タイミングが全て

lager

一夜の過ち

「やっちまった……」


 常夜灯がぼんやりと照らす見慣れない部屋の中で、ベッドに腰かけた私は深々と溜息を吐いた。

 ガンガンと頭が痛み、口の中が粘ついて気持ち悪い。

 

 ローテーブルに散らばったままのスナック菓子と飲みかけの缶ビール。

 床に脱ぎ捨てられたままの二人分の衣服。

 壁にかけられた時計を見れば、深夜3時過ぎ。

 

 記憶を手繰り寄せ、順を追って整理していくうちに、自分がしでかしたことの重大さに気づき叫び出したくなる。


 昨日は金曜日だった。

 同じ会社に勤める恋人は一昨日から出張で、私はぽっかりと空いた土日の予定を何で埋めようかと、浮かれながら仕事をしていた。

 そんな程度には、今の恋人との関係に倦んでいた。


 いつからだろう。彼と過ごす休日の予定を考えるのが億劫になったのは。

 仕事がある平日はいい。一日の大半はお互いにやるべきことがある。仕事が終わって家に帰っても、あたりさわりのない会話と簡単な食事を済ませたら、あとは2~3時間適当に過ごせばもう寝る時間だ。

 けれど、休日ともなれば、お互いの予定を確認して、時間が合えばあれをしよう、これをしよう、どこに行こう、なんて、いかにも恋人らしいことをしなければならない。


 悪い人ではない。

 ギャンブルもしないし、煙草も吸わない。金遣いが荒いわけでもなく、酒癖が悪いわけでもない。

 仕事に対しては真面目だし、社内でのポジションもいい。

 優良物件だ。間違いなく。


 


『先輩、ありがとうございました』


 一昨年に入社してきたこの後輩君は、正直パッとしない印象の男の子だった。

 取柄と言えば真面目なところと礼儀正しいところで、上司からの覚えは良いが、取り立てて有能ということもない。気が利く時もあれば利かない時もある。教えたことを一度で覚えることもあれば、同じ失敗を繰り返すこともある。


 まあ、私だって自分が有能なキャリアウーマンだとは思っていない。ドン臭いところがあるのはお互い様と思って仕事を教えていたら、それなりに互いのことを話す仲にはなった。

 私は彼に恋人がいないことを知っているし、彼は私に恋人がいることを知っている。

 

 手を出してきたのは彼だ。

 ただ、誘ったのは明確に私だった。


 意外なほど力強い腕の筋肉。

 潤んだ瞳。

 熱い吐息。

 若い薫り。


 ずきりと頭の奥が痛む。

 胸の奥が黒々と疼く。

 落ち着け。

 私は過ちを犯した。

 だけど、大事なことはミスをしないことじゃない。ミスが起きたときにどうカバーするかだ。


 まず、なんとしても彼の口を塞ぐ必要がある。


 こうなってしまった以上、今の恋人との関係は続けられない。自分にそんな器用な綱渡りができる自信はない。

 できるだけ早く別れ話を切り出さなければ。


 問題はタイミングだ。

 この子の私への気持ちは確かだ。目を覚ましたとき、彼が罪悪感に押し潰されないようフォローしつつ、私は転職先を探すべきだろう。

 その後、彼との関係を続けるにしても、それを今の恋人との別れ話に紐づけられたとき、その前後関係だけは明らかにされてはならないのだ。


 考えろ。

 今、私がこの場所にいることを知っているものはいないか。

 いないはずだ。

 仕事の終わり際、休日になんの予定もないと愚痴っていた私に、彼がメッセージを送ってきたのだ。よかったら、自分の家の近くの美味しい洋食屋でメシでも食いませんか、と。

 念のため電車での移動は別々にしたし、駅からはタクシーも使った。

 誰にも気づかれていないはずだ。


 そんなことをひたすら云々かんぬんと黙考していた私は、結局その後一睡もできずに夜を過ごし、謝り倒す彼にくれぐれもこのことは他言無用と念を押して別れ、帰り着いた自宅で気絶するように爆睡した。


 そして、土曜の夜。

 同僚の女子社員から送られてきたメッセージに、私は凍り付いた。


『ハルカさん、よかったら明日ランチ行きませんか』


 その女は社内でも有数の噂ばら撒き人間で、社内で発生したスキャンダルやトラブルはほぼ全て彼女の口によって発散されると言っても過言ではない。当然、私と今の恋人との関係だって彼女は知っている。

 そんな彼女からの呼び出し。

 バレたのか。

 こんなに早く。

 まさか。

 いや。

 そんな。


 私が死刑宣告を受けにいく気分で待ち合わせのカフェに辿り着くと、彼女は申し訳なさそうな、それでいて、隠し切れない喜悦の色が目の奥から滲み出るような器用な表情で、私を迎えた。


「あの。実は私、見ちゃったんです」


 私の顔色が変わったことに、彼女も気づいたのだろう。

 スマホを操作するときの口元が緩んでいるのが分かる。


「見せるかどうか迷ったんですけど、でも、やっぱり教えたほうがいいかと思って……」


 やがて彼女は、一枚の写真を表示して私に見せてきた。


 ラブホテルの入口に入っていく男と女。

 出張に行っているはずの私の恋人と、彼と同じ部署の後輩の女の子の姿だった。



「よしっっっっっ!!!!」



 私の力強い快哉の声と握り拳に、店内が静まり返った。

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