1ピリオド ~決意の先に③~
金曜日の放課後。体育館の床に、ボールの弾む音が乾いたリズムで響く。
「今日もハーフコートでの名前呼びパスを続ける。ただし今回は──ボールを持った人間が名前を呼ぶ。呼んだ相手にしかパスしちゃダメだ」
亮多の声が、練習開始の合図のように体育館へ広がる。
水曜日は亮多が名前を呼んで動かせていた。しかし今日は違う。
ボールを持つ本人が、誰に、いつ、どうパスを出すべきか判断しなければならない。
パス。
名前。
キャッチ。
ただそれだけの練習──だが、その核心は「呼ぶこと」「相手を見ること」にあった。
「……かずみ」
「ん」
「……二乃」
「うん」
「……五月」
「はい」
小さな声が飛ぶたび、ぎこちなくボールが動き、また別の誰かが受け取る。
順番こそ回っていくものの、流れはまだ滑らかとは言えない。
ボールは確かにつながっていくのに、彼女たち自身は、まだ互いの気配をつかみきれていない。
必要最低限のボールの音だけが、体育館の空気にぽつりと落ちていく。
声も、パスも、タイミングも、すべてが探り合い。
最適な距離も、力加減も、そして──まだ見えないこのチームの中心も。
「さつき!」
「かずみちゃん!」
少しずつ声が増え、パスが通るたび、小さな達成感が生まれる。
だが、名前を呼んでも反応がない瞬間には、その流れが音を立てて止まってしまう。
簡単に見えて、実際には頭をフル回転させる練習だった。
「今の、ちょっと早かったかも」
「ごめん、気づかなかった」
そんなやり取りを重ねながら、少しずつ、ボールの循環が形を持ち始める。
終える頃には、全員が額に汗を浮かべていた。
表情には、確かな充実感があった。
──ただひとり、三久だけを除いて。
彼女はボールを足元に置いたまま、じっと何かを噛みしめるように見つめていた。
***
土曜日の午前。気温が上がる前にと、四人は早めに体育館へ集まった。
「今日はドリブルしながらのパスだ。それとオールコート。8秒ルールを意識して動け」
亮多の指示に、四人が短く頷く。
「8秒ルールって、後ろでのんびりしてるとダメってやつ?」
五月が問い、亮多が返す。
「そう。バックコートからフロントコートへ8秒以内に運ばないと相手ボールになる。だから常に前な」
「前に持ってくの、ゆっくりだと間に合わなくなっちゃうから……気をつけよ?」
かずみがふわっとした口調で補足する。
その後の練習は、ハーフコートとはまったく違う風景になった。
ドリブルで前へ運び、名前を呼び、反応を引き出してパスを出す。
広いコートを使うため、判断もスピードも格段に要求される。
「楽しいよ、これ……しんどいけど」
五月が苦笑しながらも息を弾ませた。
「動きながら考えるの、難しい……」
かずみもへろへろになりながら笑った。
二乃は、コートを駆けながらずっと胸の奥の違和感に引っかかっていた。
(何かが……前と違う。何だろう?)
言葉にできるほど明瞭ではないが、確かな違和感。それが思考を鈍らせる。
そして三久は――。
水曜から続く焦りが、今日も消えていなかった。
どこか、時間に追われているような表情で。
***
昼下がり。
駅前の商店街を歩いていた亮多のスマートフォンが震えた。
見知らぬ番号。
少し警戒しながら出る。
「もしもし、中谷亮多くん? 葵です。校長の」
受話器越しに、軽やかでどこか楽しげな声が響いた。
「えっと……はい。どうして僕の番号を?」
「松田さんから聞いちゃった。急だけど、今時間ある? 少しだけお昼でもどうかなって」
「……大丈夫です」
「よかった。じゃあ駅前のカフェ・レミね。外の席にいるから」
言われるまま向かうと、グレーのワンピースにカーディガンを羽織った葵が手を振っていた。
「こっちこっち」
制服の校長とはまた違う雰囲気に、少し気圧される。
「急にどうしたんですか?」
「日曜の大学生って、暇そうだったから誘っただけよ」
軽く注文を済ませると、葵は紙ナプキンを指でくるくる巻きながら本題へ入った。
「部活、どう? 大変そう?」
「……まだ手探りです。でも、水曜からは名前を呼んでパスを出す練習を始めました」
「へえ、いい練習ね。それで、みんなのやる気は?」
「思った以上にあります。……ただ、なんであんなに強さを求めているのかは、まだ分からなくて」
亮多は四人の顔――五月、二乃、かずみ、三久を思い浮かべる。
それぞれが真剣で、強さを望んでいる。だが、理由は見えない。
葵が小さく眉を寄せる。
「うーん、それは私にも分からないわね。……でも、金沢先生なら何か知ってるかも」
「担任の先生、ですよね」
「ええ。あの子たちの普段の様子を聞く機会があったみたい。目立つタイプじゃないけど、みんな真面目でひたむき。だけどね──」
葵は少し間を置いて続けた。
「どこか、何かに追われているみたいだって」
亮多の手が止まる。
「……追われてる、ですか」
「うん。でも、それが何なのかまでは分からない。プレッシャーなのか、家庭のことか、自分の中の問題か……」
葵は紅茶を口に運びながら、
「でもね、普段は仲がいいらしいわよ。担任の先生が言ってた。よく一緒にいて、笑い合ってるって」
「……意外ですね」
亮多は思わずつぶやいた。
コートの中では互いを牽制し合い、ときに刺々しく見えるのに。
「バスケのときと……まったく違う」
金曜・土曜の練習を思い出す。
名前を呼ぶ声に迷いがあり、ためらいがあり、競り合うような空気が確かにあった。
「ねえ、亮多くん」
「はい」
「そのギャップを埋めていくのが──あなたの役目なんじゃない?」
柔らかい笑みの奥に、ほのかな期待が宿っていた。
亮多はテーブルの水に視線を落とす。
追われている――
その言葉が、なぜか真っ先に羽沢三久の姿へ重なった。
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