2ピリオド ~準備⑩~
「金沢先生!」
体育館の鍵を閉め、職員室へ向かおうとした亮多は、たまたま廊下を歩いていた顧問の金沢先生を呼び止めた。
「あっ、中谷くん、お疲れ様。今日の練習はどうだった?」
金沢先生は、少し困ったような、それでいてどこかほんわかした笑顔を亮多に向けた。バスケ部の顧問ではあるものの、競技には全くの素人だ。もう一人の顧問である高橋先生もいるが、他の部活と兼任しているため普段は顔を出さない。そのため、新任の金沢先生が実質メイン顧問だった。
「はい。おかげさまで、少しずつですが、みんなまとまりが出てきたように感じます」
亮多は今日の練習内容を簡潔に説明した。極限状態で見られた、メンバー同士の助け合い。そして、彼女たちが練習の意図を自ら感じ取ってくれたこと。それを聞いた金沢先生は、「へぇ〜!」「えぇ〜!」と、まるで初めてバスケを知った子どものように目を輝かせている。
「ただ単にボールを追いかけるだけじゃなくて、ちゃんと心も繋がっていくんですね」
金沢先生は、両手を胸の前で合わせながら感心したように言った。その天然な発言に、亮多は少し照れくさそうに笑う。
「ありがとうございます。でも、まだまだです。これから、もっと大きな壁にぶつかると思いますし……」
亮多が今後の不安を口にすると、金沢先生はふと真剣な表情になった。
「なるほど……。今日もお話ししていただいてありがとうございます」
報告のようなものが終わり、帰ろうとしたその時、金沢先生が亮多を呼び止めた。
「中谷くん、木曜からテスト週間に入ります。鶴賀中のテスト週間は二週間なので、水曜日が最後で次の部活は七月頭になります。ちなみに、部活は大会前であれば教務主任か教頭に事前相談するのですが、公式戦しか認められてないので今回は厳しいです」
六月末から七月にかけてテストがあるらしい。
「わかりました。中学生の本分は勉強ですしね」
亮多の言葉に、金沢先生はホッとしたように微笑んだ。
「そうね!みんなにはまず、ちゃんと勉強も頑張ってもらわないと。でも、急に二週間も練習がなくなっちゃうのって、なんだか寂しいね」
金沢先生は少し寂しそうな表情で首を傾げた。その様子を見て、亮多は言葉を選びながら口を開く。
「はい。ただ、テスト休みに入る前に、もう一度みんなで話し合っておこうと思います。次の練習までの課題や、各自でできることなどを伝えておかないと、二週間は長いですから」
亮多の言葉に、金沢先生は目を丸くした。
「すごい!中谷君って、本当にすごいね。私なんて、顧問って言っても、練習に顔を出すくらいしかできてないのに……。それにしても、みんなが二週間もバスケから離れちゃうのは、もったいない気もするね。せっかくチームとしてまとまりかけてきたところなのに」
金沢先生はそう言って、再び寂しそうな表情になった。彼女のその無邪気な言葉に、亮多はふと、佐倉四季のことを思い出した。テスト休みが明けた後、彼女はバスケ部にいるのだろうか。もし入部してきたとしたら、チームは、そして部員たちは、どう変わっていくのだろうか。
「……そうですね。でも、この二週間が、彼女たちにとって本当に必要な期間になるかもしれません」
亮多は、そう呟いた。この時間を使って、彼女たちがバスケとどう向き合うのか、自分自身とどう向き合うのか、考える機会になるかもしれない。今のモチベーションは三久の退部をかけた練習だが、その後の目標を考えなければならない。
「そうね!じゃあ、中谷君、水曜日の練習、楽しみにしているね!」
金沢先生は、元気を取り戻したように両手でガッツポーズをして、職員室の方へ歩いていった。その無邪気な背中を見送りながら、亮多は胸の中に灯った小さな決意を確かめる。
テスト休み前の最後の練習。それは、ただの練習で終わらせてはいけない。彼女たちの心に火をつけ、二週間の間、その火が消えないようにするための最後の着火剤にしなければならない。
亮多は、体育館の鍵を握りしめ、静かに職員室へと向かった。
職員室へ向かう道すがら、亮多は頭の中で来週水曜日の練習プランを組み立てていた。単に技術を教えるだけではダメだ。テスト休みというブランクが、せっかく芽生えたチームの一体感を失わせるかもしれない。
(どうすれば、この二週間に耐えられるだけの「火」を、彼女たちの心に灯すことができるだろうか……)
これまでの練習で彼女たちが得たのは、チームとしての協調と統合だ。しかし、この先さらに成長していくためには、もう一つ別の「火」が必要だと亮多は考えていた。それは、自己成長への意欲だ。
チームのためだけでなく、自分自身のために強くなりたいという、個人的なモチベーション。それがなければ、チームが壁にぶつかったときに、再び誰かのせいにしたり、諦めたりしてしまうかもしれない。三久が退部をかけた練習は、そのきっかけとしては十分だった。しかし、その先の目標がなければ、いずれ燃え尽きてしまう。
(そうだ、最後の練習は「得点」に特化しよう)
亮多は、ただゴールに向かってシュートを打たせるのではなく、今日の練習で学んだ協調と統合を活かしながら、一人ひとりがどうすれば得点に繋がるか、ということを感じられるようなメニューを考え始めた。
(以前、シザースで自分たちより上の選手から点を取ることはできた。だが、それ以外の技も必要だ。あと一か月でそれなりの練度が保証されるものは……)
鍵を返して帰宅した。
次の日の火曜日には部活がなく、亮多は大学へ向かった。授業は二限の経済学と三限の教育心理学Ⅰのみ。朝はいつも通りに起きて、十時四十五分の授業なので、少し早く十時に着くように大学へ向かう。時間が少しあるので、学生ラウンジで時間をつぶそうと思った。
ラウンジに着くと、桜庭美緒が一人で座っていた。こちらに気が付いたのか、片手を大きく振って亮多を呼んでいる。
「おはよ!亮多君。今日は二限から?」
「おはよう。二限の経済学からだよ」
「私は体育だよ。バレーボール。正直しんどいな」
「今日は体育だけ?」
「そう!亮多君は?」
「俺は三限に教育心理学Ⅰがあるよ」
「ならお昼はこっちにいるんだね。一緒に食べよう!」
「もちろん。そういえば連絡先を交換してなかったね」
亮多はスマホを取り出し、美緒と連絡先を交換した。
「講義が終わったら連絡するよ」
「りょーかい。待ってるね!」
その後、少し話してから講義が行われる教室に向かった。
経済学の講義室は、学生たちのざわめきとノートの擦れる音で満ちていた。薄暗い教室の壇上には、白髪交じりの教授が立っている。黒縁メガネの奥の目は鋭く、その口からは澱みなく専門用語が繰り出されていく。
「さて、皆さん。経済学の基本は、『希少性』と『選択』にあります。我々の欲望は無限ですが、資源は有限です。だからこそ、私たちは常に何かを選択しなければならない。その選択をより合理的に行うための思考ツールが、経済学なのです」
教授はそう言うと、ホワイトボードにサラサラと数式を書き始めた。Y=C+I+G+(X−M)。国民所得の決定式だ。亮多は、教授の言葉と数式をノートに書き写しながら、頭の中で明日の練習に当てはめて考えていた。
(バスケの練習もそうだ。使える時間は限られている。その中で、どういうメニューを選択するか。選手の体力という資源を、どう配分して、最大の効果を生み出すか……)
亮多は講義の内容をただ聞くだけでなく、自分の置かれた状況と結びつけて理解しようとしていた。
「この式に出てくる『C』は消費支出、『I』は投資支出、そして『G』は政府支出。これらが国の経済規模を決定する主要な要素です。では、皆さんに質問です」
教授の声が響き、講義室の空気が張り詰めた。亮多はペンを握りしめ、次の言葉を待った。
(チームの『生産性』を上げるには、どうすればいいんだろうか。メンバーのスキルを伸ばす『投資』)
亮多の思考は、経済学の理論から、バスケ部の未来へと深く繋がっていた。
彼の頭の中では、国民所得の決定式が、鶴賀中バスケ部の課題へと置き換わっていく。
チームの総合力(Y)は、バスケットボールの試合で勝つための力の総和だ。これを最大化するには、どうすればいいか……。
亮多はノートの余白に、自分なりの方程式を書き始めた。
まず、『C』はメンバー個々の基礎体力だ。練習で消費されるエネルギーであり、チームを動かす土台となる。これがなければ、どんな戦術も意味をなさない。だから、彼女たちの体力を底上げする必要がある。
次に、『I』は指導者の指導やスキル練習だ。これは、将来の成長のための「投資」に他ならない。亮多が考案する新しい練習メニュー、選手たちが技術習得にかける努力がこれにあたる。得点力を上げるための練習は、まさにこの「投資」を最大化しようとする試みだ。
さらに、『G』は顧問や保護者のサポートだ。体育館の使用許可、備品の購入、練習試合の手配など、チームを支える外部からの支援。金沢先生や保護者の協力が、チームを成り立たせる重要な要素だ。
そして、式の中で少し複雑なのが、『(X-M)』だ。
『X』はチーム外との交流、つまり練習試合や他校との合同練習だ。外の世界で自分たちの力を試すことで、成長の機会を得られる。だが、『M』は外部から持ち込まれるプレッシャーや課題だ。たとえば、三久の部活退部がこれにあたる。これらはチームを揺るがすかもしれないが、乗り越えることでチームはさらに強くなれる。
亮多は、自身の思考が経済学の理論と深く結びついていることに気づき、興奮を覚えていた。目の前の数字や記号が、鶴賀中バスケ部のメンバーたちの顔や、練習風景に重なって見えてくる。
(そうだ。この方程式を最大化できれば、彼女たちはきっと勝てる)
教授が次の話に進む中、亮多はノートに書きつけた方程式をじっと見つめていた。彼の頭の中には、もう来たる水曜日の練習風景が、鮮明に描かれていた。
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