Ⅰ
天使、御使い、夜空の女神、月下美人。
どれも『白銀の聖女』アナスタシア殿下の美しさを讃える際によく用いられる言葉だ。
だがアナスタシアと私的な交流があるレティシアは、世間とは少々違う印象をアナスタシアに抱いている。
レティシアに言わせれば、アナスタシアに一番ピッタリな呼称は『月ウサギ』だ。
「ごめんなさいっ、レティシア
現に今、アナスタシアはレティシアにピッタリ寄り添って座りながら、満月のような瞳をウルウルと
「あんな風に、悪い意味でレティシア義姉様を衆目にさらすなんて! わたくしの力不足ですっ!」
「そ、そんな、アナスタシア様……」
王宮奥深くにある、アナスタシアの私室だった。
舞踏会の会場であった大広間をアナスタシアのエスコートで辞したレティシアは、気付けばアナスタシアの私室に通されていた。ハッと我に返った時にはソファーに腰を下ろしていて、隣にはアナスタシアがピッタリと寄り添っている。
そんなアナスタシアがレティシアの両手を取ったかと思った瞬間、この展開だった。
「アナスタシア様は、わたくしをあんなに素敵に助けてくださったではないですか」
そっと眉尻を下げたレティシアは、己の手を取るアナスタシアの手をキュッと握り返しながら柔らかく告げる。だがそんなレティシアに、アナスタシアはイヤイヤをするかのように首を横へ振った。
「たとえ後から助けることができても、レティシア義姉様の心に傷を負わせるような真似をしていては意味がありません。傷付くような目に遭わないのが、一番良いに決まっているのですから」
「アナスタシア様……」
アナスタシアが心の底から己の失態を悔いているのだと察したレティシアは、かける言葉を失ったままアナスタシアを見つめる。
──アナスタシア様は、そこまでわたくしのことを気遣ってくれていたですね。
アナスタシアは、国を挙げての式典行事の時くらいしか表に出てこない。
今日、あの場にあのタイミングで姿を現したのは、アナスタシアがアルバートの言動に以前から警戒を強め、あの場を監視していたからだろう。そうでなければアナスタシアはあんな騒ぎがあったことさえ知ることはなかったはずだ。
その『警戒』が全て陰ながらレティシアを守るためのものであったならば、きっとアナスタシアは今までもずっと人知れずレティシアの心と名誉を守ってきてくれたのだろう。
何となく、そう思った。
──ならば、わたくしがアナスタシア様に返せることは。
「アナスタシア様。アナスタシア様は、いつからアルバート様の思惑に気付いておられたのですか?」
アナスタシアと繋がった手はそのままに、レティシアは努めて冷静に問いを発した。
そんなレティシアの声を疑問に思ったのだろう。アナスタシアはソロリと顔を上げ、次いでハッと目を
「教えてください、アナスタシア様」
アナスタシアの瞳に映り込んだレティシアは、真剣で冷静な顔をしていた。とてもじゃないがつい先程、一方的な婚約破棄を突きつけられた者がする表情ではない。
──きっと殿下は、わたくしのこんな部分も『可愛げがない』と思っていらしたのでしょうね。
そんなことを一瞬だけ頭の片隅で考えてから、レティシアは自分からアナスタシアの手を取る形に手を繋ぎ直す。
「わたくしのために、アナスタシア様は王宮の
アナスタシアの満月のような瞳を真っ直ぐに見つめて、レティシアは静かな口調のまま、一言ずつを大切に声に載せた。
「アナスタシア様。わたくしにどれだけ不都合な事実であっても、知らなければ動くことはできません。アナスタシア様がわたくしを案じてくださるように、わたくしもアナスタシア様を大切にしたいのです」
ほぅ、とレティシアに見入っていたアナスタシアは、レティシアの言葉に染め上げられたかのようにジワリと頬を赤く染めた。色素が薄いアナスタシアの顔に血の気が
だがその美しい薄紅は、すぐにアナスタシア本来の月白の中に沈む。
「……実は、随分前から、お兄様の周囲にはきな臭い動きが見受けられました」
レティシアの手にすがるようにキュッと力を込めながら、アナスタシアは視線を伏せた。
「お兄様とレティシア義姉様の婚約が政略的なものであり、お兄様からレティシア義姉様への情はこれっぽっちもない。むしろ
「存じております」
「お兄様はレティシア義姉様との婚約破棄のために暗躍しておりました。しかしレティシア義姉様はバートネット公爵令嬢。家格から言っても、年齢的な部分から言っても、もっとも王太子妃にふさわしい方はレティシア義姉様です。陛下が婚約破棄を許すはずもなく、お兄様の暗躍は馬鹿の一人踊りで終わるはずでした」
──しかし、それができてしまった。
やはり国王不在の瞬間を狙ったとしても、アルバート一人では婚約破棄を宣言することはできなかった、ということだ。
つまりこの婚約破棄の裏には、この国の勢力図をひっくり返そうとしている者達の思惑が絡みついている。
「アナスタシア様。アルバート様に力添えをした者達にも、目星はついているのですか?」
「ある程度は」
短く答えたアナスタシアは、ゆっくりと顔を上げた。再びレティシアを見上げた顔には、国王を
「詳しい話は、明日、バートネット公爵……レティシア義姉様のお父様もお呼びしてお話ししましょう」
「お父様」
アナスタシアの言葉に、レティシアはハッと我に返った。
先程の場には、レティシアの両親も来ていた。しかしあんなことになったというのに、レティシアは
きっと両親はレティシアのことを案じているだろう。……そしてそれ以上に、王宮の権謀術数の中を生きる者として、今後の対応のために動き出しているに違いない。
「バートネット公爵ご夫妻には、わたくしの配下に
今更そのことに気付いたレティシアは、無意識のうちに体を強張らせる。そんなレティシアをなだめるかのように、アナスタシアは繋がったままの手に力を込めた。
「詳しい話は明日、わたくしの部屋で話し合いたいという旨も合わせてお伝えしてあります。時間帯などの打ち合わせも、配下が抜かりなくしてきたはずです」
「わたくしは今からでも」
「まずは心と体を休めることが先決です」
こういう話は先手必勝だ。事が起きたのにのんびりしてはいられない。ましてやレティシアは事を起こした張本人だ。今この瞬間も周囲は対策に飛び回っているだろうに、当事者であるレティシアがのんびりしてはいられない。
その心境のまま声を上げたレティシアに、アナスタシアは柔らかく、だが有無を言わせず否を突き付けた。
「レティシア義姉様。レティシア義姉様はご自覚なさっておられないかもしれませんが、レティシア義姉様はあんなに大変な場に、何の心構えもなく立たされてしまったのです。心も体も、疲れていないはずがありません」
わたくしには分かります、と続けるアナスタシアは真剣そのものだった。その確信はレティシアと繋がったままの手の温度や強張りで分かるものなのかもしれないし、あるいはアナスタシアの経験を踏まえての推測だったのかもしれない。
──アナスタシア様……
今、アナスタシア以外にこんなことを言われたら、きっとレティシアは『勝手に決めつけないでください』と反発心を露わにしたことだろう。
『自分はそんなに弱くない』『これしきのことで傷付くような教育は受けていない』と、公爵令嬢として、そしてつい先程まで王太子の婚約者であった者として、矜持ひとつで全てを跳ね除け、父の元に馳せ参じようとしたはずだ。
そんな振る舞いをアナスタシアに対してできないのは、レティシアを一心に見上げるアナスタシアが、心の底から、泣き出しそうなくらいにレティシアを案じていると分かったからだ。
「わたくしは、何よりもレティシア義姉様の御身を案じております。どうかわたくしに免じて、今宵はもうお休みください」
ギュッとレティシアの手を握ったまま、アナスタシアは真っ直ぐにレティシアを見つめ続ける。そんなアナスタシアの眼差しは、レティシアからの返事を求めていた。
──お命じになられれば、わたくしから否は言えないというのに。
アナスタシアは、聖女だ。聖女が命じれば、国王だってそうおいそれと拒否はできない。アナスタシアが命令として言葉を発すれば、レティシアが何を思っていようがアナスタシアの意志が通る。
だがアナスタシアは、その強権をレティシアに対して行使しようとはこれっぽっちも思っていないようだった。これだけ懇願していながら、きっとアナスタシアはレティシアが強行に否を唱えれば、この手を離してレティシアを自由にしてくれる。
そんな『気遣い』という言葉で
「……分かりました」
レティシアはそっと微笑むと、小さく頷いた。
「今宵は、お世話になります」
そんなレティシアの言葉に、アナスタシアはパッと顔を輝かせた。
だが何事かに気付いたアナスタシアは、すぐに顔を曇らせるとぎこちなく視線を逸らす。
「アナスタシア様?」
「えっと……今宵、限りでは、なく……」
「はい?」
「……っ、いえ! この話も、明日、バートネット公爵がいらっしゃってからにしましょう!」
モゴモゴと急に歯切れが悪くなったアナスタシアに首を傾げると、アナスタシアはガバッといきなり立ち上がった。レティシアから手を離したアナスタシアがテーブルの端に置かれていた銀鈴を鳴らすと、数拍間を置いてから部屋の扉が開かれる。
扉の向こうから現れたのは、二人の侍女だった。間に鏡を置いたかのようにそっくりな二人は、まるで片方が本当に鏡像であるかのようにピタリと揃った動きで頭を下げる。
「レティシア義姉様も、何度か顔を見たことがありますよね?」
「ええ」
アナスタシアには何人か侍女がついているが、この双子はアナスタシアが幼い頃から傍に付き従っている腹心だ。レティシアがアナスタシアと面会している時も度々傍にいたから、レティシアも顔は知っている。
「メイベルと申します、レティシア様」
「マリンダと申します、レティシア様」
静かに顔を上げた双子は、無表情のままそれぞれ名乗ると今度は優雅に膝を折った。スカートの裾を摘み、深々と膝を折る一礼は淑女が取るものでありながら、レティシアに頭を下げる二人は騎士のような雰囲気を纏っている。
「本日より、レティシア様にもお仕えさせていただきます。どうぞよろしくお願い申し上げます」
ピタリと声を揃える双子の圧に、レティシアは思わずたじろぐ。そんなレティシアの様子に『ふふっ』と笑みこぼれたアナスタシアは、そっとレティシアの肩に手を置いた。
「あの二人は、何があってもわたくし達の味方です。どうぞ信用なさって?」
「え、ええ」
信用できることは、すでに知っている。
レティシアとアナスタシアがお茶会をしている時も傍らに控えていた彼女達は、いつ何時も人形のような無表情を崩さないし口を開くことも稀だった。だが何気ない仕草のひとつひとつにまで
ただ。
──こんな風に口を開いたことはなかったから、少し驚いてしまったわ。
これは慣れるまでに少し時間がかかりそうだ。
「レティシア様、お風呂の準備ができております」
「お疲れでしょう。ゆっくりと体を温めて、緊張を解きほぐしてくださいませ」
『こちらへどうぞ』と二人は揃ってレティシアを招く。
そんな二人の仕草を見たアナスタシアは、先に立ち上がるとレティシアの手を引いた。
「行ってらっしゃいませ、レティシア義姉様」
アナスタシアの手に引かれるがままに立ち上がったレティシアは、この部屋へ案内された時のようにごくごく自然にアナスタシアにエスコートされていた。ハッと気付いた時には、すでに双子侍女の目の前まで歩を進めている。
「どうか今だけは、全てを忘れてゆるりとお過ごしになって」
慌ててアナスタシアを見遣れば、アナスタシアはレティシアへ柔らかく微笑みかけていた。
その笑みに、またホッと肩から力が抜ける。
この笑みを前にすると、何かを考えるよりも先に『もう大丈夫なんだ』と、体が緊張の鎧を脱ぎ捨ててしまうから不思議だった。
「ありがとうございます、アナスタシア様」
その不思議な安堵と、感謝の気持ちを控えめな笑みに載せて、レティシアは精一杯の謝意を述べる。
そんなレティシアにアナスタシアが嬉しそうに笑み返してくれたのを確かめてから、レティシアは双子侍女の先導に従ってアナスタシアの私室を後にしたのだった。
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