第38話 二人で
「大和…」
「──ん?」
岳の腕の中、すっかり力の抜けた身体を、ゴロリと反転させ上向く。
家に帰って来たその日の夜。久しぶりに岳の熱を身体で受け止めた。こうしていられる事が嬉しくて、幸せで。
それまで覆い被さっていた岳の重みがそれに伴って去って、代わりに抱きしめられる。
「真琴から、聞いた…」
ん?
「…なにを?」
すると、岳は俺の顎を捉え顔を覗き込んで来る。
んん? ちょっと、──いや。かなりマジな目だ。
それまでの熱に浮かされた眼差しではなく、明らかに以前、若頭時代の岳を思わせる目。
「あいつに…壱輝に、抱きつかれて、キスされたって」
あー、あーあー。それな。あったあった。……。
「か、隠そうと思って、黙ってた訳じゃないぞ…?」
恐る恐るそう口にした。何やかんやですっかり忘れていたのだ。俺にとって、それは心に影を落とすような出来事ではなく。本当に、犬に舐められたくらいの──。
「…分かってる。分かってるが──許せない」
「わー、わー、ごめん! ちょっと隙があった…。まさか、ああ来ると思わなくてだな──。済まなかった…」
しゅんとなれば、岳は苦笑し首を振ると。
「大和を許せないんじゃない。大和を置いて行った自分が許せないんだ」
「岳…」
「…なあ。大和は俺について来るのは、怖いか? 皆の前では、どんな危険な場所でも連れて行くと言ったけれど…。正直に答えてくれ」
岳の大きな手の平が、頬から髪に滑り、優しくかき上げる。俺はジッと岳を見返すと。
「今さら、だ。怖かったら、とっくに逃げてる。…俺を見くびんなよ?」
「…ああ。そうだったな。──済まない」
岳は目を伏せ、口元に笑みを浮かべる。それから、またこちらをひたと見つめると。
「大和。…ずっと傍にいてくれ。全てから、俺が守るから」
切なげな目をして、そう口にする。俺はすっかりこけた頬に手を沿わせると。
「俺だって、岳を守る。…二度と、こんな目にはあわせない」
頬に限らず、鎖骨の下も、肋骨も、背中でさえ骨が浮いていた。身体のあちこちに、痣や傷もあって。打撲もかなりある。
こんな傷だらけになって。それでも必死に戻って来てくれて。
そんな岳が愛おしい。そして、守らなければと強く思った。
岳を守る。
どんな危険からも。
「大和、好きだ…」
言いながら、キスが唇に落ちてくる。それを受けながら、そっと背中に手を回した。
広く大きな背に浮く骨。それを撫で、心に誓う。
俺が──必ず、守る。
「大好きだ。岳」
二度と傍を離れない。
+++
「ふー、けっこう、キツイ…」
「今日も八時間歩いたからな? 明日は一日、休みだ。村に着いたらゆっくりしよう」
山道に沿って作られたデコボコの石段を、時には高所にあるつり橋を、崩れそうな崖路を歩きながら、村まであと少しの所に来た。
生活に使う道の為、途中荷物を背負ったヤクやロバ、人々とすれ違う。
俺は今、岳とともにまったくの個人旅行を楽しんでいる最中だ。
とは言っても、岳は撮影をしながら、だが。おかげで所々休憩が入る為、かなり楽に歩けていた。道々にはシャクナゲのピンクが青空に生え、いい感じだ。
トレッキングが主のため、ポーターは二人だけ。岳の撮影機材とテント泊用の機材が少々あるくらい。食料もあったがそこまでの量にはならなかった。帰路には必要無いくらいだ。
木々に囲まれた道を抜け、村にたどり着く。平地は暑いくらいだ。
「あ…」
ふと顔を上げれば、山と山の間に真っ白な峰が連なって見えた。アンナプルナ山群だ。
「綺麗だなぁ…」
「別世界だな」
確かに。
真っ白な連なりが青空をバックにして続く。そこだけ、別の次元にある様に思えた。
そんな景色を見るにつけ、来てよかったと思う。少しは岳のいる世界に近づけた気がした。
一番初心者むけだと言われ、選んだコース。それでも、俺にとってはハードな部類だった。やはり、平坦な道を走ったり、歩いたりするのとはわけが違うのだ。普段、山で鍛えていても思う。
「ほら、あとちょっとで村だ。行こう」
「おう!」
岳に促され歩き出す。
辛い道も岳がいると楽しく感じた。それに頼もしい。なにより、二人きりで来たのが良かった。岳を遠慮せず、独り占めできるのだから。
ふと、先を歩く岳が、
「来て良かった」
そう口にした。
「俺も今、思ってたところだ。岳の世界にちょっと近づけた気がする」
すると岳は笑って。
「俺の世界?」
「そ。岳はこっちにも何度か来たこと、あったんだろ?」
「学生時代に数回程度だ…」
岳はそこへ立ち止まり、景色に目を向けた。俺はそんな岳の傍らに立つと。
「俺の知らない岳の見た景色。俺も見られたなって、思う。俺がまだ中学生だったころ、岳はこんな世界、見てたんだろ? ほんっと、人生っていろいろだよな? 俺の世界なんてあの頃、本当に狭くてさ。小さくて。けど、こんな世界も広がってたんだなって…。いろいろ諦めなくて良かった」
「…そうか」
「岳に出会えてよかった。岳に会わなかったら、俺、こんな世界があることも知らなかった…。ありがとうな? 岳」
そう言って、岳を見上げる。
もちろん、ヤクザの世界も知ってしまったわけだが、それはもう過去の話だ。
岳は切なそうな、嬉しそうな、複雑な表情をそこに浮かべると。
「俺の世界は、大和に出会って広がった…。俺を暗闇から救い上げたのは大和だ。俺の方こそ、お礼を言わないといけない…」
そうして、こちらを見つめると。
「ありがとう。大和」
そう言って手を差し出してきた。改まった岳に、
「ふふ。なんだか、照れ臭いな…」
俺はその手を握り返し笑う。
大きな掌。包み込む様に握ってきたそれに、温かさを感じる。岳の思いが伝わって来るようだった。
「このまま、手を繋いで行くか?」
「冗談。現地のひと、びっくりするだろ? だいの大人が手つないでたらさ。子どもじゃないって」
「大和は子供でも通るな。中学生だと言っても、誰も疑わないさ」
「たーけーるー」
道中、かなりの確率で子どもと間違われてきたのだ。それは、それなりに俺の心に影をさしていて。俺の唸るような声にさらに笑うと。
「はは。ただ、ちょっと手を繋いでいたかっただけだって。大和は立派な大人だ」
「…取ってつけた様に言うな」
ムスッとしながらも、繋いだ手を離し難くて。
結局、そう言いながらも人の来る気配がなかった為、村の入口まで手を繋いで歩いた。
途中、張り出した木の根につまずいた俺を、咄嗟に力を入れて岳が支える。
「気をつけろ?」
「お、おう…」
俺はじっとその握る手を見つめた。
こうして繋いでいれば、互いに助け合うことができる。もし、岳が躓いたら俺が支えることができる。
やっぱり、離れていちゃいけないな。
俺はその手をさらにぎゅっと握りしめた。
「大和?」
「へへ。なんでもない──」
そう言いかけた所へ、風が吹く。
湿気を帯びているのに、どこか爽やかな風だった。
揺れる桃色の花びら。高く青い空には、薄い雲が線の様にたなびいている。
いつの日か、別れは必ずやって来る。当たり前の日常が唐突になくなる日。
その時、少しでも後悔の少ないように、この一瞬、一瞬を大切に生きようと思った。
ひとつひとつ、必死に胸に刻んで、泣いて笑って怒って感謝して。
そうすれば──悲しみも超えられる。
それに付き合ってくれる相手が、岳で良かったと思った。
俺の──大切な人。
「ううん、違うな。その、岳…」
「うん?」
「…ありがとう」
先ほど転ぶのを助けたことへの礼だと思ったのだろう。一瞬、不思議そうな顔をして見せたものの、ああと合点が行った様子で。
「どういたしまして。俺が転びそうになったら、頼むな?」
「もちろんだ!」
俺は満面の笑みでそう答えた。
この先も何があろうと、岳を一番に支えるのは俺でありたい。
真っ白な山容をバックに、岳の手をしっかりと握りしめた。
この先も、ずっと──。
ー了ー
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます