18.絶対、結婚
いきなり『つれてきた恋人は雨女』と告げてしまった曹長さん。
初対面の女性について、まだなにも知る由もないお父様も、ぽかんとした顔のままになっている。
だが澪は密かに俯き、唇をぎゅっと結んで身体を固くしている。
なんで、曹長さん。そんな忌み嫌われそうなことを言ってしまうの? せっかく恋人ができたとお父様が安心した顔を見せてくれたのに。
今日、ここで笑顔で去って、そこから先は二人の問題。いつのまにか別れたままにしておけばいいだけのことなのに……。
そしてお父様がまた、じっと息子を見据え、険しい声音で尋ねた。
「何故、雨女だと? 陸曹長のおまえがそう言い切るからには、理由があるんだな。言ってみろ」
他人様に対して根拠のない謂われを軽々しく言うな――。そんな叱責が、無言の眼差しに込められている気がするほど。
そしてまた曹長さが怯んでいる。ほんとうに、上官以上に父親が上官なんだと澪も感じる。そう、遭難救助の時、本部のテントに待機していた中隊長さんみたいな厳格さがお父様にある。
「あの、お父様。私が雨女というのは、そういうことが重なりやすいというだけで……」
澪が恐る恐る口を開いた瞬間、お父様はすっと手のひらを向けて制した。
その仕草は静かで、しかし絶対的だった。
お父様もまた『陸曹長たるもの、根拠なしに言葉にするはずがない』と、息子のキャリアを信じているからこその問いなのだと澪は悟る。
しばし思いあぐねていた様子の曹長さんが、やや躊躇うように口を開く。
「彼女を救助した時、彼女が雨女と言われているせいで、遭難したと知ったこと。彼女と会う度に雨が降っていて、嘘ではないのではと感じていること。彼女のお母様が龍神の存在を信じているから……だよ」
「雨女だから遭難した? お母さんが龍神を信じてる……?」
顔をしかめる父親が、陸曹長のくせに根拠のないことを信じて動いているのかと、今すぐにも怒り出しそうな顔をしていて、澪はハラハラしている。
怯える澪のそばへ、お祖母ちゃんがそっと寄り添い、背中を撫でてくれた。
続いて彼も、躊躇う面差しから意を決した眼差しに変化する。
「最初から順を追って話す。いいね、澪さん」
彼の口調が、陸曹長の時と同じ、揺るがない頼もしい声になった。
澪自身も『雨女』なんて不確かなことを、彼の父に聞かれるのはどうかと思ってる。でも、お父様が『噂のような
そこから彼が、澪を雪山で見つけたこと、澪が意識を手放さないよう北方陸曹長が常に話しかけているうちに、雪山に入った事情を澪の呟きから知ったことを説明しはじめた。
土砂降りの結婚式のことも、澪が職場で孤立したことも。役員の姪が同期同僚で、澪を困らせようとして、ほんの少しのつもりで置き去りにしたことも――。
この時点で、お父様が『はあ!? なんだそれは!』と憤りを見せた。
澪に寄り添ってくれていたお祖母ちゃんもだった。
「なんなのそれ! そんな幼稚な子が職場で我が物顔にしていたの? 上司はどうしたの上司は!!」
「そうだ。琥珀! それで、そいつらは澪さんに謝ったんか!?」
まるで我が子に厄災が起きたかのように、お父様とお祖母ちゃんが一緒に怒り出して、澪のほうが驚きおののいている。
しかし曹長さんは自衛官であるときと同様、感情を見せない氷のような揺るがない表情で、さらに淡々と父親に告げていく。
「直接の謝罪はない。でも、先月、時雨のお父様と弁護士を通じて、書面と慰謝料などで、示談終結している」
「なんだと……。無責任に山に入る
病室にお父様の声が鳴り響き、さらに澪はびくっと身体を強ばらせ硬直した。
「こら、
「あ、いけね。つい……すまん……」
今度はお父様が母親に窘められシュンとして声をすぼめた。
でも澪には、お父様にすっかり生気が戻ってきたのでは――、と思えるほどの迫力だった。
「雨女さんとかいう話しだったよね? そういえば、澪ちゃんの姿を初めて見た時、雨が降り始めて、こはくんに大福を濡らさないようにって言いながら車を降りたところだった……」
お祖母ちゃんも思い出したのか、ハッとした顔つきにある。
そのままそばにいる澪を見上げ、マジマジと見つめられている。
皆がひと息ついた間に、また琥珀さんが静かに続きを語り始める。
「時雨のお母様のご実家では、雨は歓迎の印として継承されていると言っていた。俺が札幌の地本まで、澪さんとご両親に面会に行った日も雨で、別れるときに虹が出ていた。その時はまだ、たまたまだと思っていたけど……。それから会う度に雨で、でも、楽しいことが増えていった……」
楽しいことが増えていった――。
それは琥珀という男性と過ごした時間のまごうなき真実に聞こえ、その言葉に、澪はふっと胸を掴まれた。
楽しく感じてくれていた……。雨を連れてくる女でも……。
そう思っただけで、澪の瞳にふっと熱いものが溢れ出てくる。それがポロリと雨粒のように落ちていった。
曹長さんも言葉を止め、父親と向き合っていた真剣な構えが緩み、澪をの涙を知って驚いている。
「澪さん?」
「雨女でも、会うとき楽しかったと言ってくれて……、嬉しいだけですから、気にしないでください……」
泣きながら呟く澪だったが、お祖母ちゃんの手が頬まで伸びてきて、ハンドタオルで優しく押さえてくれている。その柔らかな手つきと優しい洗剤の香りに触れ、また澪の目から涙が流れ出す。
「ジメジメした女って、学生の時のカレシに言われて……。会うたびに雨でつまらないって……別れるときに言われて……。でも琥珀さんは……」
嘘では決して出てこない涙。澪が嗚咽を抑えているかわりに、ざあっと雨の音がこの病室を満たしていく。
「たしかに、雨だよなあ」
お父様がリクライニングベッドに寄りかかったまま外へと視線を馳せ、ぽつりと零した。
「澪さんが会いに来て、すぐに。あんなに雨が降らなかったのに」
お父様がどこか呆れたような息をふっと吐いて、でも肩の力が抜けたように、ベッドの背もたれに身を預ける。
「会いに来てくれて、ありがとう。もし、澪さんのおかげであるならば、お母様のご実家にいらっしゃる龍神様に御礼を、一農民の感謝としてお伝えください」
お父様が初めて、頬を緩め優しい微笑みを澪に向けてくれた。
「琥珀を、よろしくお願いいたします。無骨な男ですが、これと決めた者には尽くしますから」
ベッドに身を預けたまま、小さく頭を下げてくれる。
澪も慌てて涙を拭い、深く頭を下げてお辞儀を返した。
「なんか、疲れたな。ひさしぶりに大声を出してしまった」
つい先ほどまでの張りつめた気配がふっとほどけ、お父様は大きく胸で息を吸い込むと、そのまま静かに目を閉じた。
ほんの数分前までの威厳ある姿が嘘のように、儚い佇まいへと戻っていく。
「
お祖母ちゃんの柔らかな声に、澪と曹長さんはそっと顔を見合わせた。
これ以上は負担になる――。そう悟って、お暇することに決める。
お父様は目を閉じたまま、まるで急に疲れが押し寄せたように動かない。
雨音だけが病室に残る中、お祖母ちゃんに見送られ、二人はそっと外へ出る。
引き戸が閉まると、雨音が少し遠ざかり、廊下の空気がひんやりと澄んだ。
「琥珀、澪さん。来てくれて、ありがとうね」
お祖母ちゃんも廊下に出てきて、優しく微笑む。
「ひさしぶりに元気に声を出す白磁を見られて、ほっとしたわ。ただ気力を失っていただけみたいね」
その言葉に、澪の胸がじんわりと温かくなる。
嘘のご挨拶だったはずなのに、あの病室で交わされた言葉は、どれも嘘ではなかった。
「祖母ちゃんも無理すんなよ。病院がしてくれる完全看護なんだから、ほどほどに」
「うん、わかってるよ。澪ちゃん、また琥珀と会いに来てね。白磁、嬉しかったと思うの」
「ありがとうございます。そして、お騒がせいたしました。みっともなく泣いてしまって……。お大事になさってください。お早いご回復を祈っております」
お祖母ちゃんにも楚々とお辞儀をすると、大福のお祖母ちゃんらしいふくふくとした笑顔を見せてくれた。
だからなのか。おばあちゃんっ子を自称していた曹長さんも、とても嬉しそうに琥珀の瞳を輝かせている。
これで良かったのかな。
偽の恋人を演じる大一番だったが、これは優しい嘘なのだと……、許されることを澪は雨空に請う。
無事に嘘の恋人ご挨拶を終え、澪は札幌へ戻った。
一泊だけ名寄のビジネスホテルで過ごし、翌日は曹長さんが名寄ドライブに連れて行ってくれ、少しだけ一緒に苔の採取をすることもできた。
「タマゴケ。名寄でたくさん採れて最高」
曹長さんが連れて行ってくれた森林道で見つけたお気に入りの種だった。ふわふわの緑の苔の隙間から風船のような胞子が茎を伸ばして生える『タマゴケ』。
これを使えば、原っぱのような表現が使える。メルヘンチックな苔なのだ。
わくわくしながらガラスドームのどこに配置しようかとピンセットでつまんだ時だった。スマートフォンから着信メロディ。
曹長さんから久しぶりの連絡――。しかも通話で。
しばらく演習で忙しいからと、メッセージの着信すら日が開いていたから、突然だった。
苔を手放し、おもむろにスマートフォンの通話ボタンをタップ。『澪さん、おげんきでしたか』――。久しぶりの琥珀さんの声に目を細めた澪だったが……。その彼からの連絡第一声が。
『演習を終えて見舞いに行きましたら、父が、絶対に澪さんと結婚しろと言いだしまして――』
「はい!? け、結婚……って、どうして!?」
澪が札幌に戻ってから、何が起きていた?
❇️タマゴケ
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