三条つばめ警部補のお別れ「最後の電話」

高柳 総一郎

犯行編

 この窓から見下ろす景色に現実感がないのは、いつものことだ。新宿区内のホテル、そのスイートルーム。矢部川明夫は固めた決意に反してどこか浮ついた気持ちで、夜の東京を見下ろしていた。

 その日は八丈島への視察の後だったので、自宅ではなく都庁近くのホテルに泊まることとした。なにもかもいつも通りだ。そうでなくては、これからの『許されざる計画』は破綻してしまう。

 何事も綿密な計画と根回しが大事だ。薬学部をギリギリで卒業し、工業メーカーの経理から政治家に転身、五十歳手前で都知事に上り詰めるには、そうした基礎をおろそかにしないこと――そしてそれをも超えた大胆な決断が常に必要だった。

 スマートフォンが招かれざる者からの連絡を通知したのは、クリスタルグラスに注いだウィスキーの氷が、からりと鳴ったのと同じだった。

「……山本さんですか」

『やあ、矢部川さん。失礼、都知事とお呼びすべきですかね』

「かまわない」

 どうせ明日までの命だ。

『実はあれから当時のカルテが追加で見つかりましてねえ。急で申し訳ありませんが、これも記事の裏取りの結果というやつでして。だいぶかかったんですよ』

 それ以上の言葉は、山本の口からは出なかった。彼はいわゆる悪質なパパラッチというやつで、都知事として東京の顔になった矢部川をとにかく蛇蝎のごとく忌み嫌っているようだった。

 そんな彼から、大学時代の恋人の自殺を聞かされたのは三ヶ月前。由美子というその恋人は、大学二年生の春に半年ばかり付き合ったが、彼女の浮気が判明したことで別れてそのままになっていた。その後のことなど何も興味はなかった。卒業してからは社会人としていそがしかったし、今の妻と早々に結婚、一男一女にも恵まれた。

「由美子さんは、『あなたに弄ばれた』と遺書を残しているのですよ」

 行きつけの喫茶店で朝の三十分を一人で過ごすことにしている矢部川の前に、彼は突然そう現れた。コーヒーとタバコのヤニの匂いがない混ぜになった口臭を撒き散らしながら、ずけずけと目の前に座ってまた続ける。

「私も社会正義を標榜する記者ですからね。こういうことは世に問う必要があると思っています」

「君……いきなり失礼じゃないか? それに由美子と別れたのはもう二十数年前だ」

「しかし彼女はそう遺している。『事実』ですよ」

 彼はそう言って、自身の名刺と遺書のコピーを机に滑らせた。

 由美子は性に奔放な女だった。大学という開放的な世界であった、ということも大きいのかもしれないが、少なくとも自分以外に数人に体を許していた、と友人から聞いている。

 弄ばれたのはこっちの方だ。

「……私も暇じゃない。事実だとも思わない。もっとしっかり調べてから顔を出してはいかがです?」

 そう言って席を立ったのは、今思えば悪手だった。彼の調査能力は本物で、なお悪いことに矢部川は東京都知事――スキャンダルの種があれば響いてしまう地位を持っていた。

 資料を買い取ることが原稿に、記事の原稿を買い取ることが雑誌そのものを買い取ることに、雑誌が在庫何千冊になるのにそう時間はかからないだろう。個人資産をすべて手放して在庫を買い取ったとしても、山本はその事実を面白おかしく書き散らかすに違いない。

 もはやこの方法しかない。

「山本さん。私はあなたに敬意を持っています。社会正義のために真実を追い求めること、口ではできても行動に示すことはなかなか難しい。明日はお手すきですか?」

『……ええ』

「では、一度話を詰めたいですね。どうです? 私の記事の代わりに、私の独占インタビューを取るというのは。もちろん、条件は飲みますよ」

 どうせ山本はこの電話もメシの種にするために録音しているだろう。万が一警察に露呈しても、殺意など絶対に抱かせない。口は災いの元だ。言わねば何も分かるまい。電話越しなら尚更だ。

『いやあ、そうですか! さすが都知事。明日でしたら何時でも大丈夫ですよ』

「でしたら、早いほうがいいでしょう。都庁裏の喫煙所に十三時に来ていただけますか? なにせ私の腹をお見せする話ですからね。万が一にも場所を漏らしたくない」

『そうですか。では十三時に』

 返事も聞かずに、山本は電話を切っていた。スマホをベッドに投げ捨てて、矢部川はぐいとウィスキーをあおり、そのまま体をベッドに横たえる。

 なにが社会正義だ。腐り切った拝金主義者の間違いだろう。慎重に手袋をはめ、カバンから取り出した小瓶を机に置く。ピンク色の溶液が揺れている中に、ピンセットで小さく丸い脱脂綿を入れた。

 タバコパックを剥いて、新品のタバコにそれを埋め込んだ。杜撰なトリックだ。しかし、『清廉潔白で品行方正な都知事』のイメージを守るために、これ以上弱みを誰かに見せることは避けたかった。

 しかし言ってみれば、地の利はこちらにある。都庁であれば、仕掛けはいくらでも作れる。矢部川はタバコを元に戻して、密封パックへと入れた。

 後は眠らねばならない。睡眠は良い仕事のために最も重要なファクターだ。



 入館カードでゲートに触れて、エレベーターで七階へ。都庁は第1庁舎が四十八階に達しているが、その心臓部とも言える都知事室の位置は意外にも低い。

「市川さん。おはようございます」

「おはようございます」

 秘書係長の市川に挨拶をするついでに立ち止まり、できる限りいつも通りを心がけるように、口を開いた。

「市川さん。今日の十四時三十分からは、会計課のヒアリングがありましたね」

「はい。午後はそれに加えて、関係団体の方との会議も入っております」

「分かりました。では十二時四十五分から十四時までは人を通さないでください。電話も取り次がなくて結構。集中して資料を読み込みたいので」

「分かりました」

 執務室に入ってからは、コーヒーを飲むことにしていた。以前の矢部川はそれなりのスモーカーであり、朝はまずタバコを一服するのが習慣であった。今や喫煙者の肩身は狭い。なにより、都庁内は全面禁煙、職員についても禁煙が推奨されている今、その旗振り役の都知事が喫煙者というのはうまくない。

 ただ、自らが喫煙者であったことで、彼らの苦しみもまた理解できる。そんな理由からか、都庁裏の駐車場の陰に、職員用の喫煙所を残してあった。

 しかし、職員の間ではまことしやかに『都知事が無理やり残した都知事専用喫煙スペースだ』と噂が立ち、職員は誰も使っていない。初めて噂を耳にしたときは苦笑したものだが、いまとなってはありがたい。

 午前はどうにも落ち着かなかった。喫煙衝動を抑えるためのニコチンガムの存在を知ったときは鼻で笑ったものだが、なかなかバカにならない。

 各部署のいくつかの決裁についての事前資料に目を通し、政府筋からの情報や各社新聞、広報資料を読み込んでいく。都知事は都内はもちろん、日本そのものに詳しくなければならない、というのが矢部川の持論だ。集中すれば時間はすぐに去っていく。

 昼を告げる放送十二時のチャイムが都庁全体に流れたのと同時に、矢部川は立ち上がり、都知事室の扉を押し開けた。

「都知事、お出かけですか」

「今日は確か、キッチンカーが出ているんでしたね?」

 都知事庁舎前は道路を挟んで広場になっていて、時折そこにキッチンカーがやってくる。意外と人気で、職員たちが列をなすことも多い。

「はい。しかし、申し付けていただければ秘書係で……」

「構いません。市川さん、秘書係のお昼は確か十二時半からでしたね?」

「はい、その通りです」

「でしたら、皆さんもキッチンカーを楽しんでください。わたしは十二時半を過ぎて戻るかもしれませんが、貴方がたもしっかりお昼を取るように」

 ひらひらと手を振って、1人で、外へと出ていく。珍しいことでもない。都知事だって仕出し弁当以外が食べたくなるものだ。

 目立たないようにキッチンカーに並び、数人の幹部職員が会釈や挨拶をしてくるのを笑顔でやり過ごす。お釣りが出るのが嫌だったので、千円の弁当を選んだ。普段なら減る腹も気にならない。

 人を殺そうというのだ。食欲が湧くほど肝は太くない。



 地下駐車場のそばを通り過ぎ、庁舎外周から裏口へ。監視カメラは少なく、喫煙所までにはない。滑り込むのは難しくない――いつの間にかちょうど十三時になっていて、山本は既に待っていた。

「どうも」

 顔見知りのようなことは言わない。山本もおそらくわかっているようで、言葉少なであった。

「どうも。で、いつになさいます?」

「十八時にいつもの喫茶店はいかがです?」

 矢部川は毒入りタバコの隣のタバコを抜いて咥え、火をつける。そして何気なく彼に向かってタバコを一本パックから伸ばした。

 これは審判だ。

 欲深いものが当然に受ける報いだ。私は正しく生きてきた。正しく生きてきたものから理不尽に奪おうとする者には、罰が与えられてしかるべきだ。

 山本は知ってか知らずか、それをつまみとって咥える。矢部川はついでと言わんばかりに自然な動きで、それに火をつけた。餞別だ。

「……結構ですよ。約束、忘れないでくださいね。では」

 あのケチな欲深い男が、もらいタバコを捨てるわけがない。最後までしっかりと吸うだろう。

 報いだ。分不相応な望みを抱く者は、必ず報いを受ける。ましてや、罪なき者を貶めようとするなど、赦されてなるものか。

 矢部川はタバコを肺まで吸い込んで、当たり前のように灰皿へ捨てようとしたが、やめた。なにから事実がわかるか分かったものではない。

 携帯灰皿に吸い殻を押し込むと、何事もなかったかのようにその場を後にした。

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