第29話 放課後のピアノ

 この学校には、管理棟と呼ばれる建物がある。

 職員室や生徒会室、図書室や美術室、音楽室といった特別教室がずらりと並ぶ。

 文化部が練習で使ったりすることも多い。


 星見さんと一緒に図書室での勉強を終えた夕暮れ時、部活を終えた生徒たちが、わいわいと話をしながら引き上げるところだった。


「俺、ちょっと寄って行くとこがあるから」


「そうなんだ。分かった、じゃあまた明日ね」


 少し名残り惜しい……けど、仕方がない。

 軽く手を振ってくれる星見さんとはお別れして、向かった先は音楽室だ。


『今夜やるから。夜9時に管理棟前に集合』


 そんなメッセージが、神楽耶から届いていたのだ。

 下見という訳ではないけれど、音楽室がどんなところなのか、じっくり見たことなんてなかったから。

 だから、ふらりと覗いておこうかと思ったんだ。


 上階のフロアに上がると、遠くから軽やかな音が流れてくる。

 ピアノだ、音楽は素人の俺だって、そのくらいは分かる。

 もう人影がないこの場所で、まだ誰かがいるんだろうか。


 気になって歩を進めて、音楽室の窓から中を覗き込んだ。


 ……うわ……っ


 そこには、女の子が一人いた。

 大きなグランドピアノの前に腰掛けて、両手をいっぱいに動かして、指を鍵盤の上で這わせている。

 向こう側の窓から差し込む夏の夕陽が、音楽室の中に陰影を形作る。

 オレンジ色の光を浴びた彼女は、同時に黒い影もまとっている。


 滑らかに動く指先が紡ぎ出すのは……俺でも知っている、有名な曲だ。

 確か、『別れの曲』……かつてショパンという作曲家がいて、その人が作った曲だと習ったことがある。


 優しくて物悲しくて、そしてどこか懐かしくて。

 なにか大切なものに、自然に想いを向けさせてくれる。

 最初に耳にした時に、そんな印象が心に残った。

 だから、まだ覚えていたんだ。


 その場でじっと聴き入っていると、やがて演奏が終わった。

 そしてまた最初から、同じ曲が流れてくる。


 綺麗だ、流れてくる優しい音律も、夕陽を浴びながらピアノに寄りそって滑らかに指を滑らせる姿も。

 そして、ひたむきにピアノの向き合う彼女の横顔も。

 思わず時間を忘れて、見とれてしまいそうになるほどに。


 練習をしているんだろうか、一人で。

 だったら、邪魔しちゃいけないな。


 そのまま中には入らないで、その場を立ち去った。

 集合時間までどこで過ごそうかと、ぼんやりと考えながら。


 そして夜の9時、再び学校の門をくぐった。

 校内ではあまり目立ちたくはなかったので、街の中をぶらついて時間を過ごしてから、ここに舞い戻った。

 

 辺りは真っ暗だ。

 街灯や非常灯が点々と灯っているのと、職員室がまだ光が漏れているのを除いては。


 昼間の空気とは、何だか違うな。

 同じ景色のはずなのに、なぜだか別の場所に来たような気がする。

 生徒同士の明るい声もなくてしんと静まりかえった、陰に満たされた場所。

 背の高い樹木が風にざわざわと揺れる、そんな音だけが耳孔に忍び込む。

 七不思議が生まれても不思議はない世界、そんなふうに思えてくる。


 そんな中、管理棟の脇に、人影が二つあった。

 言わずと知れた、桐瀬と神楽耶のものだ。


「よっ、お待たせ」


「うん、お疲れ」


「どもです~♪」


 いつもの陰キャバージョンの桐瀬に、オカルト大好き少女の神楽耶、なんだか本当に肝試しっぽいな。


「職員室に、まだ誰かいるみたいだな。見つかるとやっかいだな」


「そ~ね、こんな時間まで、ワーカホリックには困ったものね。でもまあ、何かあった時は助けを呼べるしね」


「な、何かって、何よ……?」


 いつになく覇気が無い桐瀬、声が震えていないか?


「それはさあ、眠っている何かが呼び起されて、私たちの目の前に現れるかもってことよ。ワクワクするよねえ、ねえ?」


「しないしないそんなの! さっさと済ませて帰りましょう!」


「まあまあ、肝試しみたいなものだよな? 気軽に行こうぜ」


 俺としては正直、このことは指令だとは思っていない。

 あまりにも雲を掴むような話で現実感がないし、何をどうしたらいのかも分からないからだ。

 気楽に済ませて、家に帰って風呂にでも浸かりたい。


「まあ何かあっても、私の霊力で何とかしてあげるから」


 そんなの見たことがないんだけど、本当にあるのかよ?

 ほら、桐瀬が余計に怖がってるじゃないか。

 それにしても、こいつがこんなに臆病者だったとは、知らなかった。


「何かあったらじゃなくてね、何もなくしてよね! 霊能力者なら、それくらいできるでしょ!?」


「はいはい。まあ、相手が魔王様や破壊神とかじゃなければね。じゃあ行くよ~」


 なかなかに頼もしいな、勇者様よ。

 いたってお気楽な神楽耶を先頭に、真っ暗な校舎の中を進んでいく。


「こういう人がいっぱい集まる場所ってさ、色んな人の想いが集ってくるんだってさ~。それが時に形になって、私たちに語りかけてくるの。あ、ほら、今だって何か聞こえない?」


「や、やめなさいよ、今そんなこと言うの!」


「色んな人の想いって、それって幽霊ってことか?」


「まあ、そんな形になって出て来ることもあるわね。他には物が動いたり、変な音が聞こえたり。波長が合えば、家にまでついて来ちゃうことだってあるわね~」


「だ、だから、やめなさいって、そんな話!!!」


 何だか、今日は可愛くて面白いぞ、桐瀬。


「そ~だ、ついでに美術室にも寄って行こうか? 肖像画の七不思議もあったよねえ。絵が動くんだったっけ?」


「ええっ!? そんな余計なことやめて、さっさと済ませて帰ろうよお!!」


 それには賛成だ、腹も減ったし、できるだけ早く帰りたいもんだ。


「何よ、つまらないわね~。まあいいわ、じゃあまず音楽室ね」


 ひたひたと暗い階段と廊下を踏みしめて、やがて音楽室へ……

 

 ……?


「ねえ……何か、音がしない……」


「うん、するね~。何者かの気配もする」


 これは、ピアノの音だな、しかも聞き覚えがある。


「別れの曲、だよな。ショパンの」


「そ~ね、よく知ってるね秋葉。じゃあ正体を確かめるか」


「わわ、ま、待ってよお~!」


 音楽室は灯りが無くて真っ暗で。

 そこから柔らかで物悲しい旋律が流れてくる。

 扉に手をかけようとすると……


「おい、だれだ君たちは!? こんな時間に何をしている!?」


 ……!!!


 唐突に放たれた声に驚いて振り向くと、そこには男の人が一人で立っていた。

 まずい、怪しまれたかな?

 何とか誤魔化さないと、放課後倶楽部の存在が明らかになってしまうと大変だ。


 チラリと桐瀬の顔を覗くと、プルプルと唇が震えているじゃないか。

 いつもはこういう時に頼りになるのに、今はまるでか弱い子猫のようだ。


「あの、すいません。俺たち学校に残って勉強をしてて! 遅くなって一緒に帰ろうとした時に、ちょっと肝試しをしようってことになったんです。それで校舎を歩いていると、音が聞こえたものでして……」


「全く……下校時間を過ぎて無断で学校にいるのは、禁止だぞ!」


「はい、すみませ~ん。横山先生~♪」


 そうだ、神楽耶が口にした通り、この人は横山敦よこやまあつし先生だ。

 まだ若い男性教師で、音楽部の顧問もしている。


「これって、誰かが練習してるんですかあ?」


「まあ、そうだ。僕が許可しているんだ。だから邪魔はしないでもらたい」


 優しく諭すような話し方だけど、目は真剣だ。


 あ? ピアノが止んだな。


 思ったそのすぐ後に、音楽室の扉がガラリを開いた。

 その向こうにいたのは、黄昏の陽光を浴びながらピアノを弾いていた、あの子だった。




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