第11話 ユマの夜
父は、色を売る女が嫌いだった。
「女の唯一持つ価値をばら撒いて希釈する愚かな行為だ」と言っていた。
別に自分に直接言ったわけじゃない。
姉が二十歳になって初めて朝帰りをしたとき、父は彼女の頬を叩いてから、それを言った。
ユマはそのとき十二歳だった。まだ子どもだったけど、姉に好きな男ができたことは察していた。
だから、姉は彼と夜を過ごして帰ってきただけで、別に「色を売っていた」わけじゃなかっただろう。
けれど父にとっては、どちらも同じことだった。
「娘が自分の意図しないところで、女としての希少価値を希釈した」
それが許せなかったのだろう。
だから、ユマは今、父が一番嫌うことをしている。
だって自由になりたいから。
*
ホテルの一室。
暗い静寂の中に、僅かに湿った空気が漂っている。
ユマはベッドの端に腰を下ろし、裸足のまま床に片足をついた。
部屋の奥では男が眠っている。
彼の手を、そっと握ってみる。
——何の反応もない。
期待していたわけじゃない。
だから寂しくもない。
そっと手を離し、タバコを一本くわえた。
ライターの火を近づけると、オレンジ色の光が一瞬だけ指先を照らし、煙がゆっくりと天井へ昇っていく。
焦げた匂いと、僅かな苦味が口の中に残った。
毀損される価値
偽りの優しさ。
性欲が満たされれば、すぐに消える温もり。
ことが終われば、もう手も繋がない。
それでいい。
それが普通。
目の前の男は顔が良かった。
それだけのこと。
他は全てくだらない男だった。
くだらない男に抱かれた。
はっきりと「痛み」を感じる。
鈍い疼きが、胸の奥にじわりと広がる。
ユマは煙を吐き出した。
自分の価値が、少しずつ削れていく。
魂が消耗する。
それでよかった。
価値を失えば、自由になれる。
もう誰にも必要とされないから。
フラッシュバック
ふと、別の手の記憶がよみがえる。
姉の手ではない。
もっと大きな手。
どこか不器用で、けれど優しく、確かに温かかった。
男の顔が浮かぶ。
無造作な黒髪。切長の目。長身。無愛想だが、寝顔は可愛かった。
他の男のようにホテルで見た寝顔ではなかった。コインランドリーのベンチで寝入ってしまっている姿を見た。
雨宮健太郎という名前だった。
あの夜、彼の手が、自分の痣を治療していた感触が残っている。
何も聞かず、ただ手当てをしてくれた。
なんで思い出すんだろう。
あいつが私を抱かなかったから?
ユマは舌打ちをして、灰皿にタバコを押し付けた。
窓の外には、眠らない街の光が広がっている。
だけど、ユマの目には何も映らなかった。
すべてを棄損する。
女としての価値、娘としての価値、人としての価値。
それを捨て去れば、ようやく自由になれる。
そう思った。
眠るように薬を飲み、冷たい手首に刃を当てた姉の姿が浮かぶ。
ユマの胸の奥に、静かな寒さが広がる。
「姉さんは自由になれた?」
呟いた言葉に、答える者はいない。
震えが止まらない。
まどろみの中で、健太郎の顔が浮かぶ。
「君はいい人だ」
その声が聞こえた気がした。
あんたに何がわかるの?
そんなわけない。
そんなわけないじゃん。
ユマは目を覆う。
健太郎が、死んだ老婆の冥福を祈る横顔が浮かぶ。
その顔が、なぜか姉が母のことを語るときの表情と重なった。
涙が出そうになる。
私が死んだときも、誰かがあんなふうに祈ってくれるだろうか。
そんなことを考える自分に、苛立ちを覚えた。
冷たい部屋の中、ユマはベッドに横になり静かに目を閉じる。
男の体温がわかるほど近いのに、ひどく寒かった。
蓮っ葉な彼女と眠れない僕。 ぺぺろん。 @peperon0208
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