恋愛回路の不具合(ショートショート)
@Haruki_Kasiwagi
恋愛回路の不具合
視界が歪む。心臓の鼓動がうるさいほどに響く——え、ちょ、まっ……
僕の、いや、僕“だった”者の思考回路は、軋轢音と共に停止寸前だった。目の前の光景、状況、それら全てを処理しきれず、まるで古いPCに最新のVRゲームを無理やり動かそうとするように、思考が熱暴走しそうだった。
「理解が追いつかない? 無理もないわ。だって、あなたは今、恋をしているのよ」
目の前の女性——愛染刹那。艶やかな黒髪に、吸い込まれそうなほど深い藍色の瞳。完璧なまでのプロポーションを包む、白く輝くドレス。まるで、ギリシャ彫刻から抜け出してきた女神のよう。いや、女神“以上”かもしれない。だって、僕の視界には、彼女の頭上に燦然と輝く、巨大なハートマークが表示されているんだから。
「……恋? 俺が? こんな、美しすぎる人に?」
思わず自分の冴えない風貌を確認してしまう。ボサボサの髪、くたびれたTシャツ、慢性的な寝不足でクマだらけの顔。鏡に映った自分の姿は、まるで“恋愛”という華やかな舞台に乱入してきた、場違いなピエロのようだった。
「そう。あなたみたいな、冴えない、凡庸な、つまらない男に恋をしたのよ、この私が」
彼女は、まるで意地悪な子供のように、クスクスと笑いながら言った。その声は、鈴の音のように美しく、僕の耳朶をくすぐる。くすぐられる? なんだ、この感覚は? 胸がドキドキして、息苦しい。これも、恋? 本当に? だって、こんなの、まるで……
「バグみたいだ」
思わず呟いた僕の言葉に、彼女は目を丸くする。彼女の微笑みは美しかったが、どこか憂いを含んでいるように見えた。ほんの一瞬、迷いがよぎったような——気のせいか?
「バグ? 面白い表現ね。確かに、そうかもしれないわ。だって、これは“意図的に”起こされた恋なのだから」
意図的? 一体どういうことだ? 僕は混乱の渦の中にいた。
「説明しましょう。私は、恋愛工学研究所の研究員、愛染刹那。そして、あなたは、私たちの最新技術、“恋愛回路移植チップ”の実験体第一号よ」
恋愛回路? チップ? 実験体? そういえば……どうやってここに来た? いや、それ以前に——僕の脳内は、まるで情報過多のインターネット回線のようにパンク寸前だった。
「簡単に言うと、あなたの脳に、特定の人物に恋をするようにプログラムされたチップを埋め込んだの。その対象が、私というわけ」
「……は? そんな、バカな……」
「バカな、じゃないわ。これは、科学の勝利よ。もはや、恋をするのに、時間をかける必要も、努力する必要もない。ただ、チップを埋め込むだけで、誰でも、どんな人にも、恋をすることができる。素晴らしいと思わない?」
愛染刹那は、まるで世紀の大発明をした科学者のように、胸を張った。しかし、僕には、それがまるで、恐ろしいディストピアの幕開けのように思えた。
「でも、俺は……こんな、勝手に恋をさせられるなんて……」
「勝手に? いいえ、あなたは同意したわ。ちゃんと契約書にもサインしたはずよ。ほら、これ」
愛染刹那は、タブレット端末を差し出した。そこには、確かに僕のサインがあった。しかし、そんな記憶は一切ない。
「……覚えてない……」
「まあ、よくあることよ。実験前に、軽い記憶操作を施しているから。倫理的な問題を避けるためね」
倫理的な問題? 倫理的な問題を起こしているのは、あなたたちの方だろう!と、叫びたくなった。しかし、不思議なことに、その言葉は出てこなかった。代わりに、僕の口から出たのは、こんな言葉だった。
「……刹那さん、愛しています……」
ああ、なんてこった。僕は、完全にこの恋愛回路の虜になってしまっている。まるで操り人形のように、愛染刹那の言葉に、行動に、一喜一憂する。彼女の笑顔を見れば、心が舞い上がり、彼女の悲しそうな顔を見れば、胸が締め付けられる。彼女の声を聞くだけで、胸が温かくなる。それが“自然”じゃないと、頭では理解しているのに。
それから数日間、僕は、愛染刹那の“恋人”として、研究所内で過ごした。食事をし、映画を見、散歩をする。まるで本当の恋人同士のように。しかし、それは全て、チップによる偽りの感情だった。
ある日、僕は、研究所の資料室で、偶然、恋愛回路移植チップに関する機密文書を発見した。そこには、恐ろしい事実が記されていた。
“恋愛回路移植チップは、被験者の感情をコントロールするだけでなく、最終的には、被験者の自由意思を完全に奪い、思考を停止させる。チップを埋め込まれた被験者は、やがて、自我を失い、ただの“人形”と化す”
さらに、小さな文字でこう書かれていた。
“チップは、物理的な破壊では除去できない。唯一の方法は、愛染刹那への憎悪を限界まで高めること。”
僕は、全身に鳥肌が立った。これが、愛染刹那の真の目的だったのか。彼女は、恋という名の呪いを使って、僕を、そして、多くの人々を、操り人形に変えようとしているのだ。
「……許さない……」
初めて、チップの支配から逃れようとする衝動が、僕の心を突き動かした。憎悪。そうだ、憎めばいい。彼女を憎めば、この呪縛から逃れられる。
しかし、それは容易なことではなかった。愛しているというプログラムと、憎悪を強制しようとする自分自身の意思。心が引き裂かれそうだった。
数日後、僕は機会を伺っていた。愛染刹那が、僕にコーヒーを淹れてくれた時、僕は覚悟を決めた。
「刹那……貴様を憎む!」
カップを叩き落とし、叫んだ。
愛染刹那は、驚愕した表情で僕を見つめた。その表情は、演技ではない、本物の驚きだった。
次の瞬間、僕の脳天に、激しい痛みが走った。視界が白く染まり、意識が途切れた。
……
僕は、ゆっくりと目を開けた。見慣れた天井。いつもの自分の部屋。
「……夢……だったのか?」
胸に手を当ててみる。傷跡はない。恋愛回路も、愛染刹那の記憶もない。全てが、まるで悪夢だったかのように、消え去っていた。
「……でも……」
かすかな違和感が、僕の胸に残っていた。まるで、何か大切なものを失ってしまったような、空虚な感覚。
その時、僕のスマートフォンが鳴った。見知らぬ番号からの着信だった。
恐る恐る電話に出ると、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「もしもし、あなた? 私、愛染刹那。恋愛工学研究所の……」
「……っ!」
僕は、思わず息を呑んだ。悪夢は、まだ終わっていなかった。
「今、そちらに向かっているところなんだけど……今日は、あなたを憎む実験をしましょうか」
愛染刹那の声は、冷たく、鋭かった。まるで、獲物を狙う獣のように。
恋愛回路の不具合(ショートショート) @Haruki_Kasiwagi
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