったくせにどういうことだとため息を吐き、スマホを取り出して固まる。そういえば彼女の連絡先は知らなかった。どうしたものかと頭を抱えていると「悪い。言い忘れてた。今日、店閉めてるんだ」と海の声。振り返ると、白いシャツに黒いベストを着た彼女が立っていた。下は黒いズボンに革靴。どう見ても仕事着だ。
「裏から入って」
「休業じゃないの?」
「他の客が来ないように閉めてるだけ」
彼女についていき、裏口から入る。休業だというのに、カウンター席に客が一人。彼女の夫だ。
「なんであなたが居るのよ」
「同席してくれと妻に言われまして」
「どうせ君も婚約者連れて来るだろうと思ってね。気まずいから連れて来た。どうぞ座って」
海に促され、彼女の夫の隣一席を空けて座る。渚は何故かその空けた一席を埋めるようにして座った。
「ちょっと。なんでそこなのよ」
「みゃーちゃんが元カノさんの旦那さんに喧嘩売るといけないから。いつでも仲裁に入れるように」
「美夜はともかく、
「……あんまり離れたら話しづらいでしょ。ていうか、私はともかくってなによ」
私の言葉を無視して、彼女はカウンター下から一枚のDVDとご祝儀袋を取り出して私の前に置いた。まだ真新しいご祝儀袋には寿の文字と、亡くなった二人の名前が連名で書いてあった。しかしこれはどう見ても海の字だ。
「確かに袋を用意したのは僕だけど、中身は正真正銘二人からだよ」
「……そう」
二人が亡くなったあの日、私は彼女を責めた。知っていて何故止めなかったのかと。
『君だってきっと、彼女達の覚悟を聞いたら止められなかったよ』
あの日の彼女の言葉が蘇る。今になってようやく理解した。いつ来るかわからない私の結婚のためにメッセージだけではなくご祝儀まで用意するなんて。彼女はこれを今までどんな気持ちで預かっていたのだろう。そう考えると、自然と涙と謝罪の言葉が漏れた。彼女はその謝罪を一切受け取らず、ご祝儀袋をもう一つ取り出して、うちわのようにパタパタとはためかせながら私に問う。式は挙げるのかと。
「……今更結婚式なんて……」
「えっ」
渚が驚くように声を上げた。挙げないという選択肢など想定していなかったというような反応だ。「挙げないの?」としょんぼりした顔で言われて、何も言えなくなる。
「まぁ、どっちでも良いけど。挙げないにしてもとりあえずこれは受け取っておいて。僕らからのご祝儀は式の時に渡すから」
そう言って海はご祝儀袋を夫に渡した。私の前にはDVDと、二人からのご祝儀が残る。呆然と見つめていると「預かるね」と言って、渚が横から回収した。
「海さん……でしたよね」
「はい。
渚に対して名乗った名前は、私の知る彼女の名前と違った。姓が変わっている。
「宮渚です」
「へえ。宮さん」
「はい。彼女の名前と同じ苗字です。なので、席を入れたら彼女の方の苗字に変える予定です。うちの方に統一しても別姓にしてもややこしいですし」
「そうですよねぇ。宮美夜って……ふ……ふふ……猫じゃん。くくく……」
宮美夜という名前がよっぽどツボだったらしく、震えだす海。言われてみれば確かに猫みたいな名前ではあるが、そんなに面白いだろうか。
「ああ、ごめんなさい。話中断しちゃって」
「いえ。あの、住所教えてもらっていいですか。式の招待状送りたいので」
「夫も同席させて良い?」
「はい。ぜひ旦那さんと。ね? みゃーちゃん?」
「……はぁ。仕方ないわね。絶対来なさいよ」
「行けたらいく。行けなくてもご祝儀は夫に託すから安心して」
「行けなくても来なさい」
「無茶言うなよ。こっちは結婚式ラッシュなんだよ。娘とか、うちの従業員とか、娘の友達とか、常連客とか……はぁ。ご祝儀で破産するっつーの……」
そうため息を吐きつつも、彼女はどこか嬉しそうだった。その柔らかい表情で分かる。これから式を挙げる彼女の知り合い達も、私と同じように法が変わる日を待ち望んでいたのだと。そういう人達から是非来てくれと呼ばれるほど慕われているのだと。私の知る彼女は、同性愛者の希望的な存在だった。だからこそ、異性と結婚したことが許せなかった。裏切りだと思った。逃げだと思った。だけどその本質は異性と結婚した今も何も変わらない。何も。変わっていたら式に呼ばれるほど慕われるわけがない。
『だから籍を入れた。誰になにを言われても、僕は僕だから。過去も今も、全て本当の僕だと受け入れて生きていくために』
ふと、あの日の彼女の言葉が蘇る。ああ、そうか。ようやく理解した。最初から彼女は言っていた。逃げたのではない。むしろ逆だと。私を始めとした同性愛者からの軽蔑も失望も、今までの恋は全て一過性だったという決めつけも、普通になれて良かったという幸福感の押し付けも、全て受け止めて生きていく覚悟で、彼と結婚したのだと。
しかし分からない。この男のどこに、そこまでの覚悟で人生を捧げても良いと思える魅力があるのか。そう思いながら彼を観察していると、海は揶揄うように言った。「そんなにうちの夫が気になる? あげないよ」と。
「要らないわよ」
「彼と僕はね、幼馴染なんだ」
聞いてないのに彼女は語りだす。人生で初めてカミングアウトした相手は彼だったこと、自分の恋心よりも海の気持ちを優先して同性に対する恋心は間違いではないと言ってくれたこと、そしてその他の献身的な愛のエピソードを語ろうとしたところで、それ以上はもう良いだろうと、彼が顔を真っ赤にしながら止めた。そんな彼を見て笑う彼女は今まで見たことないほどイキイキしていた。そんな悪戯っ子のような姿を見せられたら、あの頃の私さえもきっと思うだろう。彼女が彼と結婚したのは世間体のためではなく、心の底から彼と共に生きたいと思ったからなのだと。
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