百合の花が爆ぜた
朝焼ひいろ
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『担任の飯島先生が「今日のホームルームは以上だ」と言った。その言葉を合図に、日直が「きりーつ」と教室中に響き渡る声量で発する。飯島先生はホームルームを短く済ませてくれるから好きだ。ぼくはそれまで読んでいた夏目漱石の『こころ』を急いでリュックサックにしまう。礼、と日直が言って、ぼくはぺこりと頭を下げる。学校は大嫌いだけれど、この瞬間だけぼくは心を落ち着けることが出来る。あとちょっとで、この地獄から解放されるからだ。
クラスのみんなと同時に頭を上げる。リュックサックを背負い、陽太の方をちらりと見た。陽太と彼の腰巾着たちは、帰り際には必ずと言っていいほどぼくに何かしらちょっかいをかけてくる。
そろりそろりとドアへと歩く。一歩、二歩、三歩、四歩、五歩。ぼくはなんなく教室から出ることが出来た。本来なら当たり前であるはずのそんな事実がたまらなく嬉しくて、思わず廊下を駆けてしまう。ああ、もしかしたら、今日を区切りとして、ぼくへのいじめは終わったのかもしれない。百合ちゃんの遺影にいい報告ができる。
るんるんな気持ちで下駄箱にたどり着く。
「あれ……?」
下駄箱の扉を開けると、ぼくの靴に加えて、知らない人の靴が入っているのが目に入った。ぼくのものではない方の靴を右手に持ちながら、首をかしげる。数秒考え込んだところで、ぼくはひとつの恐ろしいことを考えついた。まずい。早く、この靴をもとの場所に戻さなければ。
けれど、遅かった。後ろから「あたしの靴がない」という、女子の声が聞こえる。ぼくはおそるおそる振り返る。ぱっちりとした瞳の女の子と目が合う。陽太の彼女だ。
陽太の彼女はぼくの右手に視線を落とした。
「えっ、それあたしの靴なんだけど」
「……」
ああ、やられた。
陽太の彼女が僕の手からなかば強引に靴を奪い、そして僕をにらみつけた。
「泥棒は死ねよ。がちキモい」
「……」
陽太の彼女とその友人と思われる人びとが、こそこそと何かを喋りながら下駄箱を後にしていく。どうせぼくの悪口を言い合っているのだろう。
陽太の顔が頭に浮かんだ。どうせ陽太が僕の下駄箱にあの靴を入れたのだろう。ぼくはまんまとはめられたって訳だ。いじめが今日で終わるなんて、ただの幻想だった。
涙をこらえながら、その場にうずくまる。どうすることも出来ずその場にしゃがみ込んでいると、陽太たちの声が聞こえた。まずい。逃げなきゃ、と思うけれど、足がガクガクして動くことが出来なかった。
「あ、良真じゃん。なあ~、おまえに靴盗まれたってラインが梨花からきたんだけど、どういうコト?」
顔を上げる。ニヤニヤと顔をゆがめる陽太と目が合う。ぼくがなにも言わないでいると、不意に陽太が僕のお腹を蹴った。
う、と声が漏れる。さっき飲んだカフェラテが逆流しそうだったけれど、なんとかこらえた。これ以上、みっともない姿をさらしたくない。
黙りこくるぼくにしびれを切らしたのか、陽太たちが去って行く。思わずぼくは脱力する。
「……はは」
乾いた笑いが漏れる。ぼくの心はもうすでにボロボロだった。どうにかして、平静を保つ方法はないだろうか。
数秒考えて、ぼくは性格の悪い一つの方法を思いついた。それは、病気でずっと登校していないクラスメイト、香川百合に会いに行くことだ。いじめは何かをきっかけに終わるかもしれないけれど、病気が消滅することはない。つまり、香川さんはぼくより不幸なのだ。あくまでぼくの持論、というか屁理屈だけれど。
自分より不幸な存在を目の当たりにすることが出来れば、ぼくの鬱憤も少しは晴れる気がした。
振り返り、職員室へ向かう。お見舞いに行くと言えば、担任も病室の番号を教えてくれるだろう。ぼくは少しだけ救われたような気持ちになりながら、ゆっくりと廊下を歩いた。
エレベーターから降り、廊下を歩く。小説では「病院は真っ白な世界で……」という風に称揚されているのをよく目にするが、実際はそうでもない。ドアは茶色だし、防犯カメラは黒だし、ところどころに敷き詰められているタイルは緑だ。
602号室の前でぼくは足を止めた。真っ白な壁には『香川百合』というネームプレートが掛けられていた。
こんこん、とドアを二回ノックする。「はあい」というのんびりした声が聞こえた。
ぼくは入るのをためらってしまった。ぼくは自分より下の存在を見て安心しようとしているわけで、実質的に陽太たちと同じことをしているのではないか?と思ったからだ。
ぎゅっと右手を握りしめる。やっぱり、帰ろう。ぼくは、陽太みたいな最低な人間とは違うんだ。
振り返り、エスカレーターの方へと歩く。二歩歩いた、その瞬間だった。「帰っちゃうの?」というかわいらしい声が後ろから飛んできたのだ。ぼくは硬直する。
振り向けないでいると、少女がぼくの目の前にやってきた。そしてその名前にふさわしく、花のように笑った。
「きみ、お見舞いに来てくれたんでしょう?せっかくだからお話しようよ」
香川さんがぼくの手を取り、引っ張る。ぼくは転びそうになるのをなんとかこらえて、歩き出した。
病室に着くと、香川さんがベッドにぽふっと腰掛けた。ぼくはその辺にあったパイプ椅子に腰掛ける。香川さんがボブヘアを耳にかける仕草をした。ぼくはここに来た目的を忘れ、きれいな子だな、とぼんやりと思った。
「きみ、名前は?」
香川さんが首をかしげる。ぼくは虫の羽音よりも小さな声で、「田端良真です」と言った。
「リョウマって、どういう字?」
「善良の【良】に、真実の【真】」
「へー!きれいな名前」
名前なんて褒められたことがないから、ぼくは思わず照れてしまう。右のほほをぽりぽりと掻いていると、香川さんはふふっと笑った。
「最後にお見舞いに来てくれる人がいて、わたしは幸せ者だあ」
香川さんがひとりごとのように言う。最後、とはどういうことだろう。「どういうこと?」だなんてぼくが聞く隙も無く、香川さんはふわりと言い放った。水素よりも軽そうな、そんな口調で。
「わたし、もうすぐ頭の中の爆弾が爆発して死んじゃうんだよねえ。多分、一週間後ぐらいに」
ぼくには、姉がいた。「いた」と言うからには現在進行形ではいないわけで、まあ結論から言うと、三ヶ月前に姉は死んだ。
なんの因果だろうか、姉も香川さんと同じく「百合」という名前で、そして頭の中の爆弾が爆発して死んだ。
それは、いわゆる「爆弾病」という病だった。正式名称は長すぎて覚えていない。頭の中に爆弾の性質を有した腫瘍ができてしまう病気で、爆弾に下手に刺激を与えてしまうわけにもいかないから取り除くこともできない。そんな、たちの悪い病気だ。
爆弾はやがて大きくなり、最終的には、座った時などの些細な振動で爆発してしまう。そこまで大きな爆発は起こらないが、それでも爆弾の持ち主は死んでしまう。さぞかしグロテスクな光景だろう、とぼくは思う。
ぼくは姉のことが大好きだった。それはもうシスコンと呼ばれるぐらいには。
ぼくはやっぱり昔からノロマで、人付き合いも下手くそだった。父も母もクラスメイトもぼくに冷たかったけれど、姉だけはぼくに優しかった。ぼくの話を楽しそうに毎日聞いてくれた。
だから、無理もなかったと思う。ぼくが、姉に対して家族として以上の好意を抱いてしまったのは。』
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