第12話 大丈夫
「はよう!」
キッチンで朝食準備をしながら、いつものように壱輝に声をかける。が、チラとこちらを見ただけで無視された。
いつもなら、『ン』とか『っす』とか返ってくるのに。少し寂しい。初奈の変わらぬ『おはよう』に癒される。
昨日の夜、調子に乗ってあんなお説教をしたからだろうな…。
しかし、負けてはいけないのだ。
俺は手にしたお玉の柄をグッと握る。ここは壱輝のためにも引いてはならない。人に言える程、出来た人間でないことは分かっている。けれど、どうしても言いたかったのだ。
壱輝は悪く見せようとしているだけで、中身はそこまで落ちていない気がする。
まだ間に合う。
そう思うのだ。ただ、好かれていないのは分かっている。無理に距離を縮めようとは思わなかった。
普段通りに接するだけだ。──が。
「なあ、女の口紅って、どうやって落とせばいい? なんか、制服のシャツに昨日つけられたみたいでさ」
壱輝は朝食に焼いたトーストを齧りながら尋ねてくる。俺はお玉を取り落としそうになった。
ああ。ただれている。穢れている…。こいつ。まだ高校一年だろ? 俺なんて、そのころバイト三昧でそんな暇もなかったぞ?
相手にしてたのは早朝新聞配達で会う散歩中のじいちゃんばあちゃんや、こっそりとやっていた夜の居酒屋バイトで飲みすぎてくだをまく中年オヤジくらいだったぞ。
「…口紅の汚れは中性洗剤かクレンジングオイルだ。洗う前に見とく。てか、壱輝…」
以前、まだ前のマンションにいた頃、岳が度々つけてきて、真琴に聞いてそれを落とした記憶があった。
当時はまだ岳に告白などされていなくて。ただ、女性にその気がなくても、人気はあるんだな、と思いつつ、懸命に落としたのを覚えている。
あまり露骨な事は言えない。俺はちらと傍らで同じくトーストを齧っていた初奈に目を向けたあと。
「俺はお前に高校生らしい、明るく健全な交際を望むぞ」
「なに、健全って? だいたい、あんたの望みなんて関係ないし。俺がどう付き合おうが勝手だろ?」
と、そこへ亜貴が起きてきてリビングに顔を出した。おはようと言いながら自分の席に着くと、優雅な仕草で肘をつき顎を乗せてから壱輝を見やり。
「あーあ。朝からやってるねぇ。…けど、壱輝。大和にそんな口きいていいと思ってんの?」
「…あんたにも関係ない」
するとふふんと笑んだ亜貴は。
「俺や真琴には大人しいけど、大和には絡むよね? それ、どういうつもり?」
「……」
壱輝のトーストを持つ手が止まる。朝からピキリと部屋の空気が凍り付いた。
だが、ここは穏便に治めねば。爽やかな朝の始まりなのだ。初奈もいる。俺は宥めるように。
「亜貴。俺は大丈夫だ。気にしてねぇって。それより、早く飯食って行けよ。今日は大事な授業がるあるんだろ?」
「…あるけど。それより、こいつだよ。こいつ。大和だけに絡むのが気に食わない…。人に面倒見て貰ってる身分なのに粋がっちゃってさ。明日から真琴に無理にでもここにいてもらおうかな…」
「なに言ってんだよ。真琴さん、忙しいって言ってただろ? 何かあった訳じゃねぇんだし。大丈夫だって。はら、冷めないうちに食え」
言いながらカップにスープをよそって差し出す。カボチャのポタージュだ。
砂糖は使っていない自然な甘みがとてもおいしいのだ。亜貴のお気に入りであるそれを差し出せば、すぐに無言になった。
食べ終わった亜貴は、先に食べ終わりリビングのソファに座って端末をいじっていた壱輝に向かって。
「なあ。大和に何かしたら、ただじゃすまないからな」
「…興味ない」
端末に目を向けたままそう答える。亜貴はそんな壱輝を睨むと。
「それ、良く覚えとくよ」
凄むところは岳そっくりだ。
岳よりは線も細いし、顔つきは似ていないのに、声や物腰はなぜか似ている。ほんと、ヤクザが家業にならなくて良かったと思った。岳より亜貴の方が嵌っていた可能性がある。
こえーヤクザになっただろうな…。
どことなく、岳より冷徹でくせもものの嫌な奴になった気がする。
が、今は医者を目指す苦学生だ。苦しみ抜いて、六年後無事卒業する予定だ。そこからがまた大変なのだが、今は日々の勉強に励む事が先決だろう。
亜貴は壱輝を睨みつつリビングを出た。俺が玄関先まで見送りに出ると、靴を履き終えた亜貴は振り返って。
「大和。何かあったら、黙ってないで言ってよ? 兄さんも心配してたんだから」
そう言って、顔を覗き込んでくる。
「分かってる。高校生のガキなんかに負けないっての。ほら、行った行った!」
まったく、甘く見てる、と亜貴はぶつくさ言いながら大学へと向かった。
+++
皆の心配は分かっている。
けれど、心配し過ぎなのだ。どう見積もっても、相手は十五才の高校生。流石にやられるはずはなかった。
今の所、殴り合いのけんかになる事態には発展していないが、例え殴り合いになっても、やられるつもりはない。
いったい、どれだけの修羅場をくぐり抜けてきたと思っているのだ。俺の強さは俺の護身術のトレーナーである、元岳の部下、藤の折り紙付きだ。──亜貴の心配はどうやらそこではなかったらしいのだが、この時の俺は気付いていない。
ふんぞり返る勢いでそこに立っていれば、横を壱輝がすたすた、初奈がとことこと歩いていった。登校時間だ。それで我に返る。
「あ、もう行くか? 初奈、ちゃんとお兄ちゃんについてくんだぞ?」
こくりと頷く。両側で束ねられた髪がふわふわと揺れた。俺が結ったものだ。ただ束ねただけだが、これがまたウサギの耳の様で可愛い。
「壱輝、校門入るまでちゃんと送れよ?」
「分かってる…」
初奈の小学校は帰りは集団下校となっていた。ここから小学校までは電車で三駅ある。
行きは壱輝が送り、帰りは駅の乗車下車までは集団下校、後は俺か倖江が迎えに行っていた。
ほんと、子どもの一人歩きは危ないんだよな。
いくら小学校五年生になったとは言え、まだまだこどもだ。バカな大人などいくらでもいる。油断はならないのだ。その点、壱輝といれば安全だ。けれど、その壱輝は。
昔、そう言う目に遭ったって、言ったもんな…。
俺のハグ事件の後、岳は父である円堂に詳細を聞き、それを俺にも話してくれた。
ひとりで下校途中に、見知らぬ男に近場の人気のない物置に連れ込まれ、下半身を触られたというのだ。聞いただけでもぞっとする事件だった。
男はそれ以上、手を出さなかったらしい。泣きながら帰るところを近所の人に助けられ、男は警察に捕まった。
男はそこから少し離れた所に住んでいて、幼児へのつきまといで逮捕経験もある前科のある人物だったという。
ただ、見た目は何のことはない中年男だったらしい。そこら辺を歩いていても誰も気には留めない程度の。
だから余計に怖いんだよな。
ぱっと見で怪しいと分かればいいが、そうは見えないのだから、とにかく、用心するに越した事はない。幼い壱輝にはかなりショックだっただろう。今でもトラウマになっていて当たり前だ。
そう言えば、あの時、他にもあるようなこと、言っていたな…。
気にはなるが、本人から聞き出すつもりはなかった。きっと、俺の想像するような事が起こったのだとしたら、それは辛い記憶だろうから。
と、壱輝が玄関口でこちらに背を向けたまま不意に立ち止まって。
「来週、金曜日。友だちが二人遊びに来たいって言ってるんだけど…」
友だち。どうやらクラスに仲の良い友人が二人いるらしいのだ。
学校帰り、時間が合えば遊んでいる。壱輝から遅くなると連絡がある時は、大抵、彼らといるようだった。
「了解。いいぞ。放課後なら夕飯食べてくだろ? てか、そのまま泊まって行くか?」
壱輝は無言でコクリと頷いた。
なんだ、初奈みたいだな。
ちょっと可愛かった。
「うし、了解、了解。寝る部屋は、リビングもいいけど落ち着かないだろうし。二階の一番奥のゲストルームでいいか? 三人で寝るならちょっと狭いけど」
確か六畳ほど。一人用のそこに三人はぎりぎりだが、
「そこでいい」
「じゃ、来週な。二人の名前はなんて言うんだ?」
「知高と翔。同じクラスの奴」
「いつもつるんでる奴らか?」
「そう…」
「知高と翔な。嫌いなもんとか、食べられないもんとか、あんのか?」
壱輝は少し俯いて沈黙した後、
「あいつ等、何でも食うから。ただ、知高はナスが苦手だって前に言ってた…」
「ナスかぁ。美味いのになぁ。まあ、いい。分かった。定番の揚げ物にしとくな。ほら、行かないと遅れるぞ」
「分かってる…」
壱輝は初奈と共に玄関の外へと向かう。その手にはきっちり弁当を入れた手さげが揺れていた。
いつもの調子に戻った様でひと安心する。俺は門扉まで出て二人を見送った。
友だちかぁ。──てことは、壱輝の笑った顔、みられるのか?
本当は笑顔も見てみたいのだが難しく。いつもむすっとしている顔がデフォルトとなっていた。
壱輝は本来、優しいのだ。初奈と歩く時も、手は繋がないが、ちゃんと初奈の歩調に合わせて歩いているのが、壱輝の優しい所で。今もそうだ。視線の先を行く壱輝は初奈の隣を歩いている。
壱輝はぜんぜん擦れていない。ただ、寂しいだけなのだ。自分を認めて欲しくて主張しているに過ぎない。
色白で涼やかな目元壱輝は、笑うときっと可愛いに決まってる。
来週が楽しみになった。
+++
岳は今頃、どの辺かな。
その日、夕飯の準備中、ふとキッチンの冷蔵庫に貼ってある地図に目を向けた。気がつくと、そこを見ている。
地図には岳達が行く経路とともに日付が書かれていて、今は目的地の途中の村に滞在しているはずだった。
岳が出発して、最初の連絡はネパールの空港からだった。出発したその日の夜のこと。
明日、小さな航空機に乗り継いで、もっと奥地へ向かうのだという。そこからは徒歩と車を使っての移動となるのだ。
通信アプリに入ったのは、空港からの景色と、移動疲れだとあった。それから、どうしてる? と。
どうしてるって。寂しいよ。会いたいよ。
今すぐそこへ飛んでいきたいくらいだ。けれど、そうは言わない。
「『通常運転中。こっちは何とかなってる。無事ついて良かった! 移動お疲れさん! 体調、気をつけろよ?』と」
ベッドに寝転がってそう入力して送信する。コツメカワウソが踊った。けれど岳からは。
『もう、充電切れだ』
あうう。俺だってもう、岳が航空機に乗った時点で切れてたって。
けど、ここは岳を心配させてはならない。
「『俺はこれで充電中』」
そう入力してから、傍らにあった岳の枕を撮って送った。これが一番、岳の匂いが染みついているのだ。
ああそうだ。変態だと言ってくれていい。
でも、これを抱きしめてクンクンすることで何とか保っているのだ。カバーは岳が出発した日のまま変えていない。これは岳が帰って来るまでこのままだ。絶対洗わない。
『爆笑』
と返ってきた。
ふん。大いに笑うといい。
どんなに笑われようと、バカにされようと、これは止めない。
「『十分、気を付けてな』っと」
『ありがとう。愛してる。大和』
う、うぐっ…。
俺はただの字面なのに、そこに岳の真摯な眼差しを見たようで一気に顔が熱くなる。俺は震える指先で、それを打った。
「『俺も』と…」
送付し終えて、端末を手にしたままそこに転がり悶絶する。
かー! 恥ずかしい! 照れ臭い!
けど、これは大事な事だ。こんな些細なやり取りが、相手を幸せにする。
ピコンと音がしてスタンプがひとつ、送られてきた。ハスキー犬がハートマークのキスを送っている。
もとヤクザの若頭で、有望な写真家で、今はヒマラヤ山系に挑むという男が、パートナーにはこんな可愛い一面を見せるのだ。
好きだぞ。岳。
俺もコツメカワウソが目いっぱいのハートを送る画像を送った。それで一旦、やり取りは終わる。
スタンド下に置かれていた瓶詰めのカワウソは、今は空き瓶だ。中身は岳が持って行ったのだ。
少しでも大和が傍にいるように感じたいからと。ビニール袋に入れた後、大事に梱包材代わりのタオルにつつまれて。
俺はため息を一つついて、スケジュール表を再度眺めた。
兎に角、無事に帰ってきて欲しい。勿論、撮影が無事済むことも大事だが、なにより、何事もなく終わることの方が重要だった。
撮影の為に殆ど未踏とされている山に登ると聞いていた。
山頂は雪深い。幾らふもとが熱帯でも標高が上がればそこは雪景色が広がる。もちろん一番雪深い季節と比べれば少ないが、だからと言って油断などできないのだ。
特に普段人が登らない場所ならなおさら。低山と言っても、標高六千メートルくらいは普通にある。空気もかなり薄い。人によってはすぐに高山病になる者もいる。
岳たちは慣れているし、ちゃんと高度順応するから大丈夫だって言っていたけど。
不安は尽きなかった。
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