ビタースイートチョコレート

雲井

ビタースイートチョコレート

 1年の中で最も寒さが厳しいこの季節。男ばかりの校内に、不釣り合いな甘い香りが漂う。

 放課後の調理室では、男子生徒が揃いも揃ってチョコレート菓子の製造に勤しんでいた。

「ママー、いつまで経ってもデロデロなんだけど」

「こんなデカい息子を産んだ覚えはない。……水分入ってるんじゃないか?」

 調理部前部長の間々田瞬(ままだしゅん)は、あちこちから上がるSOSの対応に追われていた。

「ママー、これこのまま冷蔵庫入れていいの?」

「だから誰がママだ!粗熱取った方がいいから、一旦置いておいて」

 男子校で調理部をやるのは簡単なことではない。いつも部員は定員ギリギリ、時には兼部を頼んでなんとか存続してきた。その中で、瞬は中等部の頃から調理部について特に心を砕いてきたのだ。

 このバレンタインイベントもそのひとつだった。

「すげー!膨らんでる!」

 バタバタと動き回りながらも、楽しそうな生徒達の顔を見ると自然と頬が緩んでしまう。

 2月前半の2週間は、希望者を募ってみんなでチョコレート菓子を作る。材料費だけで、部員以外にも門戸を開くのだ。

 いわゆる本命チョコのために毎日通って練習する生徒から、楽しそうだからと飛び込みで来る生徒まで。普段はガランとした調理室が、この時期だけは賑やかになる。

 3年生の瞬はもう既に部活を引退し自由登校だったが、バレンタインイベントには助っ人として加わっていた。

「ママせんぱーい、これどこに片付けるの」

「先輩を付ければママが許される訳じゃない!ちょっと待って」

 あまりの慌ただしさに、少しだけ注意力が欠けていた。勢いよく振り返った瞬は、その勢いのままにすぐ後ろに立っていた生徒と正面衝突してしまう。

「痛……ごめん、大丈――」

 ――デカい。

 よろけた生徒が、ゆらりと立ち上がる。瞬はその生徒のあまりの身長の高さに度肝を抜かれてしまった。2メートル近くあるんじゃないだろうか。

「……こちらこそ、すまなかった」

 長い前髪で目元が隠れていて、彼の表情はよく分からない。低い声でそう言われ、瞬は気圧されるように頷いた。

「えっと、バレンタイン参加希望だった?今日はもう終わっちゃうけど」

「……」

 彼は無言でじっとこちらを見下ろしている。……多分。

「明日もやるからさ、興味あるなら来てよ」

「……この間目玉焼きを作ったら、殻入りのスクランブルエッグになった」

 へ?

 瞬が間抜けな声を出すと、彼は少しだけ恥ずかしそうに視線を斜め下へずらした。

「そんな不器用な自分でもできるだろうか」

「……大丈夫大丈夫!レベルに合わせるし、俺もできる限りのことはするし」

 安心させようと親指を立てて笑う瞬に、彼は小さく会釈をした。

「……また明日来る」

「はーい、待ってるね」

 大きな背中が遠ざかっていくのを見送ると、後輩達がパタパタと駆けてきた。

「ママ先輩!どこに片付けるんだってば」

「ああごめんごめん」

 瞬が調理器具を受け取ると、後輩の1人が去っていった彼を見て目を丸くする。 

「びっくりした。氷鷹先輩こういうとこ来るんですね」

「ヒダカ?」

「知らないんですか?剣道で全国大会行った猛者なのに」

 固めたチョコレートを口に運びながら、後輩達は各々勝手に彼――氷鷹諒(りょう)のことを教えてくれる。

「強いしデカいし顔見えないしでちょっと近寄りがたいんですよ」

「なんか武士みたいだよな」

「剣道部の主将だったんですけど、鬼軍曹だったとか」

 中高一貫校とはいえ、途中から入ってくる生徒も多いしそもそもの生徒数が多い。氷鷹とは同学年のようだが、ほぼ接点がなかった。

「バレンタインなんか絶対興味ないと思ったのに。彼女でもいるんすかね?」

 瞬は後輩がくれたチョコの試作品を、ひとつ口に放り込む。途端に過剰な甘さが口の中いっぱいに広がった。



◆◆◆

 翌日。

 瞬は職員室で借りた鍵束をくるくる回しながら調理室へ向かっていた。

 今日来そうな人数とレシピを脳内で反芻し、鼻歌を歌いながら鍵穴に鍵を差し込む。……と、ふいに周囲が暗くなった。そして背後に気配。

「――こんにちは」

「おわっ!」

 頭上から降ってくる低い声に、瞬は思わず声を上げてしまった。

「びっっくりした。来てくれたんだ、氷鷹」

 気を取り直して振り向き、瞬は氷鷹を見上げる。相変わらず目元が見えず表情は読めないが、彼はゆっくりと頭を下げた。

「一番乗りなんて気合十分だね」

「――迷惑を掛けるだろうから、せめて早めに準備をと」

 調理室の窓を開け放して回る瞬を、氷鷹も自然と手伝ってくれる。

「氷鷹は最終的にどんなのを作りたいの?」

「甘い物には余り詳しくないが……その、」

 氷鷹は手にかけたカーテンの端で、少しだけ顔を隠した。

「……いわゆる、チョコレートらしいチョコレートが作れたらと」

 そんな氷鷹の首筋は、ほんのりと赤い。

 特別勘が鋭いわけではない瞬にも分かってしまった。きっと、誰かに本命のチョコを渡すのだ。

 ――いいな。瞬の心の端っこに、そんな言葉が思い浮かぶ。

「そっか。じゃあ、生チョコかトリュフチョコを目指して作ってみようか。何日間か来れそう?」

「もう部活は引退しているから、いつでも」

 揺れるカーテンの向こう側の氷鷹に向かって、瞬は腕まくりをして見せる。

「俺が責任を持って教えるからさ。頑張ろうな!」

 氷鷹が何かを言おうとした瞬間、廊下からバタバタと足音が聞こえてきた。間髪入れず後輩達が顔を覗かせる。

「ママせんぱーい!今日俺らもやっていい?」

「おー!ママ呼ばわりさえ止めれば大歓迎よ」

 それを皮切りに、調理室に次々と生徒達がやってきた。同時に調理部員達もやってきて、瞬は超初心者テーブルに着くことになった。

 しかし。瞬がテーブルを見ると、そこには圧倒的迫力を放つ氷鷹ただ1人しかいなかった。今日は珍しく超初心者がいないのだろうか。

 配られたレシピを熱心に眺めている氷鷹に、瞬は声を掛ける。

「ごめん、お待たせ。じゃあ今日は、練習がてら普通のチョコを作ろうか」

「よろしくお願いします!」

 びぃーん、と通る大きな声でそう言うと、氷鷹は直角にお辞儀をした。一瞬だけ室内が静まり返る。

「お、おう。そんなかしこまらなくていいよ」

 なんとか氷鷹の頭を上げさせる。と、氷鷹は周りの雰囲気に気がついたのか、あっ、と小さな声を上げた。

「――すまない。また迷惑を……」

「大丈夫大丈夫!とりあえず手洗って、板チョコ割ろう」

 大きな図体を縮こまらせながら、氷鷹はこくりと頷いた。


「……板チョコは手で割るのか?」

「包丁で刻んだほうが早く溶けるけど、面倒だし手でやっちゃっていいよ」

 瞬が板チョコを渡すと、氷鷹は外の箱ごとバキィ!と豪快に真っ二つにした。

「ああ、ごめん!別にいいけど、箱は外したほうがよかったかも」

「……」

 氷鷹が少し肩を落とす。

「いや別に全然いいんだよ!ただその方がやりやすいかなってだけで」

 瞬がそう言って彼の手から板チョコを取り戻すと、銀紙だけの状態にして再度渡す。

「チョコ割ったら銀紙が入らないように、このボウルに入れて……」

 言った側からボロボロと吸い込まれていく銀紙を、氷鷹が慌てて取り除く。大きな背中が少しだけ小さく見えた。

 (ぜ、前途多難……)

 初心者大歓迎、もちろん瞬もそのつもりで気合を入れてやっている。不器用な生徒などいくらでも見てきたつもりだったが。

 でも、きっとそんなことは氷鷹自身が一番わかっている。それでも、誰かにチョコを渡したくて頑張っているのだろう。

 ――絶対に成功させよう。

 瞬は密かに闘志を燃やしながら、氷鷹からボウルを受け取った。

「そしたらこの沸かしてあるお湯で湯せんしていくんだけど、チョコにお湯が入らないように気をつけて」

 大きめのボウルに湯を張り、その上にチョコの入ったボウルを浮かべる。お湯が入らないように、という瞬の言葉を守ろうとしてか、氷鷹は恐る恐るゴムベラでかき混ぜ始めた。 

「ひとつ聞いていいか」

「何?」

「どうして君はママと呼ばれているんだ?」

 あまりに急角度の質問だったため、瞬は虚を突かれてしまう。

「ああ、俺の名字が間々田なんだよ。で、しかもお節介だからママママってイジられてんの」

「嫌ではないのか?」

「んー……別に嬉しくはないけど。でもそれきっかけで色んな子と話せるから」

 ボウルの中のチョコは、だんだん形を失ってゆるゆると液状に変わっていく。

「調理部って人数少なくて世界狭いから、たくさんの人と関われる方が俺は嬉しいかな」

「……そうか」

 ふと視線を感じ、瞬は氷鷹を見上げる。その口角は珍しく上がっていた。

「間々田が好かれている理由が分かるな」

 ……そんなこと、初めて言われた。

 溶けたチョコレートの気持ちが、今なら少し分かる気がする。じんわりと熱くなる顔面に、そんな馬鹿げた考えが瞬の脳内をよぎった。

「……そういうのは好きな人にでも言いな。で、チョコが溶けたら型に流して……」

 ガタン!とバットを机に置く時に大きな音を立ててしまう。動揺するな、冷静に。瞬は自分にそう言い聞かせた。

「流し入れるのは難しいな……」

 氷鷹は悩むようにそう言って、ボウルを勢いよく傾ける。……案の定、ビチャビチャと周りにチョコが飛び散った。

「あ、えーと。ボウルはそっと傾けて、ゴムベラでこそぎ取るようにしたほうがいいかな」

 瞬は氷鷹の後ろから腕を回してゴムベラを持とうとするが、なにせ鍛えられた体が大きすぎる。ほとんど密着するような形で、なんとかチョコを流し終えた。ふー、と瞬は息を吐く。

「……間々田」

「うおっ!ごめん、ひっ付いて」

 氷鷹に後ろから抱きついたようになっていた瞬は、慌てて彼から離れる。氷鷹は何故か困ったように、自分の頬をかいた。

「でもまあとりあえず、これで粗熱を取ろうか。あ。」

 瞬は氷鷹の右頬に、チョコが付いていることに気がつく。

「チョコ付いてる……けど鏡ないな」

 瞬は布巾を手に取ると、背伸びをしてそっと氷鷹の頬に押し当てた。 

「悪いけどちょっとじっとしてて」

 大人しくされるがままの氷鷹に、瞬は思わず小言を言ってしまう。 

「子どもじゃないんだから、チョコ付いた手で触ったら駄目だって……」

 ふと、瞬は拭き取った弾みで氷鷹の前髪に触れてしまう。少しだけ持ち上がった前髪の下の瞳と、バッチリ目が合った。

 ――多分、本当は鋭い眼光なんだろう。それが、今は驚きと、多分照れから丸く見開かれている。

 ドキリ、と心臓がひとつ高鳴って、それからすぐに瞬はそれを打ち消そうと必死になった。何がドキリだ。

「あー。ママ先輩がまたママしてる」

 後ろから後輩達の声がして、瞬は慌てて氷鷹の頬から布巾を離した。

「氷鷹先輩にそんなことするのママ先輩だけですよ」

「うるさいぞ。それで君らはブラウニーの生地は出来たのか?」

「クルミたくさん入れましたよー」

 ほら、と後輩達が見せてくれた天板には、焼き上がったブラウニー生地が敷き詰められている。瞬は氷鷹から見えないように、なんとか鼓動を宥めようと小さく深呼吸をした。

「じゃあ氷鷹、とりあえず調理道具洗っておいてくれる?」

 瞬がそう言って振り向くと、氷鷹は一瞬の間のあと静かに頷く。……その首筋は、少しだけ赤い。

 それを見て、瞬の心臓はまた少しだけうるさくなってしまう。

 そんな訳がない。きっと見間違えだ。瞬は無心で、天板の形のブラウニーを四角く切ることに専念した。


 

◆◆◆

 小学生での初恋は同性だった。その時は恋という名前すら知らなくて、ただ彼と一緒にいる時間が何よりも楽しかった。

 「恋」というラベルが付いて初めて、いわゆる普通とは少し違うのだと気がついた。


 中高一貫のこの学校の中等部に入学する時に、瞬はひとつだけ決意していたことがある。

 

 恋をしないこと。


 何かの拍子でバレたら、6年間ずっとそれを言われ続けることになる。それだけは絶対に避けたかった。

 1人の人に依存しないように、たくさんの生徒達と仲良くした。それが楽しかったというのももちろんあるが、親友と呼ばれるような特定の誰かは作らないよう腐心していた。

 ――自分に好かれたら、相手も自分もきっと地獄だから。

 

 それが功を奏したのか、瞬は6年間楽しく学校生活を送ることができた。

 慕ってくれる部員達、先輩後輩同級生関係なくあだ名で呼ばれて、学校行事も積極的に参加して。

 卒業まで1ヶ月を切っている。だから、うっかり油断していたのかもしれない。

 ……そもそも、氷鷹は誰かに本命チョコを渡すために来てるんだし。

 当初の目的を思い返しながら、瞬はひとりで誰もいなくなった調理室の鍵を閉めた。

 


◆◆◆

 翌日からは、なんとなく瞬が氷鷹担当のようになっていた。

「やっぱり間々田先輩くらいの人じゃないと教えられないですよ……」 

 なんて調理部の後輩達に言われてしまったら断れない。瞬は改めて気合を入れ直し、廊下をずんずんと歩く。

 放課後、一番最初に調理室に来るのはいつも瞬と氷鷹だった。

「毎日手伝ってくれてありがとうな」

 瞬が部屋の窓や鍵を開けながらそう言うと、氷鷹は首を横に振る。

「こんなことでは恩返しにもならない」

「律儀だなあ」 

 瞬は思わず笑ってしまう。後輩が言っていた「武士みたい」もあながち間違ってはいなそうだ。

「氷鷹は何で剣道始めたの?」

「……元々身長が無駄に高くて目つきが悪くて、悪目立ちしていた。そうしたら、剣道ならそれを生かせると……」

 瞬はこの間垣間見た氷鷹の目を思い出していた。丸く見開かれた瞳を、可愛いと思ってしまったあの時。

「よ、よし。じゃあ今日は生チョコの練習に入ろうか」

 瞬は慌てて回想を消し去ると、氷鷹にレシピを差し出した。

「基本は固めるチョコと変わらないんだけど、滑らかにするためには――」

 氷鷹の持つレシピを瞬が覗き込む形で説明する。氷鷹は真剣な表情でそれを聞き、時々メモを取っている。

 やっぱり律儀で真面目だ。瞬はそんな氷鷹の様子をそっと伺い見る。

 そんな氷鷹が好きになる人は、どんな人なんだろう。



◆◆◆

「そろそろいいかな。そしたらこれを手のひらで丸めて……」

 瞬がお手本として軽く丸めて見せると、氷鷹はおお、と小さく感嘆の声を上げた。……が、力の加減が難しいようで、氷鷹はうまく丸めることができずすぐ平べったくしてしまう。いつの間にか、手はチョコレートまみれだ。

 今日は、2人でトリュフチョコ作りに挑戦していた。

「……泥団子みたいだな……」

「食べ物を泥って。まあわかるけどさ」

 瞬は思わずツッコミを入れる。

「ちなみに氷鷹って手冷たい人?」

「……あんまり自覚はないが、体温は高い方だと思う」

「じゃあちょっとチョコ作りは苦手かもしれないな」

 瞬はコーティング用のガナッシュをかき混ぜる。気温が低いので、少しでも時間を置くと固くなってしまう。

「生地やチョコが溶けないで済むから、お菓子は基本的に冷たい手の人の方が向いてるんだよね。で、逆にパン作りは発酵を促すから温かい手の方が向いてるって言われる」

 角ばった大きな手を不思議そうにくるくると裏返す氷鷹が微笑ましく、瞬は目を細めた。

「俺は末端冷え性だからうまくできるのかも」

「冷え性は良くない。特にこの時期は寒いから、温めたほうがいい」

 そう大真面目に答えた氷鷹を、瞬はじっと見つめてしまった。

「……どうした?」

「あ、ごめん。氷鷹ってやっぱ真っすぐで優しいなと思って」

「……俺は口下手だから、しょっちゅう言葉を間違える。またズレたことを言ったのかと」

 氷鷹はまたぺしゃんこになったチョコを見てため息をついた。

「まあ、確かにちょっとびっくりすることはあるけど」

 瞬は氷鷹の前にあるチョコをひとつまみし、手のひらでくるくると丸める。

「むしろ言葉に嘘がなくて良いなあって褒めたつもりだった」

「俺は誰とでも喋れる間々田の方がすごいと思うが」

 間髪入れずそう返す氷鷹は、やっぱり優しい。でもその優しさに、瞬は少しだけ苦しくなる。

 誰とでも気軽に話せるけれど、本当の心は隠したままの自分。

「……ありがと。はいこれ、ガナッシュ付けて」

 瞬が丸めたトリュフを氷鷹の手のひらに乗せる。と、氷鷹はふいに瞬の指先を摘んだ。

 突然のことに、瞬の思考は完全に停止する。 

「……本当に冷たいな」

 ――氷鷹は心配してくれているのだと分かっている。こんなことで動揺している自分の方がよほどおかしくて、なんでいつもみたいに言葉が出てこなくなるのか。

 たったの数秒なのに、やけに長く感じられた。瞬がなんとか口を開こうとしたのと、ほぼ同時。

「ママ先輩……って何イチャついてるんですか!」

「ちょっとー、バレンタインイベントで愛を育まないでくださいよ」

 別テーブルの後輩達がからかうように笑った。瞬の心臓が、さっきまでとは別の意味で大きく音を立てた。

 ――なんのために6年間隠し通してきたのか。好きな人がいるであろう氷鷹にも迷惑だ。

 瞬は慌てて氷鷹の手を振りほどくと、すぐに「いつもの自分」を取り繕う。

「――なんでそうなるんだよ。俺をいじるのはいいけど氷鷹を困らせないの。で何か用?」

 氷鷹に背を向け、瞬は後輩達のテーブルへ向かう。

 ……大丈夫。声が震えたり、変な表情になったりしてないはずだ。

 怖くて、氷鷹の方を振り返れない。嫌われたくないし、気付かれたくない。そう思ってから、瞬は自問自答する。

 ――何に、気付かれたくないんだろう?



◆◆◆

 開け放した窓から入る風は冷たい。けれど、調理室の室内は熱気で満ちていた。

 明日が、いよいよバレンタイン本番だからだ。

「で、氷鷹は何を渡すの?」

 調理器具を準備しながら、瞬はなるべくさり気なくそう尋ねる。変な感情がこもらないように。

「……生チョコにしようかと。シンプルな方がいいかと思って」

 いつもに増して固い声の氷鷹に、瞬は笑いかけた。

「緊張してる?明日も俺手伝うから大丈夫よ」

「そのことだが」

 氷鷹が瞬に向き直り、前髪の間から目を覗かせる。その目は真剣そのものだった。

「明日はなるべく1人で作りたい」

 ああ。瞬の胸に、言い表せない感情が芽生える。

 明日、氷鷹のこの真剣な表情を真正面から受け止める人がどこかにいるのだ。

 最初は、チョコを渡したい誰かがいる氷鷹のことを羨ましく思っていた。でも、今は。

「……そりゃそっか。まあ横では見守ってるからさ、困ったことがあったら聞いてよ」

「ありがとう。本当に感謝している」

 氷鷹の唇が柔らかく、微笑みの形を作った。

 ――この、真っすぐな思いを向けられる誰かが羨ましい。

 

 

「できたら甘さ控えめにしたいんだが、その場合は……」

「ビターチョコで作ればいいよ。じゃあ今日は予行練習にするか」

 氷鷹は頷き、ビターの板チョコを割り始めた。最初の頃とは違い、銀紙が入らないよう慎重に。

「あとはラッピングどうする?」

「……全く考えていなかった。どんな風にするのか、どこで買うのかも見当がつかない」

 チョコを湯煎し、ゆっくりと溶かしていく。

「んー……俺だったら、相手の雰囲気に合わせたり、相手の好きな色入れたりするかな。材料なら100均で売ってるよ」

 まあ俺も包むのは上手くないけど……と苦笑する瞬に、氷鷹は意外そうな顔をした。

 目元は隠れているのに、いつの間にかなんとなく氷鷹の表情がわかるようになっていた。

 溶けたチョコに、生クリームを入れる。かき混ぜるとすぐに白い生クリームはチョコの色に染まった。

「相手に合わせる、か……」

 氷鷹がぼそりと呟き、瞬は顎に手を当てる。

「まあ逆に氷鷹らしさを前面に出してもいいと思うけどね」

「俺らしいって何だ?」

 本気で分からないというようにそう言う氷鷹に、瞬は驚く。

「え、氷鷹なんて個性の塊では?」

 怪訝な顔をする氷鷹に、瞬は吹き出す。

「律儀で生真面目でしょ、不器用だけど優しいでしょ、見た目も喋り方も武士みたいでしょ、それから笑うと……」

 指を折りながら瞬がひとつひとつ上げていくと、氷鷹は黙り込んでしまった。

「……あ、調子乗りすぎました」

 瞬は作業の手を止め、恐る恐る氷鷹を斜め下から見上げる。冷や汗が止まらない。

「褒め言葉だったんだけど、ごめん」

「……分かってるし、もういい」

 ただでさえ前髪で見えない目元を、氷鷹は大きな手のひらで覆う。……その手からこぼれ落ちた耳は、すっかり赤くなっていた。

「……ずっと怖がられてたと思うし……剣道しかしてこなかったから、剣道以外で褒められるのは慣れてない」

 ……最悪だ。瞬は指先の体温上昇と裏腹に、内心思わず悪態をついてしまう。

 可愛い、なんて思うのは絶対駄目なのに。

 落ち着くために鼻から息を吸い込むと、途端にチョコの甘い匂いが胸全体に広がった。

 

「……ていうか、剣道部時代そんなに怖かったの?」

「部員達に好かれていなかったと思う。間々田とは正反対だ」

「いや、別に俺は……。でも多分そのおかげで全国大会行けたわけだろうし」

 俺らは全国大会とかないからなあ。生チョコに掛けるココアを準備しながら、瞬はひとりごちた。

「卒業後も続けるの?」

「一応、剣道で大学の推薦を貰った」

「すご!」

 氷鷹がバットに慎重にチョコを流し入れていく。とろりとしたチョコが、みるみるうちにバットを満たしていった。

「間々田は、卒業後は」

「調理専門学校行くよ。目標とかはまだ分かんないけど」

「……そうか」

 波立ったチョコの表面を、優しくならしていく。氷鷹のその真剣な表情に、瞬の視線は奪われてしまう。

 キラキラして見えるのは、斜めに差し込む西日のせいだ。きっと。

「……くれるか?」

「えっ?ごめん聞いてなかった」

 ぼーっと見てしまっていたらしく、氷鷹に呼びかけられて瞬はやっと我に返った。慌てて聞き返すと、氷鷹は少しだけかしこまって瞬に言い直してくれた。

「――今日の帰り、時間があるなら包装用具を買うのに付き合ってほしい」

 ――付き合ってほしい。本当の意味でそれを言われるのは、誰なんだろう。そんなしょぼくれた考えを全部振り切り、瞬はニッコリと笑った。

「全然いいよ、片付け終わってからだから遅くなるけど……」

「片付けなんていいっすから!」

 急に会話に割り込まれて振り返ると、調理部の後輩達だった。

「もう部員じゃないのに間々田先輩ずっとお手伝い来てくれてるんですもん。ゆっくり買い物してきてくださいよ」

「え?でも俺が好きでやってることだし」

「明日で最後なんですから。今日くらい羽伸ばしましょ」

 明日がバレンタイン本番ということは、明日以降もうチョコの練習をすることはない。当たり前すぎる事実に、瞬は今さら気がつく。

 ――全ての終わりが、明日一気に来るんだ。

 


◆◆◆

 駅ビルの大規模な100円均一は、今まさにバレンタイン一色だった。

「……こんなにあるとは……」

 氷鷹が言葉を失って立ち尽くしてしまい、瞬は思わず後ろから肩を叩く。

「まあまあ。とりあえずぐるっと周るか」

 ピンク、ベージュ、ブラウン。甘くてほんわかした色合いの売り場は、現実感が薄くて夢の中みたいだ。

「100均は日常的に使っていたが、気にも留めていなかった」

 白いレース状の袋を手に取り、氷鷹はしみじみと呟く。

「興味ないとそんなもんだよな。でも、解像度が高くなるっていうのも案外悪くないよ」

 瞬は紺色の箱を開けて中身を覗き込んだ。

「生チョコならこういう箱に入れてもいいかも。相手が可愛い系が好きならピンクとか……」

「――シックなのがいい」

 俯いて恥ずかしそうにそう言った氷鷹の目線の先には、シンプルな包装紙。

「きっとキラキラは好みではない」

 甘い物よりビター。キラキラふわふわよりシンプルでシック。もちろんそういう趣味の女の子もいる。でも。

「じゃあ、向こう側を見てくる」

 別コーナーへ向かう氷鷹を見送りながら、瞬の心の中にひとつの考えが浮かんだ。

 相手は、男の人かもしれない。

 包装用の水色のリボンをつまみ上げ、瞬は何とはなしに眺める。

 6年間に後悔なんてないし、楽しくやってきた。向き合って来なかったのは自分だ。もしもああしていたら、なんて仮定は無意味。

 ただ、最後の最後に落とし穴があっただけだ。

 


◆◆◆

 2月14日、金曜日。

 いつものように鍵束を持って調理室へ向かうと、ドアの前に大きな人影が見える。

 毎日勤勉だなーなんて笑いながら鍵を開け、2人で窓を開けて周る。冷たい風が、2人の頬を容赦なく通り過ぎていく。

 そんな毎日も、今日で最後だ。

「それにしても。チョコ多くない?」

 瞬が首を傾げて板チョコを指さすと、氷鷹は困ったように頬をかいた。

「これくらいは必要かと」

 ……相手はそんなに大食いなのか?そう聞こうとして、瞬は踏み込むのをやめた。

「……じゃあ、まずはチョコを割る所から」

 びっしりメモが書き込まれたレシピとにらめっこしながら、氷鷹は慎重にチョコを割っていく。

 恋って、なんだろう。不器用な氷鷹の動きを見ながら、瞬は考える。

 料理が苦手だと言っていた人間をチョコ作りに向かわせたり、6年間の誓いをアッサリ崩壊させたり。

 一瞬だけ見た表情が忘れられなかったり、顔も知らない人間に嫉妬したり。

「間々田。これって……」

「ああ、これはね……」

 名前を呼ばれて、頼られることが嬉しかったり。

「……助かった。ありがとう」

 ほとんど無表情なはずの相手の気持ちがわかったり。

 氷鷹が誰かへのチョコ作りの工程を進めていくたびに、思い知らされるようだった。

「あとはこれを冷やせばオッケーだから、ラッピングの準備しよう」

 瞬が冷蔵庫の扉を閉じて振り返ると、氷鷹はカバンから大量のラッピング用品を取り出した。

「え、それ全部買ったの?」

「どれが良いのか全く分からなくなった」

 ため息をつく氷鷹を、瞬はうっかりまた可愛いと思ってしまう。

 あーあ。もうこんなの、確定だ。

 じゃあ、最後くらいこんなことを聞いても許されるだろうか。

「……あのさ。好きな人の、どんなとこが好きなの」

「え」

 明らかに動揺した氷鷹が袋をバサバサと落としてしまい、瞬は急いで拾い上げ手渡した。

「す、好きって……なんでそれを……」

「ごめんごめん!変なこと聞いた。忘れて」

 ここまで反応されると思わず、瞬は慌てて取り消す。これから告白するという人を動揺させるなんて最悪だ。そう反省していると。

「……口下手で不気味な俺を怖がらないで、真摯に向き合ってくれる所」

 袋を受け取る手に力が込められ、それは瞬の手にも伝わってきた。

「俺は剣道以外何にもできないのに、絶対に笑ったりからかったりしない。優しくて一緒にいると楽しくて、みんなに好かれている所」

 受け取ったラッピング袋を、氷鷹はぎゅっと胸の前で握りしめる。

 口下手なはずなのに、その人のことを滑らかに語る口調。視線の外された表情。これが、恋じゃなければ何なのだろう。

「……そっか」

 瞬は笑ってしまった。自嘲の意味でも、諦めの意味でもない。

 そんな所も、好きだと思ってしまったからだった。



◆◆◆

「で、この大量のチョコはどうするの?」

「それは部活の後輩へ持っていこうかと」

 なるほど。瞬は思わず手のひらを打った。

「……ずっと厳しくしてしまったから、貰ってくれないかもしれないが」

 少し寂しそうな氷鷹の横顔に、瞬は微笑む。

「まあ、当たって砕けろだね。余ったら俺がいくらでも食うよ」

「……お願いがあるんだが」

 突然氷鷹がそう切り出してきて、瞬は思わず座り直す。

「もしこの後時間が空いてるなら、待っていてほしい」

「どうせ片付けしてるから残ってると思うけど。でも……」

 ――告白が成功したら、その人と帰るのでは?喉元まで出かかった言葉を、瞬は飲み込む。

 最後くらい、俺が独り占めしてもいいか。

 後輩用とは別に、生チョコを箱に収める。シンプルなビニールで箱を包むと、氷鷹はふーっと息を吐いた。

「……じゃあ、行ってくる」

「応援してるよ」

 瞬はそっと氷鷹の背中を押し、笑顔で見送った。


 

 大量のチョコを抱えた大きな背中が遠ざかっていく。完全に見えなくなると、今度は瞬がはー、と息を吐いた。

 一通り片付けをし、既に戦場へと旅立った後輩達がお裾分けしてくれたチョコのパッケージをしげしげと眺める。

 ――味見以外、貰えもしなかったな。

「まーま♡」

「おわっ。なんだ、佐藤来てたの」

 突然背後から覆いかぶさられ、瞬は思わず声を上げてしまう。犯人はクラスメイトの佐藤だった。

「間々田はモテモテだなー。こんなにチョコ貰っちゃって」

「本命は1個もないけどな。いやこんだけ貰えるのは有り難いけど」

 瞬は机に突っ伏して苦笑いをする。

「佐藤は誰かに渡したの」

「俺は彼氏に渡したよん。間々田達調理部のおかげで初めて手作り渡せたわ」

「そりゃ良かった。……彼氏?」

 瞬はニコニコ笑う佐藤を見上げる。

「佐藤、彼氏いたのか」

「え、知らなかったっけ。初日に調理部来てたじゃん」

 瞬は驚いて目を見開いた。名前を聞くと、どうやら氷鷹のことを教えてくれたうちの1人のようだった。

 佐藤はあっけらかんとしている。瞬は毒気を抜かれ、チョコの山からひとつつまみ上げて西日に透かした。

 ――最初から自分に素直に向き合えてたら、なんて。

「ていうか、本命は貰えなかったって?」

 しまった。瞬はギクリとするが、後の祭りだ。いくらなんでも気が緩みすぎている。

「ねーねー、間々田の恋愛話なんか聞いたことなかったんだけど。好きな人いたの?いつから?」

「絶対言わない。好きになった瞬間から失恋確定してたんだよこっちは」

 グイグイ来る佐藤を押し戻していると、にわかに廊下が騒がしくなった。瞬と佐藤はお互いに目を見合わせ、扉から揃って廊下を覗き込む。ざわめきは、廊下にいた生徒達の声のようだった。

「え、あれ氷鷹先輩?」

「結構イケメンだったのかよ。でもなんで竹刀持ってこんなとこに」

 遠くにいても分かる。道着を着て、竹刀を持ったままの氷鷹がすごい迫力でずんずんこちらへ向かってきていた。

「……あれ絶対間々田のこと探してるでしょ」

「な、なんで?俺なんかやらかした?」

 佐藤とヒソヒソ声で話し合っていると、瞬は氷鷹と目がばっちり合う。……目が合う?

 そこでやっと、氷鷹の前髪がヘアバンドのようなもので上げられていること気がついた。太めの眉に鋭い眼光。すっきりと通った鼻筋。それらがバランス良く配置されている。

「ほんとだ、案外男前」

 佐藤がぼそっと囁くが、瞬はそれどころではない。氷鷹は瞬と佐藤の元にやって来ると、ピタリと立ち止まった。

「……氷鷹?」

 状況が飲み込めないまま瞬が声を掛けると、突然氷鷹が竹刀を起き、両膝をついて正座した。慌てて瞬もしゃがみ込む。

「え、どうした?うまくいかなかった?」

 入口を挟んで2人が座り込む異様な光景に、佐藤がこっそり反対側の入口から脱出していく。瞬は困って俯いている氷鷹の顔を覗き込んだ。

 ――何故か、耳まで真っ赤だった。ふいに氷鷹が顔を上げ、瞬はキッと睨みつけられる。

「間々田瞬」

「はい」

 下の名前知ってたんだ、とはさすがに言えなかった。瞬が条件反射で返事をすると。

「――俺の好きな人は、間々田だ」


 聞き間違いかと思った。次に、意味を考えた。好きなんて種類もたくさんあるし、そもそも本命チョコを渡しに行ったはずでは――。

「えっと。その……好きというのはどういっ」

 頭が真っ白でろくに言葉が出てこない瞬に、氷鷹がぐい、と何かを突き出してきた。

 ……水色のリボンでラッピングされた、チョコレート。

「恋愛的な意味での好きだ。付き合ってほしい」

「……え?!」

 やっと思考が追いつき、瞬は思わず後ろにひっくり返りそうになる。体温を測ったら40℃くらいあるんじゃないかと思うほど、顔も体もどこかしこも熱い。

「な、チョコは……好きな人の話……」

「――元々部活の後輩と、お世話になった顧問に渡すつもりだった。好きな人の話は、聞かれたから答えただけだ」

 剣道部の顧問は年配の男性教諭だ。そりゃ甘さ控えめで、シンプルな包装の方が良いに決まっている……じゃなくて。

「本命の人がいると思ってたのは、俺の勘違い……?」

「いや、間々田が本命だから間違ってはいないとは思うが……」

 さらっととんでもないことを言われた気がするが、キャパオーバーでそこまで回収できない。もはや何が原因なのか分からない鼓動のうるささに、瞬は思わず心臓を押さえた。

「無理無理無理無理」

「――そうか」

「あっ違う!そうじゃなくて!」

 瞬はまた誤解が生まれる前に大慌てで首を横に振る。自分の髪の毛をくしゃりと掴むと、声を絞り出した。

「……俺も好き、なんだよ……。でも氷鷹には好きな人がいるし、絶対叶わないと思ってたから……」

 駄目だ。瞬は涙腺にこみ上げるものを必死でこらえる。

「今の状況が信じられないっていうか……りょ、両想いなのかよって――」

 すると、急にグイ、と顎を掴まれる。氷鷹の瞳が超至近距離に迫って、瞬は言葉を失った。

「――間々田も、俺が好きなのか?」

 恥ずかしすぎるが、どうしても目が離せない。なんとかコクコクと頷くと、氷鷹の目が見開かれた。

 そのまま、ゼロ距離まで一瞬くっついて離れていく。

 ふわりと甘ったるい、チョコレートの香り。 

「わぁ……」

 全てを悟ったらしき佐藤が、廊下の隅で小さな声を上げていた。

 



◆◆◆

「あのー。氷鷹さん」

「なんだ?」

「……とりあえず、1から説明してもらえます?」

 後輩達から貰った大量のチョコを抱え、制服に着替えた氷鷹に腰を抱かれている。その状態で歩道を歩く瞬はじろりと氷鷹を見上げた。

 

 曰く。

 元々、厳しく接してしまった後輩達への贖罪と、顧問への感謝の気持ちを伝えるためにあえて苦手な料理に挑戦しようと思い立った。

 瞬が渡す相手について聞いてこないから、別に言わなかった。最初は本命を渡すなんて考えてもいなかったが。

「……間々田は笑わずにずっと真剣に手伝ってくれて、でもよく笑いかけてくれて……か、可愛いなと……」

 ちらりとこちらを見た氷鷹と目が合い、瞬は顔から火を吹きそうになる。なんだそれは。

「……でも、好きな人の話を聞かれた時。全くの無反応だったから、俺のことは気にしてもないんだろうと……」

「そ、それは自分のこととは微塵も思ってなかったから」

 とりあえず当初の目的通り後輩達と顧問に渡しに行ったら、後輩達は存外に喜んでくれた。現役時代は出来なかった雑談なんかもして、流れで好きな人の話になった。チョコ作りを手伝ってくれて、でもいくら褒めても反応はないと。

 そうしたら、後輩達に説教をされた。

「え、説教?」

「そんな遠回しで伝わるはずがない。散々ぶつかっていけと俺達に指導していたくせに、自分はぶつからないのかと。あと顔が見えないからとヘアバンドをされ、道着が一番似合っているからと着替えさせられ……」

 珍しくどんよりしている氷鷹の様子がおかしくて、瞬は思わず吹き出してしまう。

「まあ確かに、道着はカッコいいと思う。……良い後輩達だね」

 瞬がそう言って笑うと、氷鷹は真剣な表情で頷いた。

「……彼らが背中を押してくれなかったら、俺は間々田を諦めていた」

 腰に回された手に、グッと力が入る。

「色々あったが、この学校で、この3年間を過ごせて良かった。最後に、間々田にも会えたしな」

 ……ズルい。瞬は思わず唇を噛み締める。おでこ全開の良い顔で、微笑まないでほしい。

「……俺も、最後の最後で氷鷹と会えて良かったよ。6年間も無駄じゃなかったんだなーって」

 瞬がそう言って口元を緩めると、氷鷹はそっと瞬の顔を覗き込んだ。その目が物凄く優しくて、瞬は押し黙ってしまう。

 真剣な表情、優しい微笑み。それを受け取るのが自分だなんて、全く思ってもみなかった。

「――とりあえず、この大量のチョコ食べるの手伝ってくれる?」

「間々田の頼み事なら、なんでも」

 ――甘い、甘すぎる。チョコレートより余裕で甘い。

 瞬は自分の上がった体温で抱えたチョコが溶けないか、心配になってしまった。

 しばらく、末端冷え性は気にもならなそうだ。

 

 

 

 

  

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 


 


 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

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ビタースイートチョコレート 雲井 @honkumoi_choushi

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