第27話 知らせ

 その知らせを聞いたのは、夕飯の支度を終えた頃だった。初奈は部屋で勉強中。亜貴はまだ帰って来ていなかった。

 電話口に立った俺は想像しなかった言葉を耳にする。


「岳と、円堂さんが…雪崩に?」


 受話器を持つ手が震える。真琴からの連絡だった。

 岳と円堂が撮影終了後、下山してこないと言うのだ。どうやら突然起きた落盤と雪崩に巻き込まれたのではないかと言う事らしい。


『ああ。円堂さんの事務所から今連絡があった。岳達と連絡が取れない状況でな。明日、ヘリを飛ばして確認するらしい。それまで詳しい状況は分からないとのことだ。…大和、まだ状況は分からない。悲観的に考えるな? 大和、聞こえているか?』


 サアッと体温が下がっていくのを感じる。

 真琴の声が遠くに聞こえた。幾度か名前を呼ばれてもすぐに返事を返せない。


「あ…、うん…。聞こえてる」


『大和。初奈にははっきりしたことが分かるまで伝えない方がいい。下手に不安にさせてもいけないからな。ただ、壱輝には状況だけは伝えて置く。亜貴やほかにも俺から連絡をしておく。俺は今から帰るから──』


「って、真琴さん。壱輝を一人にはできないよ。藤に任せるのも悪いし…。俺は大丈夫だ」


『大和…』


 自分自身に言い聞かせるように言葉を継ぐ。


「あいつが、帰って来ないなんて、ありえない。何がなんでも帰ってくるはずだ。だって、俺に早く会いたいって、言ってた…」


 涙がこぼれそうになって、それをぐいと、手の甲でこするとむんと胸をはり。


「俺は大丈夫だ。それより、きっと壱輝は不安がる…。傍にいてやってくれ。あいつ、誰かいないと自暴自棄になる」


 泣いている場合ではない。大丈夫だと何度も言い聞かせて、呼吸を整えた。真琴の小さなため息が聞こえた気がする。


『わかった…。俺はこっちに残る。何かあれば亜貴を頼れよ? 大和』


「ふ…。平気だって。そこまでじゃない。でも、ありがとうな。壱輝をよろしく」


『…わかった。何かあればすぐに連絡する。それと、いつでも向こうに飛べる準備をしておいてくれ。身一つでいい。航空券は俺がすぐに手配するから何も心配しなくていい』


「うん、わかった。ありがとう…」


 最後まで大和を気遣いながら、真琴は通話を終えた。

 通話の切れた端末をじっと見つめる。

 数日前、岳とやりとりしたのが最後。もうすぐ連絡が来るはずだった。出立してからろくに声を聞いていない。所々、通信環境がよい村で短い会話をしたのみだった。


 体調は大丈夫か? 移動中、何かなかったか? 楽しんでいるか。


 他愛ない会話をしたのみ。無事に帰ってくると信じていたから、会話もいつも通りだった。しかし、それは突然やってきて。


 岳、何があった? どうしてる?


 普段生きていても、それはすぐ隣りにあるはずで。でも、そこまで切羽詰まってはいない。

 ただ、山登りは違う。より危険な個所へ向かえばそれはいつもすぐそこにあって、隣り合っていて。気を抜けばあっという間にあちら側へ落ちてしまう。

 心構えをしていたとしても、動揺は避けられなかった。それまで、普通に見ていたものがすべて味気なく色あせたものに見える。

 当たり前の日常が、突然終わりを告げようとしていた。


+++


「父さんが?」


 真琴の報告に、壱輝は驚きと不安の入り混じった表情を見せる。

 車で高校まで迎えに行った帰り、車内でそれを告げた。


「そうだ。今は詳しい状況を確認しているところだ。幸い下からも行ける場所だそうだ。天候の回復を待って、明日、ヘリも飛ばして救助に向かうそうだ」


「…生きてんの?」


「…通信ができない状態らしい。雪崩に巻き込まれた可能性もある。だが、まだ何も分かってはいない。憶測で悲観的になるなよ?」


「でも…。きっとだめだ…」


「壱輝」


 真琴は否定的な言葉を咎めるが。


「だって、いっつも、口癖みたいに言ってた。俺は畳やベッドの上じゃ死ねない。山で死ぬって。ばかじゃねぇのって思ってた。なに恰好つけてんだって。俺や…初奈の事なんて何にも考えてないって…」


 真琴はハンドルを切りながら、ちらと隣の壱輝を見た。無理やり外に目を向けているが、その目元が赤くなっている。真琴は息を吐くと。


「壱輝。まだ、何も分かってはいない。決めつけるな。君のお父さんはそんな軟じゃないだろう? …岳もだが」


 学生時代、円堂は岳といるのを見たことが何度かあった。

 そのころから体格も良く、無精ひげを生やし、日に焼け、いかにも山好きそうな男だと思った。岳が山をやる人間には、ぱっと見、見えなかったのと比べると正反対で。『山男』と言う言葉がピッタリとはまった。

 岳は身長も高くすらりとしていて、女性受けする容姿。モデルや俳優に向いていそうなくらいで。部活動などしないタイプと思っていたのだが、山岳部に入ったと聞いて驚いた。

 入部してからはすっかりのめり込み、円堂や他の先輩に習い、技術を習得し、めきめきと腕を上達させたらしい。気が付けば部長となって皆から頼られる存在となっていた。

 その当時の自身の淡い恋心を思い出し、真琴は苦笑いを浮かべる。

 今では考えられないが、当時は岳に思いを寄せていた。それは憧れの思いが近かったのかもしれない。いま、大和を思うようになってからは、特にそう思えた。

 その円堂も岳も、今や安否不明となっている。


 嫌な言葉だ。


 今はただ、無事を祈ることしかできない。そして、残された家族のケアに務めることが重要だった。


 円堂には壱輝と初奈。岳には、亜貴と──大和。


 ことに大和の動揺は想像に難くない。電話越しの大和はなんとか自分を保つようにしていたが、内心は嵐の中にいる心地だっただろう。


 本当は傍についていたかった。


 だが、大和に壱輝を託され。言う通り、まだ未成年である壱輝を一人にはできなかった。八野との件もあるのだ。

 それなら大和たちの住む家に連れて行けばいいのだが、そうすれば、初奈に父親である円堂の状況を知られてしまう可能性がある。

 まだ何も分かっていないうちに、安否不明など知られて不安定にさせるわけにはいかなかった。

 それに、大和との件もある。この状況で何か起こるとは考えにくいが、何がきっかけとなるかは分からない。大和本人は平気だと言うものの、これ以上負担をかけたくなかった。

 助手席の壱輝は肩を震わせている。


「勝手なことばっかりして。他人まで巻き込んで…。あいつの事なんて、親だと思いたくない」


「今回の仕事は、円堂さんの強い要望もあったが、岳も山岳写真家を目指していた時期もある。望んで得た仕事だ。それは誰にも言えることだ。いやいや参加したものはいないはず。確かに円堂さんは強引な所もあるだろうが、それが悪いことだとは限らない。それだから上手く行ったこともあったはずだからな?」


 真琴は諭す様にそう口にした。以前に、岳が口にしたことがある。円堂のおかげで危機的な状況を何度か切り抜けたことがあったと。

 的確な判断で、皆が消極的な判断をしても、自身はそれと反対な判断を下し、皆を救ったことが度々あったと。岳もそれを目指し、目標としてきたらしい。

 それにはかなりの経験と冷静な判断が必要で。すべての状況を見て、最善の策を選択する、その能力に長けていたと言っていた。

 それが、慎重な判断を下したものから見ると、無謀、強引にも思えるのだが、結果が伴う為、誰も何も言わなくなるのだとか。


 今回もそれが発揮されていればいいが。


 もし、なんらかの事故に遭ったとしても、それを切り抜ける力があるはずだ。


 岳もいる。


 より、困難を切り抜ける力が発揮されるはずだ。


「俺は…許さない」


 小さな声で絞り出すように呟いた。そこには、初奈は自分を置いて行こうとする父親への怒りが込められている気がした。


「とにかく、なにか分かるまではいつも通りでいるように。初奈にははっきりするまでは何も言うなよ? 不安にさせるだけだからな」


 壱輝に言ったのは、もう子供の年齢を越そうとしているからだ。もう、何があっても受け止められる年齢ではある。


「わかった…」


「必要以上に、落ち込むなよ?」


 壱輝は頷いて見せた。そうして、話が終わるころ、マンションに到着した。

 リビングに入ると、夕方の日差しが開けっ放しだったカーテンの隙間から部屋に降り注いでいた。


「壱輝、先にシャワーを浴びるといい。俺は先に夕飯の支度を済ませる」


「うん…」


 そうは言っても、まだ十五歳、子どもだ。その背中は頼りない。すっかり肩を落として歩く姿に胸が痛んだのは事実で。


「壱輝」


 呼ぶと、そこへ立ち止まった。真琴は近くに歩み寄り、その肩に手を置くと、正面から向き合って、


「壱輝。何があったとしても、君はひとりじゃない。俺や大和達がついている。初奈だっている。ひとりきりだと思いこむな」


「……」


 壱輝の目が大きく見開かれ、その後、ギュッと閉じられ伏せられた。そこから大粒の涙がポタポタと床に落ちて行く。

 それは、壱輝が無理やり大和にキスする前、大和が壱輝に向けて言った言葉でもあるのだが、真琴が知る由もなく。

 自然と手が動いて、軽く肩を抱き寄せた。


「大丈夫だ。安心しろ」


「…っ」


 感極まった壱輝が真琴の胸元にすがり着いて来る。真琴は何も言わず、黙って落ち着くまでそのままでいた。


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