刺激の多すぎる世の中

島尾

依存的状態

 私は最近YouTubeを見ることを禁止した。また、Amazon primeを解約した。


 YouTubeに溢れる情報は有益なものや興味深いもの、エンターテイメント性あふれるもの、または日常の些細なシーンを収めたものなど、一言で言えば、面白い。私は8年くらいYouTubeを見続けてきた。特にここ3年は毎日毎日見てきた。とてと面白い。サムネイルも刺激的。人生を豊かにしてくれる。知らない人の日常を垣間見られる。また、コメント欄やライブのチャットに書き込むことでコミュニケーションも取れる。それをやめたのだ。結果、私は禁断症状に苛まれている。YouTubeを見ない日々は、私の中の何かがごっそり抜き取られた感覚である。毎日イライラする。手元から何もなくなったわけではないが、手元に何も残っていないという病的な虚しさを覚える。YouTubeというのは私に言わせれば、現実ではない何かであって、過剰に視聴することは薬物やギャンブルに匹敵する依存性を有する毒である。しかも過剰に見ることができるように設計されている。


 Amazonで買い物をすることはさほど多くない私である。1ヶ月に一個も買わない場合も割とある。なのに毎月500円を払ってきた。Amazonプライムビデオは、今はほぼ見ていない。かつては毎日のように利用していたが、いつしかYouTubeにシフトしていった。すなわち、私は無駄金を超富裕層に対して毎月献金していたのだ。これほど愚かなことはない。そもそも、実店舗で見かけない珍品をいとも簡単に買えることが変ではないか? 確かに便利この上ない。しかし運搬過程はどうなっているのか? また、モノを簡単に買えば買うほど、近所の街並みが活気を失ってはいないだろうか。なぜモノがネット上に存在するのかということも考えるべきかと思う。自分ごとだが、この一月に木曽漆器を木曽平沢に赴いて購入した。そのときに塗師のおっちゃんと話をしたことを、かなり覚えている。一年前に鳴子温泉で鳴子漆器を買った際、漆器産業の現状を聞いて悲しくなった。何が言いたいかというと、売り手と買い手の間に金銭以外のつながりを持つことが、モノを家で見直したときに思い出や調査や思考の源泉になり得るということである。これはAmazonで買い物をするより遥かに有機的で奥行きのある行いではないだろうか。今までの無駄金500円をかき集めたら、間違いなく輪島塗のお盆1個は買える。


 刺激の多すぎる世の中だと思う。カクヨムも例外ではない。ホーム画面のやかましさ、タイトルの過激さ、中身の薄さ、等。これは自分にも当てはまっている。強い刺激を浴び続けること、強い刺激を不特定多数に当て続けること。その先に、いったいどんな人間たちが存在しているのだろうか。また、どんな自分が形成されるのだろうか。

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刺激の多すぎる世の中 島尾 @shimaoshimao

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