第36話 お帰り

 家に帰ったのは、日も沈むころ。海を見下ろす高台にある家を、夕日が赤く照らし出していた。


「あらためて。お帰り」


 玄関を入ると、亜貴が初奈と共に出迎える。続いて真琴も姿を現した。


「お帰り、二人とも。タケ、荷物は向こうの部屋に持って行ってあるぞ。夕飯は倖江さんが腕を振るってくれた。藤も祐二もリビングで待ってる。祐二は話を聞きたくてうずうずしてるぞ?」


「わかった…。それも心配かけさせた。義務だな?」


 すると亜貴は口先を尖らせながら。


「心配なんてもんじゃないよ。もう、死んだんだって思ってたんだからさ。ひどいよ兄さん」


「悪かったって…。俺も必死だったんだ」


 すると、ニヤリと笑った亜貴は。


「『大和に会いたくて』でしょ?」


「ま、そうだな。──それだけだった」


 そう言って背後にいた俺を振り返ってくる。照れ臭い。言葉に詰まりつつも。


「分かってる…。俺だって、きっと逆の立場だったらそうだった。岳に会いたいから、帰ろうと思う…」


「ふふ。だろ?」


 嬉しそうに笑う岳に、亜貴はため息をつき。


「ったく。帰ってきた早々、これだよ。鬱陶しいったらありゃしない。ね、こう言うのをって言うんだよ? 初奈。よく覚えておくといい。デレデレの二人だけの世界さ。勝手にやってろっての…。さ、行こう。お腹すいちゃったよね?」


「うん。…大和お兄ちゃん」


 廊下を行きかけた初奈は振り返って立ち止まる。二つに結わえた黒髪が揺れた。


「なんだ?」


「岳お兄ちゃん、帰ってきて良かったね?」


 そう言って我事の様に嬉しそうに微笑む。


 うう。いい子だ…。


 初奈は薄々、父親になにかあったことに感づいていらしい。兄の動揺した様子からもそれは読み取れて。

 ただ、皆に心配をかけさせない為、ずっと黙っていたのだという。我慢の子なのだ。


「ありがとうな。初奈」


 ポンとその頭を軽く撫でるように手を置く。初奈は気恥ずかしそうに笑った。

 岳はそんな俺たちを微笑ましく見ていたが、ぐうと腹の虫が鳴いたようで。


「ほら、中に入ろう。とりあえず食べるぞ。さっきからお腹が空いて空いて。空腹で死にそうだ…」


 岳の軽口に俺は、


「それ。実感ありすぎだ。たくさん食べろよ? 倖江さん、かなり気合入れてたからな」


「それは頑張らないとな?」


 岳は俺の背を押し、リビングへと入る。

 そこには、すでに席に着く祐二や壱輝の姿があった。藤はリビングの入り口に控えていて、軽く会釈して見せる。

 それはどう見ても、主従関係のそれで。どうしても昔の癖が抜けないのだ。岳は皆をぐるりと見渡したあと。


「皆、ありがとう。心配かけたな」


「ほんっと、ですよ。もう、学生時代の後輩も先輩も、みんな集まって心配しまくって。どれだけ不味い酒を飲まされたか…。また、後日、覚悟してくださいよ? 反省会、強制参加ですから」


 祐二が怒った顔をしてそう口にする。


「それは──お手柔らかに願いたいな」


「さ、食べましょう」


 今日は倖江もいて、亜貴、真琴に指示しながら給仕に回った。藤も使うのだから、倖江には誰も頭が上がらない。そうして賑やかな夕食が始まった。俺はそんな景色をそっと眺める。


 岳がいる──。


 改めて、幸せを噛み締めた。当たり前の景色の大切さに気付かされる。

 そんな中、壱輝はただ黙って皆の話を聞いているだけだった。


+++


 賑やかな夕食が終わり、幸江はひと足先に帰って行った。初奈もそれに合わせて部屋に戻る。子どもは寝る時間だ。

 他の皆は食後そのままリビングに残り岳の事の顛末を聞き入った。

 俺はすでに聞いた話だが、同じようにキッチンでカフェオレを淹れながら聞く。


「ふーん。じゃあ、最後殆ど食べてなかったの?」


 亜貴の問いに頷くと。


「ザックには携帯食くらいしか入れていなかったからな。後はテントに入れてあったんだ。下りてからは沢の水でやり過ごした」


 俺は淹れたカフェオレを皆に配りながら、


「岳、五キロは減ってたもんな」


「通りでやつれて帰ってきたわけだ…」


 正面ソファに座った亜貴はじっと岳を見つめた。配り終えた俺は岳の隣に座る。

 確かに岳は頬のあたりがこけていた。より精悍さが増しているが、それはいつもの岳とは違って痩せすぎて病的でもある。

 岳の斜め向かいに座った真琴は、当時を思い起こす様にしながら。


「途中、タケに肩を貸したが、まるで重さを感じなかったからな。よく大人一人担いで歩いてきたと思ったよ」


「円堂先輩、重かったでしょ? 途中で円堂先輩だけビバークさせて、先に救助を求める選択はしなかったんですか?」


 祐二が尋ねてくる。もしかしたら、二人して生き倒れた可能性もあったのだ。しかし、岳は首を振ると。


「…なかった。帰るなら二人だと決めていた」


 壱輝がぴくりと反応を示したが、何も言わなかった。


「それができちゃうんだから、岳先輩はすごいですね。でも、本当に運が良かったとしか言えないですね? 間違えば岳先輩だって大怪我でしたよ?」


「それは──そうだな…。かなり滑落した。雪崩の後じゃなければあぶなかっただろうな」


 逆に雪崩のあとに落ちたため、雪がクッションになったらしい。それでも、それなりの傾斜がある箇所を、成人男性を背負い下りたのだ。かなりの力技だった。


「先輩。もう、こんなのなしですよ? 先輩には大事な人が待ってるんですから」


「わかってる。次は必ず大和は連れてく」


「は?」


 声を上げたのは亜貴だ。壱機も驚いた表情を見せる。


「そこはもう、『危険な場所には行かない』じゃないの?」


 亜貴の言葉に岳は笑みを口の端に浮かべると。


「何があっても一緒にと決めた。…もちろん、無理をさせるつもりはないし、俺も無理はしない。危ない目に遭わせるつもりは一切ないが、置いていくと言う選択肢はない。次からは必ず大和も同行させる。…決めたんだ」


「……」


 言いながらこちらに視線を向ける岳。

 俺は黙って岳を見つめ返した。異論等ない。それは俺にとっても当然の事で。

 今回の様に技術と経験が必要な場所に無理やり連れてはいかないだろうが、ベースキャンプくらいには連れて行く気なのだろう。俺だって、そのつもりだ。

 亜貴は肘をつくと。


「まったく。向かう方向、間違えてるって…」


 そうぼやいた。

 その後、話は円堂の容体や、撮り終えた映像や写真の話へと移り、カフェオレを飲み終わる頃には解散となった。


+++


「あんた。間違ってンじゃねぇの」


 藤や祐二は帰宅し、真琴も亜貴も部屋へ戻って行った。

 片付けや明日の朝食準備で、最後までリビングに残っていた大和もシャワーを浴びに行く。それに習って岳も部屋に戻ろうとすれば、リビングに壱輝が現れた。そうして、開口一番そう口にする。

 様子から水を飲みに来たわけではなさそうだ。岳が一人になるのを待っていたのだろう。


「なにがだ?」


 岳は立ち上がりかけたソファに座り直すと、壱輝を見返す。


「大和を連れてくって、おかしいだろ? 普通、危ない目に合う様な場所なら連れて行かない」


「それが、俺と大和の答えだ。世間は関係ない」


「今回みたいに、死ぬかもしれないって場所にも連れてくのかよ。そんなの、連れて行かれた方はいい迷惑だ。安全な場所で待たせるのが普通だろ? 巻き込まれて大和が死んでもいいのかよ?」


「死ぬことが前提だな」


 岳は笑う。壱輝はむきになって。


「当たり前だろっ? 今回だって、危なかったじゃないか。一歩間違えば、あんたも親父も死んでた!」


「でも、死ななかった」


 壱輝はグッと言葉を詰まらせた後。


「…それは──偶然だろ?」


「偶然だろうと、それを利用して生きて帰った。俺は何があっても大和を死なせはしない。お前の父親、円堂先輩も死なせなかったようにな」


「っ!」


 強い眼差しで壱輝を見返す。

 大和なら尚更。あの場面でも、大和を生かすことを優先させただろう。そして、生死にかかわらず置いて行く、という選択はなかった。


「さっきも言ったが、大和の技術で無理な場所には連れて行かない。だが、現場には同行させる。──今回のことで身に染みた。俺たちは離れているべきじゃない。大和は傍に置く。──何があろうとな」


 大和とは離れては生きて行けない。互いに触れられる距離にいるべきなのだ。いいか悪いか、外野の判断はどうでもいい。

 壱輝はくっと唇を引き結び、岳を睨みつけたが、それも長くは続かなかった。直ぐに視線を落とし、手のひらを握りしめると。


「大和…。死なせるなよ」


「もちろんだ」


「……」


 壱輝は後はなにも言わず、踵を返すと部屋へと戻って行った。

 その背を見送ったあと、岳は大きく息を吐き出す。

 なぜそこまで大和に肩入れするのか、岳は知らなかった。真琴からは何も聞いていない。ただ、大和に対して特別な思いを持っていることには気づいた。


 しかし、誰になんと言われようと。


 岳の思いは変わらなかった。


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