異世界の「気」
〜
「気」の運用には大きく分けて二種類がある。すなわち、身体の動きを伴う動功(どうこう)と、意念のみで気を運用し、鍛錬・蓄積する
その起源は、ソの国に存在した
しかし、古林寺のみに留まらず、この修行法はやがて他の武門や修験の流派にも広まり、それぞれの思想や技法に応じた独自の静功心法が編み出されることとなった。ある者は戦場での冷静さを保つために、ある者は神秘の力を追求するために、またある者は肉体を超越した境地に至るために——静功心法は時代とともに多様な形を成しながら受け継がれていったのである。
一方で、意図せずして静功の効果を得てしまう例もある。いわゆる「
未熟な者がこの状態に陥れば、頭痛や悪寒、悪夢といった症状を引き起こし、場合によっては正気を失うことすらある。これは俗に「悪霊に取り憑かれた」と表現されるが、実際には誤って強大な気を体内に蓄えたことに起因する のである。
この理を知る古林寺の僧たちは、静功を通じて己の気を制御し、外界の影響を受けずに「気」を蓄積する術を極めた。彼らにとって静功は単なる修行法ではなく、生死を分かつ術 であったのだ。
この教えはやがて武人たちにも伝わり、静功を極めた者は「静かに座して
(出典:民明書房刊 『気功大全 ― その理と極意 ―』より)
***
「坊ちゃま、そもそも今日が『グランド・サーキット巡回』の日ですから、見に行きたくて散歩したいと言い出したのではありませんか?」
ウイルヘルムはその提案に少し戸惑った。彼は『グランド・サーキット』が何であるか分からなかったが、ベルタが提案する様子から、それがきっと何か特別なものだと感じ取った。とりあえず、頷くしかなかった。
「うん…」
「それなら、今なら『グランド・サーキット』の部隊が到着する前に、中央広場まで歩いて行けますよ。どうぞ、少し足を伸ばしてみましょう。」
ベルタが微笑んだ後、三人は中央広場へと歩き出した。銅像がある庭園を囲っている壁には落とし格子が降ろされた城門があり、三人がその城門に近づくと門の内側を警備していた衛兵が恭しく敬礼した。ベルタは衛兵の一人に外出の旨を告げ、衛兵はすぐに別の衛兵に指示を出し、落とし格子を上げるよう命じた。
落とし格子が静かに上がり、内壁と外壁の間の空間に入ると、両側に衛兵の詰所に通じるドアが見えた。その内の一つから二人の衛兵が慌てて駆け出し、ウイルヘルム一行に随行するすることになった。
(散歩するだけで四人もの従者がくっついてきよる…)
ウイルヘルムはちょっと頭が痛くなってきた。
城から出て5分もしない内、前方に重たい荷物を押しながらゆっくりと進む一行が見えた。その一行は、庶民らしい粗末な服装をしており、手押し車には様々なものが積まれていた。木製の車輪は土の道に引かれ、ゆっくりと進んでいる。手押し車には、酒樽、ソーセージ、何の肉なのか分からない燻製、チーズ、さらにはコーヒー豆や織物などがぎっしりと詰め込まれていた。荷物の重さで車輪が悲鳴をあげながら石積みの道を進む。
その中でも、幾人かは少し息を弾ませて手押し車を押し続けており、その他にも幾人かの子供たちがその後ろで歩いているが、手に荷物を持っている者は少なく、どこか頼りない足取りを見せていた。
ウイルヘルムたちはその一行に追いつき、歩みを合わせることとなった。その時、手押し車を押していた中年の男性がふと顔を上げ、ウイルヘルムの姿を目にした。最初は少し気づかない様子だったが、すぐにその顔が驚きに変わり、慌てて車を止めて頭を下げた。
「ウイルヘルム士爵閣下、申し訳ございません! お声をおかけするのが遅れまして、どうかお許しくださいませ!」
その言葉に、他の者たちも急いで顔を上げ、慌てて車を横に寄せながら次々にお辞儀した。
「ウイルヘルム士爵閣下、どうかお元気で。今日もお幸せをお祈り申し上げます。」
ウイルヘルムは一瞬、戸惑いの色を浮かべたが、そのあまりにも大仰な振る舞いを煩わしく思いながらも、ゆっくりと頭を下げた。
だが、その行動を見逃さなかったベルタは、すぐに彼に向かって静かな声で注意した。
「坊ちゃま、領主たるもの、自分の領地の領民に頭を下げてはいけません。少しは堂々としなさい。礼儀は守らねばなりませんが、これは『貴族』の礼儀です。」
ウイルヘルムはその言葉を聞き、すぐに顔を上げると、ベルタが続けた。
「左手を胸の高さで振るだけで、領民に答えるにはそれだけで十分です。」
その言葉を受けて、ウイルヘルムは左手を胸の前に持ち上げ、ゆっくりと振るように動かした。動作はぎこちなかったが、なんとかその形を取ることができた。
(
ウイルヘルムは今日の今までの出来事に対して甚だしい違和感を覚えた。自分が「領主」であり、こうして領民と接する立場だということを、まだ完全に受け入れられないでいた。体感としては昨日まで別人の姿をしていたのに、目が覚めたら別人になっていたという妙な感覚がつきまとって離れない。
もっとも、100年以上前にたった一度だけ、似たような感覚を味わったことがある。しかし、慣れろと言われても無理な話だ。
(権力に迎合せず己の道を歩んだ余が、今さら領主面とは片腹痛い)
ウイルヘルムは胸の中で葛藤しながら、手を下ろすと、もう一度ゆっくりと歩き出した。その表情には、未だ自分の立場に対する動揺と戸惑いがにじんでいた。
歩きながら、ウイルヘルムは考えた。
(散歩なんて言い出すんじゃなかった)
元々は、散歩という名目で監視者――もとい、ベルタと侍女に付き添わせ、自分が自由に動ける場所へと向かい、ダンスと偽装して気功の修行をするつもりだった。しかし、自分の身分を甘く見ていた。まさか二歳児にして士爵であり、領主でもあったとは。誰もそんなことを想像しないのだろう。
気功の修行について思いを巡らせていると、ウイルヘルムはこの世界と前の世界との大きな違いに改めて気づいた。室内にいた時もそうだったが、外に出てみてもまるで変わることがない…この世界の「気」は、前の世界に比べてあまりにも濃く、そして禍々しい。
それはまるで、あらゆる生き物に敵意を持ち、血と殺し合いを望んでいるかのようだった。しかし、邪悪という感覚でもない。ただ純粋に、闘争そのものを生み出そうとするような「気」。
こんな環境で気功の修行をして、自分の身体や精神にどんな影響が出るのか?
ウイルヘルムは慎重に呼吸を整え、静功心法を用いて小指の「
(まずは微細な流れだけ……慎重に、少しずつ……)
ゆっくりと静功を発動する。意念だけを用い、ごくごくわずかな気を招き入れるつもりだった。しかし――
ドッ!
予想をはるかに超えた衝撃が、指先から突き刺さるように入り込んできた。まるでダムの決壊した激流が、小さな水路に流れ込むかのような理不尽な勢い。
(なっ……!? たかが井穴一つで、ここまでの濃度とは!)
それはまるで、生き物の意志すら宿しているかのようだった。敵意ではない。しかし、混じり気のない純粋な「闘争本能」が、ウイルヘルムの身体に流れ込んでくる。
気の奔流はたちまち体内を駆け巡り、内臓や経脈を焼き尽くさんばかりの圧力をかける。このままでは、まるで膨れ上がった風船が爆ぜるように、自分の身体が内側から破裂しかねない――
(まずい……! このままじゃ、気に殺される……!)
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