鵺の鳴く夜

水戸平うみ

第一章 プロローグ

 夏の夜は騒がしい。暗闇の中でカエルたちがしきりに仲間を求めて声を上げる。かと思えば野良猫が甘えた声で喉を鳴らす。きっと発情期なのだろう。少しするとけたたましい声でいがみ合う声も聞こえてきた。

 そんな賑やかさも深夜を回ると怖いくらいに静まり返る。そして、鳥が静かに鳴く。

 キィー  キィー

(……ん、ブランコの音……?)

 外から聞こえる音に目が覚める。音は、高く低く一定の間隔で繰り返し、静まり返った夜の闇に響いていた。

(そんな訳ない。近くに公園なんて無いんだから)

 ぼんやりする意識の中でしばらくその音を聞いていたが、ふと今が何時か気になり時計を見ようと頭を持ち上げた瞬間——。

「うっ!」

 何かに首を強く引っ張られ一瞬苦しさに顔を歪めたが、すぐに首に拘束具を着けられていた事を思い出す。

 拘束具のリードはベッドの脚に連結されていた。拘束具をはずそうと腕を動かしたが、両手は後ろ手に拘束されている。

 少し考えた後、慣れた様子で体をくねらせると器用にお尻から足へと腕を回し、両手を前に持ってくることに成功した。首の拘束具をはずしベッドの端に腰掛ける。背後を振り返ると裸の男が静かな寝息を立てて眠っていた。

 小さなため息をついた後、自由にならない両手のままトイレへ向かう——。

 

 朝、鏡に自分の姿を映すと、細く白いその首には赤紫色の筋がくっきりと浮かんでいた。

 そっと首筋に触れるとツンとした痛みと共に、手首にも痣ができていることに気付く。

「しーちゃん、おはよ」

 背後から両腕を回して抱きしめた後、首の痣を見つけて右掌でぐっと掴む。

「ん……っ」

 痛みと苦しさに思わず声が漏れる。

「あ〜ぁ。痣、できちゃったね」

 少しも悪びれる様子もなく、耳元で囁くその口元は恍惚感で歪む。

「け、賢一けんいちさん……痛い」

「痛がるしーちゃん、そそるなぁ」

 賢一の手がゆっくりと腰から下へとなぞっていく。

「そろそろ行かないと。仕事に遅れちゃう」

 やんわりと賢一の腕の中から抜け出ると、そそくさと身支度を始める。

「そう。じゃ、俺はもう一眠りするわ」

 背を向けベッドに向かう賢一に、少し迷いながら声をかけた。

「あの……できれば次から、ね、寝る前に手錠を外してくれたら助かる、な……」

 賢一は足を止めてゆっくりと振り返ると、強い力で肩を鷲掴み壁に押し付けた。そして冷たい目つきで上から見下ろす。

「どうして?」

「あ……あの、トイレ……トイレの時不便だから……」

 目を見ることができず視線を逸らした。賢一は少しの間見下ろしていたが、グッと抱き寄せて耳元で言った。

「ごめん、気づかなくて。今度からそうするね」

「ありがとう……」

        

 会社のロッカールームで着替えを済ませる。

 ロッカーの鏡で見てみると、制服の襟元から首筋の痣がはっきりと見えてしまっていた。仕方なく、痣を隠すために湿布を貼っていると出勤してきた同僚が声を掛けてきた。

汐梨しおりおはよー。あれ?首、どうした?」

美樹みきちゃん、おはよう。あぁうん、ちょっと寝違えた」

「あはっ、あるある〜。痛いよねー。あ、汐梨、ここ結べてないよ」

「え、ホント?」

 髪型を指摘され、とっさに両手を頭にのばしてハッとする。

「ちょっと、どうしたのこれ?」

 両手首の痣を見られてしまった。

「あ……これは、う、うっかりぶつけちゃって」

 下手な言い訳だ。しかし、とっさのことでこんなことしか口から出なかった。美樹はもちろん信じてはいない様子であったが、

「ふぅん。どうぶつけたらそんな痣ができるのか知らないけど……気を付けなね?さ、ミーティング始まっちゃうよっ。行こっ」

 あまり深く追求することもなくロッカールームを出て行った。汐梨もカーディガンを羽織って後に続く。

 

 汐梨が介護士として務めているこの施設は、全国にいくつかの企業を展開している事業所のうちの一つで、入社して六年ほどになる。出入りの激しい業界ではあるが、彼女はこの会社に腰を据え、まだまだ若手ではあるものの他の古株たちと肩を並べ信頼も厚く、評価も少しずつ上がってきている。控えめな性格ではあるが物腰柔らかく、情に厚いところが入所者からの評判もよい。

         

「それでは申し送り始めます。まず介護部から」

「はい。では、夜勤帯から。一〇七号室の町田さん、就寝前にVDS服用しておりますが、深夜二時居室から出て来られ、不眠の訴え聞かれております。その後四時まで‒‒‒‒」

 続いて日勤帯の介護部、看護部、生活相談員と申し送りが続き、最後に施設長からとなる。

「みんなお疲れさん。昨日から空調の点検に業者が入っているが、今日も引き続き行われる。予定としてはS《サウス》フロアで、その後W《ウエスト》フロア。邪魔に思うかもしれないが業者も仕事できてるし、俺達も空調がうまくいかないと仕事しずらいからな、お互い配慮し合ってくれぐれもトラブルの無いように。それから、今日リハビリに出かける吉田さんだが、同行するヘルパーの手配が付かない。俺は吉田さんを病院に送った後次の送迎があるから付き添えないんだ。だから今日出勤のスタッフで行けそうな奴を後でこっちでピックアップするから、その時は頼む。それじゃ、今日も事故のないように。解散」

 解散の一言でその場にいたスタッフが一斉に各自の持ち場へと散る。汐梨もこの日のチームで業務内容の確認作業をしていた。そこにチームリーダーが施設長に呼び出され、何やら話をした後、

水無瀬みなせさん、ちょっと」

 と、汐梨に手招きをした。

「はい、何でしょうか?」

「さっき申し送りの時に松本さんが話してた吉田さんの件、悪いんだけど、同行お願いしてもいいかしら?業務は私たちで何とか回すから」

「あの……私で大丈夫でしょうか……」

「吉田さんは水無瀬のことを信頼している。今日が初めてのリハビリで本人も不安が大きいだろうが、水無瀬が付いていてくれたら安心できるだろう。病院での手順は看護部から指示書をもらえるから、その通りに動けば大丈夫だ。頼めるか?」

「わかりました。よろしくお願いします」

「よしっ、十分後に出るから、支度してくれ」

「悪いわね、水無瀬さん。でも、これも経験だからね。行ってらっしゃい」

「はい、行ってきます」


 準備を整え正面玄関に向かうと、この日初めてのリハビリに向かう吉田さんが車椅子で待機していた。少し緊張した様子でいたが、汐梨の姿を見つけると笑顔を見せた。

「おや、今日はミナちゃんが一緒に行ってくれるのかい?嬉しいねぇ」

「付き添いは初めてだから頼りないかもしれないけど、よろしくお願いします」

「いやいや、傍にいてもらえるだけで十分。よかったよかった。さ、施設長さん、早く行こうや」

「まったく、ゲンキンな爺さんだな。はい、上がりますよ」

 冗談を言いながら車椅子を乗せたリフトが上がる。車両にはもう一人、車椅子の入所者と付き添いの者が同乗していた。汐梨も車両の一番奥の座席へ座る。


 車で走ること三十分。リハビリ先の病院に到着。汐梨たち二人を下ろすと、松本が運転する車は次の送迎先へと走り去ってしまった。

 大病院での初めての付き添いで心細い汐梨だったが、大きく深呼吸し気持ちを切り替えると

「さ、吉田さん、行きましょうか」

 明るい声で車椅子を押して行く。

 人見知りが激しい汐梨は受付するにもドギマギしていたが、汐梨を頼りにする吉田さんの存在で気持ちを奮い立たせ、どうにかこうにかリハビリテーションのフロアまで辿り着くことができた。ここまで来るだけで既にぐったりの汐梨。そんな汐梨を見て吉田さんはニコニコとしているのだった。

「えっと……受付で渡されたこのファイルをリハビリブロックの窓口に出す、っと」

 出てくる前に渡された指示書を何度も確認しながらキョロキョロと不審な動きで窓口へ向かい、しどろもどろに名前を告げる。

「今日が初回の方ですね。お預かり致します。お名前をお呼びしますので、中に入ってお待ちください」

 中待合室に通され、ようやく安堵した汐梨は長椅子に倒れ込むようにして座った。

 少しすると名前が呼ばれ、看護師が必要事項の確認を行いカルテに記入する。そして

織田おださん、お願いします」

 と、男性を呼び止め先ほどのカルテを渡した。

 織田と呼ばれたその男性はカルテを確認し、

「吉田さん、初めまして。私は理学療法士の織田と申します。今日が初めてのリハビリですね。まずはこれからのリハビリプランを立てますので、こちらでご説明します」

 そう言いながら奥のブースへ吉田さんを連れて行った。汐梨の付き添いはひとまずここまでで、呼出し用のブザーを受け取り院内で暇を潰すことになった。

 ラウンジでコーヒーを飲みながらぼんやりする。子連れの母親、入院着を着た男性。点滴をしながら売店に入っていく人、行ったり来たりする看護師たち‒‒‒‒。病院は、静かの中に騒がしさがあって、そんな雑音が汐梨には心地よかった。そして、自分も幼い頃は看護師を夢見ていたことを思い出す。

(私、病院って好きだな……)

 不意に感傷的な気持ちになりかけたが、気を紛らわすためスマホを取り出した。

「‒‒‒‒!」

 画面を見た汐梨は凍りついた。賢一から異常な程の着信、LINEの通知があったからだ。

 見ない方がいいと思いつつも、震える指で通知を開く。

〈今どこ?〉

〈会社にいる?〉

〈今どこで何してるの?〉

〈今日出勤してるはずだよね?〉

〈電話に出ないのなんで?〉

田崎たざきさんに聞いた。リハビリの付き添いだって?松本さんもいないけど、まさか一緒にいるの?〉

 どれもこれも汐梨の行動を監視するかのような内容ばかり。それらを見た瞬間、腹の底に何かがズシリと落ち込むような感覚を覚え、途端に吐き気をもよおしトイレに駆け込んだ。

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