1ピリオド ~決意の先に④~

 玄関の鍵を回すと、ほのかに木の香りがする空気がふわりと広がった。

 父が手を入れてきた、年季の入ったけれど清潔な一軒家。


「……ただいま」


 返事はない。母は、たぶんパートか買い物だろう。


 スニーカーを脱ぎ、廊下を進む。日が差し込むリビングで、畳の隣のソファに倒れ込む。

 天井の木目を見つめながら、亮多は考える。


 三久──あいつは、一体何に追われているのだろう。

 真っ直ぐな目で、うまくなりたい、勝ちたいという純粋な気持ちもある。

 けれど時折見せる焦燥の色は、まるで時間がないかのように脳裏に焼きついていた。


「……わかんねぇな」


 呟きがリビングで漏らしたそのとき──


「ただいま〜! って、あら。亮多、もう帰ってたの?」


 玄関から明るい声が響く。


「うん、昼までだったから」


 キッチンに入ってきたのは母・都。三十九歳には見えない若々しさ。

 髪をひとつに結び、白いシャツにベージュのカーディガン、動きやすそうなジーンズ姿。

 スーパーの袋を提げたまま、にこっと笑う。


「へぇ、珍しいじゃないの。今日、学童が早番だったからね、ちょっと寄り道してきたのよ」


「お疲れ」


 都はキッチンに向かいながら、ちらりと亮多を見て目を細める。


「それにしても、『わかんねぇな』って……何? 女の子?」


「違うよ」


「ふふ、そういうときはだいたい女の子よね」


 冷蔵庫を開けて野菜をしまいながら、さっぱりと笑う。


「亮多がそんな顔してるの、中学のバスケ部で揉めてたとき以来かしらね。言っとくけど、男の子って意外と顔に出るんだから」


 亮多は照れ隠しに、ソファへ深く沈み込んだ。


「……母さんって、今も学童でそんな感じなの?」


「うん、めちゃくちゃ元気な子たち相手よ。こっちも若くいないとやってられないの。でもまだ若く見えるって言われるから、勝ったなって思ってる」


「はいはい」


「ほら、そうやって茶化すところ、ほんと似てきたわね。……誰に似たのかしら?」


 そんな他愛ない会話が、家中に心地よく響いた。


 ***


 翌日。

 チャイムが鳴ると学生たちはざわめきながら荷物をまとめ、次々と教室を出ていく。

 その中で亮多は、誰に話しかけることもなく静かにノートを閉じた。


 大学に入り、もうすぐ三ヶ月。

 クラスメイトの顔は覚えた。けれど、名前はまだ曖昧なまま。

 授業で目が合っても、頷くわけでもない。

 ただ「ここにいていい理由」を探すように、毎回席に座っている。


 部活まで時間がある。亮多は迷わず図書館へ向かった。


 静まり返った図書館は、まるで水の底のような静けさだった。

 読みかけの社会学の本を広げるが、今日はどうにも内容が頭に入らない。


 ──焦ってる子って、見てて苦しいわよ。


 昨夜の母の言葉がふとよぎり、ページをめくる指が止まる。


 「焦ってる子」──羽沢三久が思い浮かぶ。

 プレーは正確で、リーダーらしい自信もある。

 でもどこか必死すぎる。

 まるで、何かに追われているような……。


 その理由は分からない。

 分からないけれど、母の「見てて苦しい」という言葉には妙に納得があった。


 ──自分で決めたことだったから、続けた。


 かつての自分。

 だが今、誰かが「決めたい」と願って走っているなら──

 自分に、何ができるのか。


 答えは出ない。

 けれど、本の文字が霞む理由は、たぶんそれだった。


 ──何ができるんだろうな、俺に。


 小さく息を吐き、亮多は本を閉じる。

 窓の外には、西日が差し始めていた。


 ***


 体育館の鍵を返した帰り、職員室の前で金沢先生に呼び止められた。


「おーい、中谷くん。ちょっと時間ある?」


「……はい」


 事務室脇の小さなスペースに案内され、麦茶を手渡される。


「練習、よく見てるよ。あの子たち、ほんとよく走る。……でも、三久さんのこと気になってるよね?」


 亮多は短く黙って、静かにうなずく。


「でも無理に聞いたって、話すもんじゃないでしょ。今はまだ、そのときじゃないと思ってます」


「うん、それでいいと思うよ。……ただね、もう気づいてるかもしれないけど」


 金沢先生は麦茶をひとくち飲み、亮多の目を確かめるように言った。


「焦ってるのは、三久さんだけじゃない。

 あの子たち全員が──勝ちにこだわってるのよ」


 亮多は思わず先生を見る。


「ただバスケを楽しむだけじゃない。

 勝ちたいって気持ちが、ちゃんとある。

 理由はそれぞれだけどね」


 クラブチームを勧められている子。

 部活でしか賭けられない子。

 誰かに追いつきたくて走っている子。


「……」


「でもね、中学生ってそういう本気を隠すのが下手。

 負けたくないとか、上手くなりたいとか──そういう気持ちほど隠したがるの」


 先生はふっと息を吐く。


「私から三久さんのことを話すのは、やっぱり違うと思う。

 でも、中谷くんがそばにいるのは大きいよ。

 勝ちたいって気持ちに寄り添える大人って、なかなかいないから」


 亮多は黙ったまま、しかし力強くうなずいた。


「……ありがとうございます」


 金沢先生は満足そうに笑った。


「だったら、あの子たちと向き合えるよ。きっとね」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る