第2話 二〇一〇年のそいつと彼女の話②

「こんなことあるの?」

「何がだ?」

「いやだって……ほんとに何もしてないの?」

「していない。する必然性がない。無駄なことをすることは否定しないが、だからといって好き好んで無駄なことはしない」

 朝になった。七時半。彼女は目覚め、そいつはそこでやっと手を離した――両手が使える素晴らしさに感銘を受ける暇もなく、彼女がああだこうだと言葉をぶつけてくる。

「でもさ、なんていうの……道理? 男らしさ? みたいなのがあるじゃん。昨夜の私みたいな女を前に、何もしなかったとかおかしくない?」

「脚本を書いていたし、お前の手を握っていた――これ以上、何をしろと?」

「えー……でも……えぇ……なんでそんな落ち着いてんの? 私に魅力ない? だから振られたのかな……」

「自分で言って落ち込むな、めんどくさい――俺は女の味を知っている。だからそれがつまらんものだと知っている。であれば、わざわざ手を出すことはない。美味いものなら食べるし、まずいものでも食べる。ネタになるからだ。そのどちらでもない、半端なものを食べる理由はない。無駄を重ねて経験値は生まれるが、その役にも立たん――セックスの快楽なんてそんなものだろう」

「よく喋るね、君らしくない」

「ああ。眠いから話して誤魔化しているだけだ」

 二十歳とはいえ、予告なしの徹夜をすれば眠りたくなる。それも延々と執筆をしていたのだから、疲れも溜まる――脚本の完成は夏休み前に終わっていればいいが、当たり前の話、初稿で終わるわけがなく、叩き台としての原稿を上げるのは早い方がいい。

「……なんか、ごめん」

「謝るな。そんなことより分析しろ」

「分析?」

「どうして振られたのか。そもそも、どうして自分を振るような男を好きになったか――恋愛も他のあらゆるものと同じで、失敗を反省して活かさないといつまで経っても不幸な目にしか遭わない。それでいい、というならともかく、普通は次は成功させたいと思うだろう。だから分析しろ、と言っている――また同じことして、その時にまた俺を使えると思うな。俺はそこまで都合のいい生き物ではない」

「……眠いの?」

「ああ。だが十三時からバイトだ。下手に眠れば遅刻するから寝ない」

 一日二日、寝ない程度で人間は死なない。パフォーマンスは下がるが、金のためだけにやっている仕事なんて、それくらいの状態でやるべきものだ。どうあがいたって面白くなるわけがないものなんて、その程度の価値しかない。

「……やっぱり私が悪い、のかな?」

「そう思うなら、それこそ分析すればいい。また同じことをしないように」

「……独りで、できるかなぁ」

 彼女は不安げだ――言う必要性は感じないが、言うしかないことでもあった。だから言う。世の中なんてそんなものだろう。やりたいとかやらなければならない、よりも優先しなければならない物事の流れ、とでもいうか。

「力を貸してやるくらいはできる――たとえば、朝食を食べるとかな」

 彼女は目をぱちり、とさせて、感嘆の声を出した――相手の求める言葉を見つけて口にするくらいの芸当ができないで、どうしてライターだと言えよう。それだけのことだった。

 ――とはいえ。

 男の適当な飯を食べさせるのは申し訳ないと思い、そいつは彼女を連れて外に出た。五月末の朝、Tシャツとジャージでは寒いかと思ったが、彼女は意外にも快適そうだった。

「雪国育ちだから」

 それが理由らしいが、雪国の人間が誰でも寒いのに強いわけではないだろう。ただの彼女の性質だ。

 そいつが向かったのは、まずは土日は朝から営業している銭湯だ。男独りならともかく、女が一日、風呂に入らないでいるのは不快だろうし、その状態でモーニングをやっている喫茶店に行けば、彼女の評価を下げかねない。

「君って、意外に気が回るの?」

 という説明をしながら歩いていると、彼女はそんなことを言った。肩をすくめる。

「誰だって普通はこれくらい考える。実践するかどうかって話だ」

「君はするんだね? なんで?」

「自分で考えろ。誰もが答えを教えてくれるなんて思うものじゃない」

「えー、いいじゃん。っていうか、教えてくれないとわかんないよ――そんなに君のこと知らないもん」

「そうだな。だから振られたんじゃないか?」

 どす、と。

 そいつは彼女に腹を小突かれた――意味を通じたらしい。彼女が振られた理由のひとつには、彼女が彼氏を理解しようと努めなかった怠惰さあったのではないか、とそいつは考えたのである。それを皮肉のような形で伝えたのは、まぁ、性格が悪いわけだが。

「私、ちゃんとしてたもん。彼のこと、たくさん知ろうって」

「それを自己満足で終わらせたんじゃないか。相手を理解するためのゴールは結局、相手にしか決められない。自分でゴールを決めても、それがスタートラインかもしれない」

「……朝からなんでそんなまじめで面白くないこと言うの?」

「寝てないから、俺の中ではまだ夜だ」

「嫌味だー」

「お前を適当に擁護すればいいか? それこそ、正しく無意味だが」

 女は意見ではなく同意を求めるというが、そんなものに付き合ってやる必然性はない。もし彼女のことをそいつが好きであれば話は別だが、明日、行方不明になっても特に思うことのない程度の相手だ――中高の時の同級生と、大学の同級生では意味合いが違いすぎる。特にそいつは田舎の出身で、同級生全員の顔と名前を知っていたが、大学の同級生のそれらはほとんど把握していない。そもそも、同級生が何人いるかもわからないのだ。

 だから情がない話だが、深い付き合いのない相手の心情まで理解して、細心の注意を払って関係を構築、維持するというのは不可能だ。できる人もいるだろうが、少なくともそいつはそんな器用ではない。嘘を吐いてそれらしい付き合いをすることは可能だが、不特定多数の相手全員にやれ、というのは人間のキャパシティを軽く超えている。

「君、モテないでしょ」

 断定されたが。返す。

「高校時代には三人の女子と付き合った」

「うそぉ!? 信じられないんだけど――三人ってことは、二人は振って今は三人目の子と……?」

「いや。三人とも半年で振った」

「さいてー人間! 怪我しろ!」

「理由があった――その前に風呂だ。着いたぞ」

「あ、ほんとに銭湯なんだね」

「そういう風呂屋に女を連れて行くわけないだろう」

 どういう男と思われているのか、とそいつは思ったが、一晩中女に手を出さなかったから溜まっているのか、と思い直した。どちらにせよ、くだらない話だ。

「代金は俺が払ってやる。サウナ代は出さんが」

「ケチじゃん」

「傷心していると百五十円も出せないのか。それは初めて知ったな」

「ひーにーくー……いいよ、お風呂だけで。サウナとかおじさんの趣味でしょ」

 そいつはサウナが好きでよく利用しているのだが――だから老成している、と言われるのかもしれない。そいつは自分のことを若者らしい若者だと思っているのだが……。

 受付で金を払い、そいつは彼女と別れた。風呂を上がったら、いなくなっているかもしれない。それでもいい――どうでもいい。結局のところ、彼女に関して思うのはそれだけだ。どうでもいいから、時間を割ける。人間、どうでもいいことができなくなったら終わりだ。それこそ、恋愛やセックスなどその筆頭でしかない。子作りの意図がないのであれば、そんなものはどうでもいい、カスみたいなものだ。

「……さて、どうなるか」

 本当に彼女がいなくなっていればいい――風呂で使う諸々のアイテムを受付で買ってやったわけだが、その代金も無意味になるが……それだけだ。わざわざ恩義に感じて待っているような女では、それこそ男に振り回されるだけの恋愛しかできないだろう……。

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