2ピリオド ~準備⑤~

 夕暮れの体育館は、静かだった。


 照明はまだ落ちたまま。外の空の色が、ゆっくりと藍色へと変わっていく。


 センターサークルに立ち、亮多はポケットからスマホを取り出す。


 その画面には、朝届いたばかりのメッセージがまだ開かれたままになっていた。


《夜練、許可します。安全面には十分気をつけてくださいね ― 金沢》


(……まさか、今日の朝に来るとは)


 日曜日までに返事があるかどうかすら怪しかった。


 金沢先生は、新任の教師だ。

 顧問とはいえ、バスケの経験もないし、どう進めればいいかもまだ模索中なのは見ていて分かる。


 それでも――返事をくれた。


 ちゃんと考えた上で「いいですよ」と言ってくれた。


(先生自身、不安だろうな。それでも任せてくれた)


 だから、やるしかない。


 これは、自分の責任で始める練習だ。


 あの子たちは、ずっと試合をしていない。


 一年前、彼女たちは選択をした。


 やる気のない部員とぶつかり、残ったのは4人だけ。


 彼女たちは間違ってはいなかったかもしれない。けれど、代わりに戦うことからも遠ざかった。


(その空白を、ここで埋める)


 バスケはチームスポーツだ。

 一人じゃ守れないし、一人じゃ勝てない。


 でも、負けるときは、一人の責任にされがちだ。


 だからこそ、全員が背負うための準備が必要だ。


 その始まりが、今夜。


 気配に気づく。扉の外から、小さな足音が近づいてくる。


 亮多はスマホの画面を伏せ、照明のスイッチに手をかけた。


(金沢先生、任せてもらった分、俺がちゃんとやります)


 カチリ。


 音とともに、体育館に光が灯る。


 体育館の照明が灯ると同時に、四人のシルエットが扉の向こうから差し込んできた。


 誰からともなく「こんばんは」と声が上がり、軽く頭を下げる。


 亮多も頷き返す。


 それきり、特に言葉を交わすでもなく、三久たちはいつものようにアップを始めた。


 誰も浮かれてもいなければ、気負いすぎてもいない。ただ、緊張の芯のようなものが全員に漂っていた。


 その空気を受け止めながら、亮多は少しだけ息を吐く。


 そして、体育館の裏口のほうで開く音がした。


「おお、始まってるな。間に合ってよかった」


 入ってきたのは、ラフなジャージ姿の中年男性でスポーツバッグを担いでいる。


「こんばんは。遅くまでありがとうございます」


「いやいや。こっちこそ来てくれてありがとな」


 安達さんは亮多の中学時代の同級生の父親で、日曜夜にこの体育館でバスケをしている。

 運動不足解消とはいえ、現役高校生や地元のミニバスの子も加わり、意外と濃いメンバーが集まる。


 ミニバスといっても、三久たちが育ったクラブとは無関係らしい。


 安達さんは、アップを始めた少女たちに視線を移しながら、笑った。


「なんか、しっかりしてるな。お前が教えてんのか?」


「まあ、まだ教えるってほどじゃないですけど」


「それにしては、ずいぶん整ってる。なんか、いいな……こういう雰囲気」


「そうですね。まだ4人ですけど、みんなバスケに真剣です」


 亮多はふと、少しだけ声のトーンを落とした。


「――本当は、もう一人必要なんですけどね。試合には出られない」


「5人、か。そりゃそうだよな。でも、なんでこんな人数に?」


 一瞬迷ったが、亮多は正直に答えた。


「1年のとき、やる気のない部員を全員、自分たちで追い出したらしいです。それからずっと試合もしてない」


「……はあ。今どきの子にしては、随分と骨があるというか……」


 安達さんは目を細めて、それでいてどこか切なそうに呟いた。


 亮多は、その横顔を見ながら、以前から気になっていたことを口にした。


「ところで……安達さん。鶴賀中の男子バスケ部って、今どうなってるか知ってますか?」


「ん? ああ――」


 安達さんの答えは、あっさりしていた。


「いないよ、部員。0人。もう実質、廃部みたいなもんだ」


 亮多は、すぐには何も言えなかった。


 静かに、かすかに眉を寄せて、コートを見つめる。


(……そうか)

 目の前の体育館に立っていながら、遠く離れた思い出のコートに気持ちが引き戻されるような感覚があった。


 自分が3年間通った部室。

 毎日練習したリング。

 チームメイトと笑い合った、あの帰り道。


 そのすべてが、今はもう誰も使っていない。


 何かが胸の奥に沈んでいくような、微かな重さ。


 でも――


(そうか。残念だったな)


 亮多は視線を上げた。


 アップをする三久たちの動きに、目を向ける。


 軽やかに足をさばくかずみ、真剣な顔でストレッチをこなす二乃。


 そして、わずかに視線を泳がせながらも、一歩一歩確かめるように身体を動かす五月。


 それを引っ張るように、三久が先頭で黙々と動き続けていた。


(……この子たちの今に集中しよう)


 すでに失われたものよりも、いま目の前にあるものを。


「――じゃ、そろそろ始めます。ありがとうございます、安達さん」


「おう。早速始めようか」


 安達さんは手を挙げて、体育館の真中へ。


 夜練――挫折の時間が、静かに始まろうとしていた。


 体育館にバッシュの音が響く。


 円陣のように自然と集まったのは、亮多と、今夜の対戦相手たち。


 安達さん――175センチのがっしりとした体格。大人の余裕が滲み出ている。

 高校生ふたり――180センチのセンタータイプと、もう一人はスピードのあるガード。

 ミニバスの少年――背は低いが、どんな武器を持っているのか未知数だ。


「じゃあ、さっそくやってみましょうか」


 亮多の声に、安達さんがにやりと笑う。


「俺も、ちょっと身体を動かしたかったところだしな」


 ボールを手にした安達さんが軽くドリブル。音が床に弾んだ。


 相手は明らかに格上だ。体格も、経験も、連携も。

 特に高校生二人は現役選手で、試合勘の差は歴然。


 しかし、これは勝ち負けの練習じゃない。

 「試合」という場で、彼女たちが何を感じ、どこで迷い、どう動くか。


 それが、この夜練の目的だ。


 試合形式の練習のため、ジャンプボールもなし。

 安達さんチームがそのまま攻撃権を持ち、試合が始まる。


 時間は8分で中学生の試合の1ピリオド分だ。


 スタートはトップから。ミニバスの子がボールを持ち、かずみが正面で構える。

 亮多の合図と同時に、ドリブルをつく。マッチアップはかずみだが、

 身長の差があまりなく、ディフェンスの負けはドライブで抜かれることだ。


「抜かせない」


 かずみが小さく呟いた。


 左のドライブがフェイントで右にクロスオーバーをして抜こうとするミニバスの子。

 動きを読み、先回りをするかずみ。抜けないと分かったのか、すぐにパスをするミニバスの子。

 スピード型の高校生が、右45度でボールを受けるやいなや、一気に加速する。


「は、早い⁉」


 二乃の身体が、ワンテンポ遅れて反応した。

 そのままペイントエリアに侵入され、フリースローラインでジャンプシュート。


「カバー入って!」


 声が遅れた。

 シュートはネットを揺らし、0対2。


 二乃は唇を噛み、ほんの少しだけ足元を見た。


(動き出しが遅かった……あれじゃ止められない)


 二乃の言葉が届かず、ボールはリングに吸いこまれた。


「切り替えて。速攻を決めるよ」


 ゴール下にいた五月がボールを拾い、三久にボールを渡した。


「三久ちゃん、前にかずみちゃんがいる!」


「了解!」


 トップにいたかずみが前を走っていた。そこを三久は見逃さなかった。


「かずみ!」


 三久の手から放たれたパスは、一直線にかずみへ


 だが、トップの手前にいた高校生ガードが、その軌道を読む。


「っ……!」


 速攻に転じた相手チームは、あっという間にレイアップまで持ち込む。


 0対4。


「ごめん……」


 かずみが小さく呟くが、三久はその言葉に反応しなかった。


 一瞬だけ視線が揺れる。


(走り出すのが早すぎた?)


(……いや、パスのタイミングが)


 正解は、誰にも分からなかった。


「くっ……」


 パスの軌道、かずみの走り出し、ガードの読み。すべてが一瞬の出来事だった。


(もっと試合を知らなきゃ……)


 三久は、その言葉を喉の奥で飲み込んだ。


 唇を噛む三久。その目には、静かな苛立ちが浮かんでいた。


 亮多は審判の位置から、彼女たちの様子を見つめていた。


(三久たちは個人のスキルはある。でも、試合の勘が明らかに足りていない)


 試合は止まらない。


 かずみが鋭くステップを踏み、ディフェンスを揺さぶりながらトップまで進む。


 だが――その先に構えるのは、高校生ふたりと安達さん。


高さと経験の壁。


「かずみ!こっち!」


 二乃が左ウイングから呼ぶ。


 パスが渡ると同時に、彼女は構えた。だが――


 対応するのは、先ほど抜かれたスピード型の高校生。


 圧力が強い。打てない。


(どうする……?)


 ボールを保持したまま、視線だけが揺れる。


「誰に……かずみ? でも……」


 その迷い。ほんのコンマ数秒。


 ドリブルが弾かれた。


 ボールは相手チームへ。


 安達さんとミニバスの子が速攻で走り出す。


 かずみが戻る途中、安達さんがパスのフェイクを入れた。

 かずみの目線が一瞬逸れた、その瞬間だった。

 スリーポイントラインから放たれたシュートが、リングを射抜く。


 やけに大きな音が、体育館に響いた。


 0対7。


 三久は黙ったまま、拳を握る。


 その表情には、何かが崩れ始めているような影があった。


「……まだ1分も経ってない」


 けれど、誰の口からも、そんな言葉は出なかった。

 口にすれば、本当に何かが壊れてしまいそうで。


 そのまま、沈黙だけがコートを支配していた。


 残り時間7分。




 ≪用語集≫


 ミート:パスを貰うとき自分からボールに向かって次のプレーをしやすくするので、バスケプレイヤーなら必須スキルである。


 ウイング:45度位置のこと→今後ウイングで統一する

 

 

 

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