第十章 想いが通じ合うとき
退院を翌日に控えた日、仕事終わりに面会に訪れた慶之が言った。
「明日休み取ったから、退院手続きが済んだら送っていくよ」
突然の申し出に汐梨は驚き、飲んでいたお茶に咽せて咳き込んだ。
「え……?」
そんなこと思ってもいなかったと言わんばかりの反応を見て、瞬時に一人で帰るつもりでいたことを悟った慶之。
「いや、どうやって帰るつもりだったの?荷物もあるのに松葉杖ついてさ」
「えっと……。タクシーなら何とかなるかなって……」
「ったく、何で俺を頼ってくんないの?」
「だって、平日だし、仕事もあるし、迷惑……かけられないから」
慶之は呆れたといった様子で汐梨の隣に座り、夕日が眩しい海を眺めた。
「汐梨はさぁ、何でも自己完結し過ぎ。きっと今まで自分の力で頑張って来たんだと思うけど、汐梨は一人じゃないだろ?……松本さんとか、藤原さんとかさ。それに、俺もいる。だからさ——」
振り向いた慶之は優しく汐梨の頭に手を乗せると、顔を覗き込んで言った。
「もっと周りを頼る努力をしましょう」
その時のあまりにも愛情深い慶之の表情に、汐梨は涙が溢れて止まらなかった。
遂に退院の日が来た。
久しぶりの洋服に身を包み、ベッド周りもすっかり片付けた汐梨は窓際に佇んで海を眺めていた。
「汐梨、退院手続きしてきたぞ。そろそろ行こうか?」
荷物も運び終え、手続きを済ませた慶之が声をかけた。
「ここから見る海も、これが最後だな」
「うん……」
「名残惜しいか?」
「……ちょっとだけ。でも、海は無くならないから、いつでも見に行ける」
「そうだな。全快したら海に行こう」
「うん」
そうして二人は慶之の運転する車で汐梨のアパートへ向け走り出した。
久しぶりの外の景色を楽しみながら、約一ヶ月ぶりに帰る自宅の事が気になった。
入院した当初、荷物を届ける為に藤原が何度か部屋に入っているが、それっきりだ。大変なことになってなければいいが……。
そうこうしているうちにアパートに到着。慶之に介助を受けながら部屋の前まで来ると、突然ドアが開いて藤原が姿を現した。
「あぁ、やっぱり!足音がしたからもしかしたらって思って出てみたの。水無瀬さん、おかえりなさい!」
「し、師長……どうして?」
「今日退院だって聞いたから、半日休みを取って空気の入れ替えに来たの。あと、水回りも簡単に掃除したから、今日から快適に過ごせるわよ」
そう言いながら汐梨を中に通し、ベッドに座らせる。
汐梨は部屋を見渡し、空気も綺麗で埃っぽさも感じない部屋に感動した。
「……何だか、懐かしいです……」
「今日は何も作らなくていいように簡単に食べられる物、冷蔵庫に入れてあるから、よかったら食べてね」
「何から何まで、本当にありがとうございます」
「いいのよ。それはそうと、この後行くんでしょ?松本さんの所」
汐梨はそうだった、と、一番大事なことを思い出してハッとする。
「早く行ってあげて〜。ワンちゃん、ずっと待ってたわよ。私もこの前様子見に行ったけど、とってもお利口さんなワンちゃんだったわ」
「私もずっと心待ちにしてました。この日の為にリハビリ頑張りましたから」
「そうよね。じゃ、私はこれで。織田さん、あとはお願いね」
「わざわざありがとうございました」
藤原は慶之に後のことを任せると、汐梨のアパートを後にした。
途端に静まり返る部屋。二人きりの空間にお互い緊張した。
「……よし、荷物片したら、行くか」
「う、うん」
夕方近く、二人を乗せた車はカーナビを頼りに田んぼや畑が広がる道を進む。
「この辺りなんだけどな……」
「——あっ」
汐梨の視線の先には松本が、そしてその傍らには一頭の犬が門の前に佇み、まるで二人の到着を待ち侘びていたかのようだった。
松本の誘導で門の中に進むと、車が止まるや否や、汐梨が助手席から飛び出して松葉杖もつかずに犬に駆け寄った。
犬も
「ワン‼」
と一声吠えると汐梨に一目散に駆け寄り、汐梨が犬に抱き付くと同時に芝生の上に押し倒した。
「会いたかったっ。ずっと会いに来れなくてごめんね!」
犬はまるで汐梨に甘えるように、胸に顔をうずめてクンクンと声を漏らした。
「私のこと、ちゃんと覚えててくれたのね……」
汐梨は犬をぎゅっと抱きしめ、これまでのことを思い出し目から涙が溢れた。
鼻をすすった汐梨に犬は何かを感じ取ったようで、涙を拭くかのように汐梨の頬を舐め、それをくすぐったいと言って芝生の上で転げ回る。汐梨と犬はしばらくこうして戯れ合い続けた。
松本と慶之はその様子を微笑ましく見守っていたが、犬があまりにも激し過ぎ、そろそろ汐梨の身体に障るのではと思い始め犬をたしなめた。
「ほら、もうその辺にしろ」
慶之に抱き起こされた汐梨は少し足を痛がったがとても満足そうだ。
「元気でよかった……。施設長、ありがとうございます」
「いや、俺もこいつとの生活を楽しんでる。なかなか賢いやつでな。無駄吠えもしないし、犬に不慣れな俺の指示もちゃんと聞く。散歩も絶対に俺より先を行かないしな。よっぽど元の飼い主の躾が良かったんだな。大切に育てられてたのが分かる。お袋にもよく懐いてて、手放すのを渋るかもしれん」
そう言って松本は冗談だと笑った。
汐梨がまだ知らない犬の様子を聞かされ、
「そうなんですね……」
と、犬の頭を撫でながら愛おしむように見つめていると、犬の名前をどうするかの話題になった。
「俺は敢えて名前は付けてない。いずれはお前の犬になるからな。お袋は勝手に〝トラ〞って呼んでるがな」
汐梨はじっと犬を見つめ、優しく撫でると、言った。
「〝ユウ〞です。優しいと書いて〝優〞。ずっとこの名前にするって決めてました。この子は山で倒れていた私に寄り添ってくれて、救助隊の人達を私の所まで導いてくれました。とっても思いやりのある子なの」
そして山で犬の身に起きたことにも触れ、
「この子は辛くて悲しい過去を持ってるけど、きっと自分に何があったかなんて関係ない。誰かの為に自分ができることをする、この子はそういう子なの」
ねっ、と言って、汐梨は優の顔をワシワシと撫でた。
「優、か。いい名前だ。こいつにぴったりだな」
「優っ、俺のこともよろしくな」
慶之が優の頭を撫でた。
「施設長、できるだけ早く優と暮らせる家を見つけますので、それまでどうかこの子をよろしくお願いします」
そう言って頭を下げる汐梨に松本は言った。
「ゆっくりでいい。焦って探してもいい物件には巡り会えないからな。まずはしっかり治すことだ。俺ももう少しこいつと暮らしたいしな」
日が傾き始め、久しぶりの再会にも別れの時が来た。
汐梨はなかなか優から離れられずにいたが、久しぶりの外出で流石に疲れが出始め、慶之の説得もありようやく心を決めた。
「それじゃぁ優、今日は帰るね……。またすぐに会いに来るから」
最後にぎゅっと優を抱きしめた汐梨は、車に乗り込み、窓を開けてずっと優を見つめた。
車が走り出す。
少しずつお互いが遠くなっていく。
でも優は車を追いかけることはしなかった。
ちゃんと理解しているのだ。
汐梨の乗った車が遠ざかって行っても、キリッと四本の足でしっかりと立つその姿はとても凛々しく、車が見えなくなるまで微動だにすることはなかった。
退院後の汐梨は自宅で静養しながらリハビリに通い、そして翌週から仕事復帰することとなった。
ギプスが取れるまでは慶之が送迎をすると言い張った。汐梨は申し訳ないと思い、初めは断ろうと思ったが、〝もっと周りを頼れ〞と言われたことを思い出し、自分も変わらなければと、それを受け入れることにした。
復帰初日は緊張した。
目に見える傷はすっかり綺麗になったものの、ギプスに松葉杖姿はやはり目立つ。職場の駐車場で車を降りた瞬間から注目の的だった。
職場の人達は事件のことは知らない。表向きは事故で怪我をしたことになっていて、特に深く詮索してくる者はおらず、朝のミーティングも汐梨が今日から復帰すること、しばらくはデスクワークに就いてもらうことを松本が淡々と説明し、あっさり終了した。
復帰して一週間が過ぎようとした頃、噂好きの同僚達の間で汐梨のことが噂になり始めた。
みんなは事件のことは知らないし、勿論賢一とのことも知らない。が、以前からDV疑惑があった汐梨は、今回の怪我もDVによるものだという噂が出回ったのだ。
「ちょっとちょっと、水無瀬さんさ、事故って言ってたけど、本当はDV男にやられたんじゃないかしら?」
「えぇ〜⁉DVで骨折るとかヤバくないですか?」
「でも水無瀬さん、骨折られた割にはまだその人と付き合ってますよね?彼氏っぽい人に毎日送ってもらってるし」
「あっ、私も見ました。長身で、結構優しそうな感じの人でしたよ?車から降りる時ドア開けてあげたり、支えてあげてたり。そんなことするような人には見えなかったけどなー」
「人って見かけによらないもんよ?」
「DVする人ってさぁ、普段はすっごい優しいんだって。だからいっとき怖いことされても普段の優しさがあるから別れられないんですってー」
「骨折られたら流石に別れるけどなー」
「まさか、別の男だったりして」
「え……。だとしても変わり身早すぎ〜」
「男って案外水無瀬さんみたいな子にコロッと行っちゃうもんなのかもね〜」
何も知らない同僚たちは好き勝手に言いたい放題し、盛り上がっていた。
しかしそういった話は当然のように汐梨の耳にも入っていた。
賢一とのことを周りに知られていないのは幸いだった。だが、同僚たちが抱く汐梨のイメージはあながち嘘ではないにしろ、周りが自分のことをそういう目で見ているという事実に深く傷付いた。そして、そのせいで慶之のことまで変に噂され、慶之には何の罪もないのに、むしろ汐梨を全力で支えてくれているのに、自分のせいでと罪悪感に苛まれた。
同僚達の本音を知ってからというもの、常に周りの目が気になってしまい急激に職場に居づらさを感じ始めていた。
汐梨のそういった気持ちは、どうやら慶之にはすぐに分かってしまうらしい。仕事柄、人を観察することに長けている慶之は、毎日汐梨を見ている中で汐梨が徐々に光を失い始めていることに気付いた。
ある日の朝、いつも通り仕事に送っていく途中、やはり様子が変だと思った慶之は汐梨に声をかけた。
「汐梨、どうした?元気ないな」
「……え?あぁ、そんなこと、ないよ」
「仕事で何かあったか?ごめんな、なかなか話聞いてやれなくて」
「ううん。そんなんじゃないから。いつも通りだよ」
「そうか……」
慶之はここで一度言葉を切ると、別の会話に切り替えた。
「なぁ汐梨、もうすぐギプス外れるよな」
前方を見ながら続ける。
「そしたらさ、優を連れて海に行こう」
それを聞いた途端、汐梨はパッと表情を変えた。
「海に?優と⁉うんっ、行こう!楽しみ」
弾んだ汐梨の声。チラッと横を見た慶之は、満面に笑顔を浮かべた汐梨にホッとした。
ギプスが外れ、ようやく訪れた休日。早速汐梨たちは優を連れて海に出掛けた。
優を迎えに松本の自宅へ着いた時、退院当初のように車が止まるや否や外へ飛び出した汐梨に松本は苦笑いした。
「おいおい、いくらギプスが外れたとはいえ、いきなり走り出すのは如何なもんかね。もう少し大人しくしてたほうがいいんじゃないのか?」
「何言ったって無駄ですよ。優のこととなると一直線ですから。あぁ見えて以外に頑固なんです。俺はもう諦めてます」
そう言って二人は呆れた様子で汐梨を見守った。
休日の海岸はたくさんの海水浴客で賑わっていた。
優はおそらく初めてであろう砂の感触に、思うように走れないながらも田んぼ道とは違った雰囲気を楽しんでいるようだった。
汐梨も、どこにそんな体力が隠されていたんだと思う程、優にねだられるままボール投げを続け、慶之が先にバテてしまったほどだ。
ひとしきり遊び続け、流石に疲れを感じ始めた汐梨と優。慶之に厳重注意を食らって少し休憩することにした。
慶之は飲み物を買ってくると言ってその場を離れ、汐梨と優は静かに砂浜に佇んでしばらく海を眺めた。
波の音を聞いていると、不思議と素直な気持ちになってくる。汐梨は優に自分のことを話し始めた。
自分と慶之は幼馴染だったこと。海で死のうとしていたところを慶之に助けられたこと。色んなことがあってまた再会して、こんな自分をずっと支えてくれていること。そんな慶之に、特別な気持ちを持ち始めてしまっていること……。
でも自分は一つの小さな命をダメにしてしまった。それなのに、今こうして幸せを感じながら生きてしまっていることにふと気付いて自己嫌悪に陥る。しかも職場では自分のせいで慶之のことまで悪く噂され、罪悪感でいっぱいだった。
〝こんな自分は慶之の隣にいるべきじゃない〞
そう思いながらも慶之に優しくされる日々が辛くて仕方なかった。
こんな事を優に話したところでどうにもならないが、自分の胸の中では抱えきれなくなった想いを、声を出して誰かに聞いて欲しかったのだ。
もちろん優も、汐梨の話していることなど理解するはずもない。だが、何かを話しながら自分を撫でる汐梨の手が気持ち良くて、優は汐梨の膝に身を預けていた。
飲み物を手に戻ってきた慶之はその様子を少し離れた所で見ていた。
汐梨が優にどんな声をかけていたのかは分からない。ただ、海を見つめる汐梨の目が、果てし無く遠くを見るような、心がどこかへ離れてしまったような、そんなふうに見えてしまい、ふと不安な気持ちになるのだった。
「お待たせ」
慶之は買ってきた飲み物を汐梨に手渡し隣に座った。
「ありがとう」
さっきまでの様子とは全然違った、いつもの汐梨が笑顔を見せた。
二人はしばし無言で海を眺めながら喉を潤す。
波の音に混じって海水浴を楽しむ人達の声が賑やかに響いていた。
「あのさ——」
慶之が何かを言いかけた時、海の方から女性の叫び声が聞こえた。
視線を向けると、浮き輪を付けた子供が波に流され泣き叫んでいる。浜で叫んだ女性は母親だろう。
母親は子供の名前を叫びながら海に入って行く。それを見た慶之は急いで母親を追いかけると、パニックになっている母親に制止を呼びかけた。
「離岸流です!入ったらあなたも流されます。俺が行きますから、上がって待っててください。大丈夫、必ず連れ戻しますから」
慶之に言われ、母親は少し冷静さを取り戻したようだった。
「優‼」
汐梨の声に慶之が振り向くと、優が横を通り過ぎて海に飛び込んで行くのを見た。
「戻ってきて‼」
今にも泣きそうな顔で汐梨が叫んだ。
慶之は子供と優を追いかけ、沖へと泳ぎ出す。
離岸流を経験するのは初めてだった。予想以上の速さに流石の慶之も多少の不安を感じた。
慶之の少し先を優が泳いでいた。が、何度か波に見え隠れしているうちに姿が見えなくなってしまった。
子供との距離がだいぶ近くなり、そしてすぐに追いついた。
「大丈夫だから、しっかりつかまってじっとしてて。そのうち流れは止まるからね」
慶之は子供が不安にならないよう声をかけながら周囲を見渡し、優を探した。
「大丈夫ですか⁉」
海水浴客の何人かが浮き輪を持って駆けつけてくれた。
その中の一人が途中で優を引き上げてくれたようだったが、優はぐったりとしている。
「優を……ありがとうございます」
慶之は子供を引き渡し、自分も浮き輪を受け取ると優を預かった。
慶之達は何とか無事、浜に戻って来ることができた。
が、慶之の腕の中でぐったりしている優を見た汐梨は激しくショックを受けて取り乱してしまった。
「優‼優‼しっかりしてっ。息をして‼優‼」
慶之はかなり体力を消耗し疲弊していたが、どうにか立ち上がって優の体を逆さに持ち上げると、近くの人に協力を求めた。
「水を吐かせるので、どなたか背中を叩いてくださいっ」
すぐに一人が駆け寄って、優の背中を叩いたり圧迫を開始。周囲の人々が固唾を飲んで見守る中、何度か繰り返したところでようやく優が水を吐き、呼吸を始めた。
歓声が沸き起こる。汐梨は優に飛びつき、抱き抱えて泣きじゃくった。
「——そういう訳で、一晩入院することになりました。すみません、こんなことになってしまって……」
慶之一は優のことを松本に電話で報告し、一連の出来事を説明した。
「いや、どちらも無事でよかった。それよりも、水無瀬はどうしてる?」
「かなりショックを受けてるようで……」
「無理もないな。ひとまず、優の方は心配ないとして、水無瀬のこと、くれぐれも頼んだぞ」
「はい——」
優の方は問題ないと医師から説明を受けていた。大事をとっての入院だ。だが、汐梨はそういった言葉も耳に入らない程強くショックを受けていた。
自宅に戻る途中、汐梨は終始無言でうつむいていて、その様子を見て慶之はひどく不安な気持ちになった。
(あぁ……、ようやく汐梨が本来の自分を取り戻し始めたっていうのに……。これじゃまるで、このままでは、また……)
車が汐梨のアパートに着く。
二人はしばらく車から降りず、無言で車内に留まった。
慶之は汐梨の手にそっと自分の手を重ね、そして慎重に握りしめて言った。
「汐梨……。ごめんな。俺が海に行こうって誘わなかったらこんな事にならなかった。辛い目に合わせて、本当にごめん」
その言葉に、黙って首を大きく振る汐梨。
慶之は汐梨を玄関先へ送り届けると、
「今日は疲れたよな。ゆっくり休んで。明日いつも通り迎えに来るから」
最後まで汐梨への気遣いの言葉をかけた。
一瞬だけ汐梨の反応を待ったが、相変わらずうつむいて黙り込んでいるのを見ると、
「……じゃぁ、俺は行くから」
そう言って玄関を出ようと後ろを向いた。すると——。
「——⁉」
背を向けた慶之の腕を汐梨の両手が掴んだ。
驚いて振り向く慶之。
慶之の腕を掴んだ汐梨は下を向いたまま、でもその手に込められた力はとても強かった。
「汐梨?」
「……今日は……ありがとう」
「え?」
「ううん。違う。いつも、ありがとう。……そう思ってるのに、なかなか口に出して言えなくて……。自分の気持ち、素直に伝えられなくて……」
下を向いたままの汐梨は途切れ途切れに言葉を繋いだ。
「でも、ちゃんと言わなきゃって、思った」
汐梨は下を向いたまま、有りったけの勇気を振り絞って自分の気持ちを言葉にした。その声はどこか震えている。
「慶君のせいじゃない。慶君がいなかったら、あの子のお母さんも一緒に沖に流されてたと思う。慶君は二人の命を守った。それだけじゃない。優のことも助けてくれた。私、怖かったの。慶君までいなくなってしまうんじゃないかって。すごく怖かった。だから——」
汐梨は慶之の胸に飛び込み顔を埋めた。
「慶君……生きててくれて、ありがとうっ」
慶之の背に回した腕はとても細く、でも力一杯慶之のシャツを掴んでいた。
「汐梨……」
慶之は驚くと同時に迷った。
目の前で震える細い体を、慶之は抱きしめたいと思った。でもこの手を触れることで、汐梨に嫌な過去を思い出させはしないだろうか。恐怖心を与えてしまうのではないか。
ようやくここまで築いてきた信頼関係が崩れるのを恐れた。
それに、今汐梨を抱きしめてしまったら、これまで必死に抑えていた理性に歯止めが効かなくなってしまいそうだった。
でも——
急激に溢れてしまった、この言葉では言い表せない何とも言えない気持ち。今まで何度も抱いては押さえ込んできた感情。もう、この時ばかりはどうにも抑え込むことができなかった。
「汐梨……っ」
慶之は汐梨の体を強く抱きしめ返し、絞り出すように言った。
「……好きだ」
その言葉を聞いた汐梨は埋めていた顔を上げ、慶之の目を見つめて言った。
「私も、好き……」
お互いの気持ちが通じ合った瞬間だった。
二人は強く抱きしめ合ったまま玄関の中へ戻ると、後ろでドアが閉まる音がして、見つめ合った二人は唇を重ねた。
長いキスの後、二人は再び見つめ合う。不意に「ふっ」と慶之が微笑んで汐梨の頭を撫でながら言った。
「じゃぁ、俺、帰るな」
すると汐梨は無言で慶之に抱き付き顔を埋めた。
「う……どうした?」
「……一緒に……いたい」
思いがけない汐梨の言葉に愛おしさを感じずにはいられなかった慶之は、堪らず汐梨をきつく抱きしめ、少し考えてから言った。
「だったら、うちに来るか?」
汐梨は無言で頷く。それがまた嬉しくて、慶之は更にきつく抱きしめた。
思わず汐梨から笑い声が漏れる。
「ふふっ、ズボン冷たい」
「うるさい」
そうやって二人はしばらくの間抱きしめ合うのだった。
浴室からシャワーの音が聞こえる。汐梨は何とも落ち着かない気持ちでソファーに座り、慣れない空間でソワソワしていた。
やがて浴室の扉が開く音が聞こえ、シャワーを終えた慶之が首にタオルをかけて姿を現す。
「お待たせ。ごめんな、先に浴びちゃって」
「う、ううん。ずっと濡れた服着てたから。わ、私は、全然だから」
改めて二人きりだと思うと無性に緊張してしまい、視線を泳がせながらしどろもどろに答える。
慶之は冷蔵庫から冷たい飲み物を取り出すと、一つを汐梨に手渡して隣に座った。
二人掛けのソファー。実際に二人で座るとかなり距離が近く、少しでも動くと体が触れてしまいそうだった。
お互い何も話さず、飲み物を口にしながらテレビに映っている映像をただ眺める二人。
しばらくの沈黙の後、慶之が口を開いた。
「汐梨。あの時、何考えてた?」
「え?」
「海にいた時。俺が飲み物を買いに行ってた時」
「…………」
「すごく……悲しい顔、してたから。俺、一瞬あの時のこと思い出してさ、消えてしまうんじゃないかと思ったんだ」
そう言われ、汐梨は膝に置いた手に視線を落とした。
「……何か辛いことあった?悩んでることがあるなら、話して欲しい」
そんなふうに言われ、汐梨は目の奥に熱さを感じた。涙が溢れてきて、必死に堪えようとしたのに大きな粒が二つこぼれ落ちてしまった。ごまかすように首を傾げて見せたが、もうすでに心が決壊してしまったようだ。後から後からとめどなく感情の波が押し寄せ、その全てを慶之に流した。
「そうだったんだな。すぐに気付いてやれなくてごめん。仕事……続けるのが辛いなら、無理して今の所に留まる必要ないんじゃないか?」
「そう思う時もある。でも、施設長や藤原さんには恩があるし、返していかなきゃって思ってる」
確かに——。汐梨の身に起こった出来事は、松本や藤原の支え無しには乗り越えられなかっただろう。慶之もそのことは十分に理解している。
「そうか。そうだよな。余計なこと言った。ごめん」
そう言って慶之は汐梨の手を取ると、続けた。
「俺は汐梨の決めたことに反対はしない。汐梨の意思を尊重して見守る。だけど、これだけは約束して欲しい」
そして優しく抱き寄せて言った。
「汐梨の隣にはいつも俺がいるってこと、忘れないでくれ。思い詰める前に、必ず俺に話して欲しい。約束できる?」
汐梨は慶之の胸に抱かれ、大きく頷いた。
翌日、汐梨を職場まで送って行った慶之は、駐車場で松本と行き合った。
「昨日は大変だったな」
「ご心配おかけしてすみませんでした。夕方、優を迎えに行ってそちらに届けますので」
そう言って松本に頭を下げる。
「あぁ、頼む。それより、水無瀬は大丈夫なのか?」
「はい、優のことに関しては心配ありません。ただ、汐梨は内に溜め込む所があって、色々と思うことがあったみたいなんです。でも、少しずつ話してくれるようになってきてるので、時間をかけて付き合っていくつもりです」
「そうか、確かにあいつはなかなか人に自分を見せない部分がある。それは何となく感じていた。でも、よかった。話せる相手ができたようだな。水無瀬はあんたを頼りにしてる。俺もそうだ。だから、俺からも、水無瀬のことをよろしく頼む」
「もちろんです」
夕方、二人は動物病院へ優を迎えに行き、松本の自宅に送り届けた。
汐梨はやはりなかなか優と離れられずにいたが、ようやく車に乗り、名残り惜しむように松本宅を後にした。
車中で寂しげな表情をしている汐梨を見て、慶之が話題を振った。
「退院してから物件探しはしてみたのか?」
「うん……まだ三回くらいだけど、不動産屋さんに行ってみた」
「へぇ。どうだった?いい物件見つかりそうか?」
「実際はかなり厳しいかな……。大型犬だし、そういった動物がOKな所は大体家賃も高めで、職場からも少し遠いの」
「そうかぁ……。汐梨は車がないからな。電車で通うにしても、あまり遠くない方がいいよな」
慶之は人知れず悩んでいた。
汐梨には、どうにか少しでも早く優と共に暮らせて、日々に幸せを感じられる生活を手に入れて欲しいと願っている。でもなかなかそれを実現させてやれないことがもどかしい。しかし、不思議とそれは心地良くもあった。汐梨の為に苦悩することは少しも苦ではなかった。
「今度の休み、俺も物件探し付き合うよ。別の不動産屋も見てみよう」
二人は市内の不動産屋を何軒か巡り、すでに半日を費やしていた。
今回は次で最後にしようと入った不動産屋は少し古い外観の小さな店舗だった。
お互い、あまり期待はできそうにないと感じながらも、隅から隅まで目を通すように店内を歩いた。
「どういった物件をお探しですか?」
物腰の柔らかい年配のスタッフが汐梨に声をかける。
「あの……ペット可の物件を探していて…… 」
「差し支えなければこちら記入して頂いて、ご希望に合う物件が入ったらご連絡差しあげますよ」
さぁこちらに座って、と促されるまま用紙とペンを手渡された汐梨は、記載事項に従って記入を始める。
汐梨が書き物をしている間、慶之は店内をぶらぶらしながら物件情報を流し見していた。するとあるチラシが目に入り思わず手に取った。
一枚のチラシをまじまじと見ている慶之に気付いたスタッフが声をかけた。
「あぁ、それは貸し家ですねぇ」
「貸し家……」
「貸し家の良いところは、なんと言っても庭があることですね。あとはアパートやマンションと違って戸建てですから、騒音の苦情なんかは気にせず暮らせるところがいいですね。ペットを飼われる方には向いているかもしれませんよ」
「なるほど……。あの、この物件って——」
そこに、記入を終えた汐梨が用紙を持って現れ、慶之が持っているチラシを覗き込んだ。
「それは……?」
「貸し家だよ。庭も付いてるし、犬を飼うのにいいんじゃないか?」
「貸し家かぁ……。魅力的だけど、私には少し広すぎるわ」
「…………」
二人は不動産屋を後にし、その日は汐梨のアパートで夕飯を取ることにした。
食事中、慶之がおもむろに話しかけた。
「なぁ、汐梨」
「ん?」
「今日不動産屋で見た貸し家のことなんだけど」
「うん」
「築年数は少し古いけど、最寄り駅まで徒歩圏内だし、汐梨の職場までも電車一本で三十分くらいで無理なく通える。立地条件的にもいいんじゃないかって思うんだ」
慶之は不動産屋でもらってきた貸し家のチラシを取り出して言った。
汐梨はそのチラシを受け取り、少し目を通すと首を傾げて残念そうに笑った。
「んー。確かに、優のことを考えるとお庭があった方がいいとは思うけど……。少し家賃が高いのと、やっぱり私一人じゃ広すぎるって思うの。勿体無いよ」
そう言ってチラシを慶之に返す。慶之はテーブルの端にそっと置いて、ほんの少し考えた後に大きく息を吸った。
「じゃぁさ——、俺と一緒に住むっていうのは、どう?」
「え⁉」
「二人で住めば、広い家も勿体なくないだろ?それに家賃も。折半すれば汐梨の負担も減るし、どう?嫌か?」
「え……」
汐梨は突然のことに言葉が出ず、口をパクパクさせた。
「い、嫌なんかじゃ……」
「じゃぁ……」
「で、でも。申し訳ないよっ。私の為に慶君まで引っ越ししなきゃいけなくなっちゃう……」
「そんなの、大したことじゃない」
「た、大したことだよ!引っ越しってお金がかかるし……。優と一緒に暮らしたいっていう私のことで、何だか振り回しちゃってるみたいで……本当に申し訳ないよ……」
そう言って汐梨は俯いた。
これまで散々、慶之は汐梨の為に尽くしてくれた。支えになるとも言ってくれた。そんな慶之に感謝の気持ちを抱きながらも、このまま頼りっぱなしではいけないと心のどこかで感じていたのだ。
お互いの気持ちを確認し合った日、この人に見合うようにならなくては、と心に決めた。
それなのに——
(一緒に暮らそうだなんて……)
慶之の優しさに決心が鈍りそうになる。
どういう訳か慶之は、いつも密かに願っていることをさり気なく察知してしまうのだ。
そういったところに自分に対する慶之の愛情深さを感じてしまい、思わずうるっとしてしまった。
「汐梨」
気が付くといつの間にか隣に来ていた慶之が、そっと汐梨の手を握って言った。
「俺は、汐梨に振り回されてなんかない。俺がそうしたくてしているんだ。汐梨の側で、汐梨を支えたいんだ。それは、迷惑かな?」
汐梨はブンブンと激しく首を横に振り、そんなことはないと態度で示した。
「本当に?」
そして無言のまま大きく頷く。
そんな汐梨が慶之はたまらなく愛おしかった。
「ふ……。汐梨」
慶之は汐梨を抱き寄せると、できるだけ早く内見に行こうと二人で約束するのだった。
よく晴れた日、二人は早速例の貸し家の内見に訪れた。
今住んでいる所に比べるとだいぶ田舎な雰囲気の場所にある最寄り駅は、さほど古くなく少し小洒落た外観だ。
駅を出て階段を降りると正面に小さなスーパーがあり、地元の住人が買い物に来る様子が窺えた。
駅からは徒歩で十五分くらい。車ではほんの数分の距離の所に家はあった。
周辺はほとんどが田んぼや畑。その中に住宅が点在している。隣近所ともある程度距離があって狭苦しさを一切感じない環境だった。
「これなら、もし優が吠えたりしてもご近所に迷惑がかからないかも」
「そうだな。車通りも少ないし、散歩も危なくなさそうだ」
初めに周囲の環境を確認した二人は玄関の扉を開けた。
引き戸は少し古く、開けるとガラガラと音を立てる。その音に、汐梨は昔住んでいた実家のことをふと思い出し、懐かしさを覚えた。
この日は管理人が予め各部屋の窓を開放してくれていて、澄んだ空気が刈られたばかりの草の香りと共に家の中に流れ込んでいた。
程よく光が差し込むこの家は、どの部屋も明るくてどことなくノスタルジックな雰囲気が漂っていた。
「何だか懐かしい感じだな」
慶之も思わず呟いた。
玄関からまっすぐ伸びる廊下を進んだ先は座敷になっていて、障子張りの戸を開けると縁側があり、その先には少し荒れた庭が広がっている。庭の角には栗の木があって、収穫にはまだ早い緑色のイガがたくさん付いていた。
「わぁ……。お庭、広いのね」
「これは、手入れのし甲斐があるな」
二人は縁側に座り、優しく吹く風に当たりながらしばし無言で佇む。
「……私、ここに住みたい」
先に口を開いたのは汐梨だった。
「ここで暮らす自分や、優と慶君と過ごす日々を想像してしまったの。もう、ここでの暮らし以外は考えられないって思っちゃった」
「うん、俺も。絶対に楽しい毎日以外想像できない」
二人はまだ始まっていないこの家での生活に夢を膨らませ、どこに優の家を置くか、物干し台はどこに設置するか、花壇はどうするか……そんなことを話しながら、これからの未来を想像した。
内見の後不動産屋に立ち寄った二人は、入居を十月に決めて契約を済ませ、気分よく帰路についた。
「ようやく優と一緒に暮らせる。慶君、本当にありがとう」
「礼なんて言うな。俺だって、これからの汐梨と優には幸せしかないって思うと嬉しいんだ」
「慶君……」
取り留めのない話をしているうちに車はあっという間に汐梨のアパートに到着した。
「部屋まで送るよ」
シートベルトを外しながらそう言う慶之に、
「ううん。ここで大丈夫!ありがとう。じゃぁ、また」
そう返した汐梨は、あの海で出会った翌朝の時のような、胸が締め付けられるほど綺麗で温かい笑顔だった。
車を降りて部屋へ向かう汐梨は、今まで味わったことのない幸福感でいっぱいだった。
人生がまるで変わってしまったように幸せなことばかりが起こる毎日に疑問を抱くことも無くなった。
自分は幸せになってもいいのだと思えるようになっていた。
この幸せを噛み締めて、今日はゆっくり休もうと思いながら鍵穴に鍵を挿す。
挿し込んだ鍵を回そうとしたそのとき——。
「‼」
突然鍵を持った右腕を何者かに掴まれ、ハッと振り向いた汐梨。相手の顔を見た瞬間、身動き一つ、思考さえも停止してしまったかのように全身が凍りついた——。
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