ネームレス、プライスレス

無為憂

 

 「希望」という言葉で何かを指し示す時、何かを言い表す時、私と彼女ではその語に含まれる意味に些細な差異があることに気づいた。

 だから私は、彼女から「希望」という言葉を買った。

 彼女の「希望」は私のものになり、そしてその言葉を失う。

 彼女から言葉を買うのは初めてではなかった。


 今から半年以上前になる去年の暮れ、十二月もクリスマスシーズンに差し掛かった時のことだ。あの頃の彼女──菖蒲夜鷹しょうぶよだかと私は学校帰りに駅前で適当に遊ぶような仲で、その日も駅前の三階建てのマックから無感情に、光り輝くこの街を見下ろしていた。

 市の税金が投じられているイルミネーションやクリスマスツリーを忙殺されて感情のなくなったサラリーマンたちが足早に横切っている。駅を出る方と入る方、その一連の流れを作っている人々をマックシェイク片手に見ながら、よだかと言葉を交わしていた。

 彼女と会話をするのは楽しかった。よだかと知り合ったのはその年の学校の夏期講習で席が隣になったこと、名前に同じ「菖蒲」という言葉が使われていたことからだったが、知り合って以来なんだかんだ気が合って、いつも隣にいた。

 彼女とする話は、たいして意味のないものばかりだった。女子高生というブランドを掲げてするたいして意味のない会話は、その内容の無価値さからは計り知れないほど、一瞬のきらめきを放っていた。その都度交わす一瞬一瞬の会話を、私たちはひとつも覚えていられはしないだろうけど、彼女と過ごした時間にはちゃんと価値があった。

「あやめはさ、将来なりたいものとかある?」

 おそらくスーツを着た人間を見たことで出た話だった。彼女はMサイズのスプライトを一口飲むとその強い炭酸に刹那顔をしかめた。

「私は……」

 何を言うか考えてもいないのに話を始めてしまう。そして当然のように言葉に詰まる。

「ないね」ふっと自嘲の笑みを語尾に含ませる。

 私は昔から何者かになりたいという焦燥に似た欲求は抱えているものの、何かになりたいという夢を持ったことはなかった。女の子が夢見るお嫁さんやパティシエ、看護師にパン屋、そういうものにきらめきを感じなかったのだ。それからそのままずるずると十五歳まで生きてしまうと、とくに具体的な目標が芽生えることもなかった。

「訊いたよだかはあるの?」

 そう訊くものの、彼女が今までに夢を語ったことはなかった。彼女もおそらくこれとした考えは持っていない。知っている。私たちはそういう会話を続けてきたから。この会話は無目的で、お互いを安心させるためのものなのだ。

「私もないよ。けどこう、思うんだけどさ『将来なりたいもの』っていう質問もありきたりだよね。求められている答えが一応決まっていると言うかさ」

「職業ってこと?」

「そう。──警察官とか、花屋さんとか。仕事で答えなければならない」マックの三階の席から見下ろす駅前には、交番も花屋もあった。「そういう会話を求められている」

 この頃の私たちには、機械式の会話にうんざりしていたのだと思う。高校受験を終え、自分で選択する必要性が増えてきた。学校の授業で教師に名指しされたら正解を答えなければならない。間違ってもいい。けれど正解を導き出すことを求められる。クラスで恋バナをするときも、「誰々が気になっている」と答えるのがベターだ。「恋愛に興味がない」と答えるのはあまり正しくない。ひいては、進路の話になると殊更に自分自身の答えを出すことを求められている。

 そういう空気に、よだかは、私も、疲弊していた。

「じゃあ、なんて答えるのがいい?」

 私は訊いた。店内はぬるいが冬の時期にシェイクなんて頼むんじゃなかったと後悔しながら。深雪のように融け始めたシェイクを啜る。

「犬、──とか?」

 私の期待に応えるようにわざと外した答えをよだかは寄越した。

「猫でいいでしょ」と私は笑う。

 私もよだかも猫が好きなのだ。動物に振ったはいいもののまだよだかの回答は凝り固まっている。たしかに、とよだかは言い、

「私は海辺で働けたらいいなあ……」

 と空想を頭に思い起こすように口にした。

「そういう話をしたいよね」

 世の中にあるもので明確にする話ではなく。

 よだかは頷くと私の目を見て、わかりやすく視線を合わせてきた。

「あやめと一緒に」

 へ、と声が漏れる。

「隣にあやめがいたらいいなあとは思うよ。ありきたりだけど」

「ありきたりかなあ」

 私は同意しかねる。「いい将来設計じゃん」

「珍しい、あやめが褒めてくれるなんて」

 褒める時は褒めるよ、と私は返す。その将来像はありきたりじゃないもん。

「いつか二人で旅行に行きたいね。それこそありきたりかもしれないけど、京都とか海とか、沖縄とか」

「うん」

 それからすぐには会話が続かず、私たちはまたサラリーマンとか楽しそうにはしゃいでいる大学生とかを人間観察していた。

「幸せなのかな」

 よだかがぽつりとこぼす。意識していないと、店内の喧騒によって、彼女の声はかき消えてしまう。私はそれを丁寧に拾うか少し悩んだ。彼女の独り言で終わらせた方が良い時もある。その方が、美しいから。彼女の黄金比で模られている横顔、その輪郭が、印象に残る。

「私はよだかといる時間が幸せだよ」

 よだかが求めていた答えはそうじゃないと思いつつ、耳触りのいい方を選ぶ。

 よだかは少し顔を赤くしながらも、話を続けた。

「このまま何も考えずに生きて、それこそ必要な時は頑張るんだろうけど、それで私は幸せなのかな」

「幸せだと思うよ」

「やりたいこともないからさ、今のままだと真面目にOLしている自分しか想像できない。でもそんなのは、なんだか普通すぎてつまんないよ。……まるい。平凡。私はまだ違うって信じたくなる」

「──私といれば幸せじゃないの?」

 傲慢な意見だった。隣にいることと幸せで満たされることは違う。私という存在がよだかにとってどれほどのものなのか、過ごした時間で見ればまだ半年も経っていない。そんな女が、そんな女の希望的観測は少々キモすぎではないだろうか。でも、自然と受け入れられる未来も容易に想像できた。よだかが次の言葉を発したのは数瞬後のことだった。

「そうだった。あやめがいるんだった。海辺の街で」

「その話、本当にしよう」

「いいね。私たちも案外ありきたりな人間だね。ロマンチックな言葉ひとつで喜べる」

「……」……ありきたり。

 私はそれに言いしれぬ不快感を覚えた。ここ最近のよだかは、「ありきたり」という言葉をよく使う。好んで使うと言っても良く、それは次第に彼女の口癖になる。

 いくら私がよだかに入り込んでいると言ったって、その人の口癖にまで干渉をしようとは思わない。心に異物感が残るような言葉だったとしても。

 でも、それが私たちのことまで指すようになったとしたら話は別だ。彼女の言葉が作る、彼女が見えている世界のことならまだ許せる。ただそこに、私ではない私がいるというのが不快で、許しがたかった。──残念ながら世界は変えられない。

「……どうした?」

 俯いているのに気づいたよだかが、私に声をかける。その声音は優しさに満ちており、私が不快さを押し隠していることには気づいていないようだった。

「よだか。──あなたを買いたい」

 ぽっと出たのは、そんな言葉だった。買う? 変えるではなくて?

 彼女の目が大きく見開かれる。動揺が見て取れた。彼女を不快にさせてしまっただろうか、私のことをどう思ったのだろうか。

「性的に?」

 よだかの口からその言葉が簡単に出るとは思わなかった。それは一歩踏み込んだものだからだ。その一線を安易に越えようとは思わない。そして私もそんなことは露ほども思っていなかった。

「そういうわけじゃなさそうね」

 私の反応を窺ったよだかが、私が何か言う前に遮られまいと言い切った。

「性的に買いたいと言ってたとしたら?」

「本当に言ってる?」

 険のある言い方だ。これ以上の試し行動は無理だと判断する。

「いや。なんだろう、さっき思った感情をどうにか形にしようとしたら、『買いたい』に行き着いちゃった」

「全部は無理だけど……。一部くらいならいいよ」

「キスとか?」

「まあ、そういうこと」

 友達の一線をゆうに超えている。こんなの軽口を言うみたいに超えるものではないとわかっている。でもキスくらいなら全然よだかと出来る。よだかは可愛いし、出来てしまえる。

 ──一部。どうやら私はよだかの一部を買うが出来るらしい。それがキスであれなんであれ、彼女の一部分を私は私で占められる。

「じゃあ、買わせてもらうよ」

 キスをしたいわけではなかった。でも言ったからには何を買おう、と思う。

 彼女は辺りを見回した。三階のフロアにいる人間は、私たちのことは何一つ気にしていない。

「ん」

 安全を確認してから、よだかは目を瞑った。ほんの少し唇を湿らせて。

「あ」

 遅れてコミュニケーションに齟齬があることに気づく。私は二本指でよだかの唇に押し当てた。彼女は不満そうに瞼を開ける。それから過ちを正すように、キスよりももっと際どいことをしているかのように不埒に笑って、

「よだかの言葉を買いたい」

 と言った。

 言葉? と彼女は当然、疑問を呈する。

「よだかの口癖を買いたいの。私が買ったらその言葉は私以外使っちゃダメ。よだかはその言葉を使う権利がなくなる」

 キスを恋人の証とするなら、その人の言葉を所有するのは何にあたるのだろう。

「なにそれ」とよだかは笑った。「何を買いたいの?」

 よだかは余裕な表情でスプライトをずずずと飲み干す。

「『ありきたり』」

 私はきわめて平温ライクに言った。つとめて平常に、ただの冗談めかして。

「ありきたり、でいいの?」

 なんだ、『好き』とかだと思った、と愛を囁くかのように言った。

 よだかはもっと自分の気持ちを伝えるのに使う言葉を想定していたようだった。

「いくらで買える?」

 買うには値段が必要だ。『言葉』の相場はわからない。だから私はよだかが『ありきたり』にどれほどの価値をつけるのか訊いた。

「うーん千円くらい?」

 高校生にとっての千円はそれほど重いわけではない。大人にしてみれば自分の財布に占める割合は半減、五百円くらいの価値でしかないだろう。一万円よりはずっと安い。それこそダイヤや誕生石のジュエリーを買う値段に匹敵すると言われてしまえば手が出せないが、実質コンビニで夕飯を買うようなものだ。

「じゃあ千円」

 財布から新札一枚を抜きとる。

「本当に買うんだ」

「うん」

「……毎度あり」

 私はよだかのそんな軽さが好きだった。


「なんだか儲かっちゃったなあ」

 門限に近づいてきたので、マックを退散する。日が沈んでから一時間と少し。夜の寒さが厳しくなり始める。ぬるい空気に体が慣れていたので、私たちはほんの少し吹いた風にもマフラーに顔を埋めて悲鳴を上げる。

 まだよだかと別れるには恋しかったので、駅前の広場に飾られているクリスマスツリーのイルミネーションを二人でちゃんと鑑賞する。黄色の光に顔を照らされたよだかが、感傷に浸って口を開く。

「綺麗だね」

「案外、悪くないね。上で見ているよりもずっと」

「そうだね」言いながら私の方にくっついて腕をカップルのように組んでくる。「こんな、あ……」

「何?」

「言えない……買われちゃったから」

「あはは」と私は笑う。殊勝な心がけだなと思って。

 千円を払う価値はあった。

「『ありきたり』?」

 千円で彼女の口癖を封じる価値があった。気持ちがいい。

「うん」と彼女は頷く。

「トクベツに言い換えればいいんじゃない?」

 よだかは、彼女の双眸にイルミネーションの光をめいっぱい吸わせて特別の答えとした。

「本当に、自分の一部を買われたみたい」

「買ったからには、売りつけてもいいし、私の言葉を買ってもいいよ」

 いいんだ。とよだかは思った以上にルールに縛られていた反応を見せた。

「よだかだったら、私の何を買う?」

「……ちょっと、考えさせて」

 ありきたりの重さに響いたのか、よだかは慎重に真剣に考え始めた。

 結局その日は私の何を買いたいのか答えが出ず、お開きとなった。


 *

 クリスマスシーズンを多分に感じさせるその日が、私たちが言葉を売買したはじめての日になる。よだかは一週間経っても「ありきたり」を使わず、「特別」に言い換えるようになった。今度は「特別」を買ってやろうかと思ったが、「特別」という語義から窺えるビジョンが彼女と全く同じだったので、やめておいた。その言葉を失うのは惜しかった。

 よだかが私の言葉を買ったのは、冬休みに入ってからだった。

 冬休み用の勉強としてたんまりと出た課題を私たちは図書館で処理をした。ときどき遊びには行ったが、二人でおしゃべりをするのが基本的な楽しみだった私たちは図書館で十分だった。

 シャーペンを走らせながら勉強中の適当な会話という感じで、私はひそひそと話し始める。静謐な図書館に無駄に響かないよう気をつけながら。

「うちに兄貴がさ、あー今大学生なんだけど、普段は一人暮らしをしてていないんだけど、大学が冬休みになって帰省してきてるんだよね。要らんストレス源って感じ」

 シャーペンを動かしながら終わらない課題の鬱憤を兄貴にぶつけると少しすっきりとした。

「もっと勉強しろだの、受験は一年生で基礎を固めるのが肝心だとか小言ばっかでうるさいし、せっかく家にいてごろ寝できるっていうのに気が休まんないよ。……よだか?」

 よだかはいつの間にかシャーペンを置いて私を見つめていた。

「見つけた。私があやめから買いたいもの」

「え。何⁉︎」

 あれから二週間弱、私がよだかから買われることはないのだと半ば諦めていただけに、急な宣言に嬉しくなってしまう。

「『兄』。あやめが普段お兄さんのことを『兄貴』って呼んでるのなら、『兄貴』かな。買いたい。どう?」

 どう? と私に意思決定の判断を委ねられたものの、私は少し面白くなかった。私はよだかの『ありきたり』を買ったのに、私は『兄貴』を買われるなんて、なんだか釈然としない。

「どうして『兄貴』なのさ」

「あやめから、あやめ以外の話は聞きたくないなって。というか家族の話? 知ったところで私にはどうすることも出来ない。もどかしさだけが残るから」

「なるほど……」

「で、いくらつける?」

 うーん、と私は考えた。『兄貴』くらいならよだかの口癖と違って、痛くも痒くもない。でも気を利かせて同じ値段をつけるのは憚れるし、高く設定するのも購入を渋られそうで面白くない。せっかくのチャンスを逃したくはない。となると、

「五百円」

「安っ。もっとするかと思った」

「『兄貴』なんてそんなもんよ。取られて苦しいのはブラコンだけ。私、ブラコンじゃないし」

「そっか。それはいいね」

 よだかが哀しい目をしていたのを私は見逃さなかった。よだかの家はシンママの家庭だと聞く。こういう話はそもそも配慮に欠けていたのかもしれない。

「はい、五百円」

 きらきらのコインを手に置かれ、私は『兄』を失った。売った。よだかにはもう兄の優秀さを語ることは出来ない。語る必要性はないが、語る場合のもどかしさは愉快だった。私は『兄』ではなく『家の男』と呼ぶことにする。うちの男。

 話題にはしないもののどう語を変換しようかの話をすると、

「男もダメ。ダメというか嫌。買う」

 買うと言われて私は戸惑った。『男』を失ったら、私たちのする会話のレパートリーの半分が無くなる。クラスメイトの男の子の美醜についてあれこれ言うことが出来なくなる。

 私とよだかの交流する世界から『男』が消えてしまうのは、重いと思う。

 消えてしまえば、女子高生として機能不全に陥る。性の話ではない。女子高生としての在り方の話だ。

 私はいいよとは言えなかった。よだかが私から『男』を取り上げるのは、嫌がらせの意味もあるのかもしれないと踏んでしまう。『ありきたり』を消してしまったがために。

「いくら?」

 問われた。

 問われたからには価値をつけなければならない。値段なんてつけられないと拒否をしたり無言でやり過ごしたりすることも出来るのだと思う。でもそれは逃げであり負けであり、「プライスレス」という価値をつけかねない行為だ。お金で買えない価値。より大きなものに仕立てあげてしまう。

 それでも私にとって男は、プライスレスではない。最悪代替可能な存在だ。

「一万円」

「わかった」

 よだかは値段に対しての一切の反応を見せず、一万円を差し出した。

「よくちょうど持っていたね」

 私はよだかの財布を盗み見る。紙っぺら一枚抜けた彼女の財布はすっからかんになっていた。

「今月の食費の残り」

 よだかはこともなげに言った。私は私がよだかに動揺を見せることを許せなかった。私は『男』という言葉をよだかに買ってもらう、その軍資金が食費であろうと同情の余地を見せることを許さない。私はつとめて冷静にそのお金を受け取る。

「じゃあ私も何かを買おうかな」

 何を買う? と微笑みながらよだかは聞いてきた。まるで八百屋でも開いたみたいに、その売り物の種類の豊富さと商品の出来を誇るみたいに。菖蒲夜鷹という女を陳列させた。

「『私』。私という一人称」

「それはまた、厳しいところを……」

 よだかは苦笑した。自分の買った言葉と同じ方向性のものが来ると思っていたのだろうか。

「一万はもらいたいね」

「はい、どうぞ」

 私はとっておいた一万をすぐに返した。

「どうしよう。これからなんて言おう」

 悩み始めたよだかに、私は「僕なんてどう?」と提案した。

 彼女が僕を使えば、私の買われた言葉と対をなす。彼女がその言葉の代わりになる。

 よだかは言い慣れない「僕」を何度か口にして、舌先に馴染ませた。

「もう今日はこれ以上僕を買わないでよ」

「わかった」

 言って、私たちはまた課題に取り組み始める。照れ臭く「僕は」というよだかに、私はまた違うよだかの魅力を感じた。

 

 *

 私とよだかが出会ってから一年が経つ頃にはよだかが追加で『先生』『アイドル』を買った。よだかが『先生』を買ったのは私の担任の先生が男であったためで、『アイドル』は男の言い換えになるのと女性アイドルの話題を封じるためにあった。先生に恋することも今更アイドルにハマるということもないのに、よだかは私の言葉を時折買う。彼女の縛り付けるような執着が、なぜ生まれているのか私にはまだわからなかった。

 私は半年以上よだかを買うことはなかった。ちなみに『先生』は千五百円、『アイドル』は三千円で売れた。

 『ありきたり』を買ってから半年以上が経つ。二人の思い出は冬の印象が強かったが、僕たち私たちの原初の記憶はやっぱり夏だよね、と言い合う。なにせ出会ったのが夏季課外なのだ。

 蝉が鳴いている。今日の夏季課外は昼に終わり、私たちは図書室でお弁当を食べているところだ。図書室は飲食禁止なのだが、ベランダに出ることで飲食を可能にする抜け道を用意できる。わざわざエアコンのないベランダに椅子を持ち出し、私は親の作ってくれたお弁当を、よだかはコンビニで買ったパンを食していた。

 グラウンドでは野球部やサッカー部が暑い中練習を始めるところだった。グラウンドから離れたところにはテニスコートもあり、豆粒のような人間が動いている。

 上の階のベランダが屋根代わりになっているとはいえ、地上のコンクリが陽を照り返すせいで暑い。七月なのに三十度を裕に越し、連日三十五度を記録していた。

「あやめは進路希望調査に何を書く?」

 高校二年生になり、去年より進路の問題は顕在化していた。大学か専門か、就職か。一般的にはその三つのルートをとれるが、学校は第一希望から第三希望までどの大学を選ぶのかを求めている。

 私たちにはなりたいものなんてないし、未来を選び取る気もない。でも、その未来は着実に迫っている。

「S大学かな。あとは実家から通える大学」

 母親がお勧めしていた大学を答える。親の言うことを聞いていれば、選択のストレスはない。あとは黙々と、これまた親の望むレベルに合うように勉強をして受かればいい。言うは易しい。

「よだかは?」

「ボクは……就職かな」

 うちにお金を入れないといけないし、と迷いのない答えを寄越した。夏なのに彼女の髪はひどく伸びており、いつから切っていないのかわからない。前髪も自分で手入れしているらしく、毛先の伸びにズレがあった。下手くそなぱっつんは、皮肉なことに「ボクっ子」なよだかに似合ってしまっていた。「ボクは」と言うよだかに、その前髪はむしろ余裕を持たせてしまうのだ。

「去年に比べて、未来は見えた?」

 よだかがメロンパンを食べながらそう訊く。

「レールは見えるようになったよ。でも、まだまだ真っ暗だね。親の言う大学を第一希望にしているけれど、正直受かるかもわからないし」

「第一希望ね……」

 第一希望が第一希望にならないよだかの目線は、足元でひっくり返っている蝉に向いていた。上靴でひっくり返してやるも、反応はなかった。

 よだかは、希望ではなく絶望と口にしたがっているように見えた。しかし、「希望」は「絶望」の対義語であって、同義語にはならない。なのに、希望も絶望も他音同義語のようだった。

 私の頭は、どうしても希望を希望と捉えてしまう。

「よだか。──『希望』を買ってもいい?」

 彼女はメロンパンを食べ終え、包装プラをくしゃくしゃに丸める。パン一個じゃ少し足りないだろうに、それでも彼女の一回分の昼ごはんらしかった。

「僕から?」

 ──やってしまった。と思った。くしゃくしゃに丸まったプラごみは、彼女の拳の中にある。

 彼女から絶望を掬い取りたかった。拭い去りたかった。一緒に共有したかった。奪うのではなく。奪いたいわけではなかった。

「……」

 私は恐ろしいことに言葉を失ってしまう。何かを言うべきなのに、何も言葉にならない。

 首肯も瞬きも一向に出来ず、私は口に溜まった唾を飲みこむこともしなかった。

 言うべきは、「ごめん」の一言だった。でも、それを言ってしまえば、よだかの言葉を買うことはもう出来なくなるという気がした。その謝罪の言葉は、友人としての修復なら出来ただろう。けれど、よだかとあやめという私たちの関係を破壊する一言になってしまうに違いなかった。

「ゴミ、捨ててくるよ」

 意味もなく、パンのゴミを貰い受ける。それが今の私の精一杯だった。

「ねえ、あやめ」

 半ば強引に奪い取り、図書室を通ってゴミを捨てに行こうとした私の背中に声がかかる。

「……なに?」

「そのゴミ、いくらで買い取る?」

 嘘をつくことも嘘をつかないことも出来た。でも、嘘をつくことは偽善でありそこに優しさを見せることもよだかが望んでいないことははっきりとわかった。

「0円」

 私はそう言い捨てた。

「だったらあげる。僕の『希望』。0円」

 すぐに私は振り向いていた顔を正面に戻した。

「ありがとう」きつく唇を噛み締めて言う。

 彼女には、私の表情は見えていない。

 どうしてここでありがとうを言ってしまったのだろう。でもごめんよりは正しいと思う。

 よだかが私に託してくれたのが、伝わってしまった。私はそう思いたかった。思い上がりたかった。

 いつかきっと、よだかの「絶望」を私の「希望」にする。そう心に決めた。


 しかし、そんな日が訪れることはなかった。


 *

 事態が急変したのは翌日のことだ。夏季課外最終日ということもあり、私は暑さにうんざりしながらなんとか登校する。

 よだかは私を教室前の廊下で待ち受けており、醒めた表情で立ち尽くしていた。

 私を見つけると、まるで悲劇のヒロインのように沈痛な表情を見せた。

「よだか?」

 私がそう声をかけると、彼女は私の胸に飛びついてきた。ちら、と見えたが右手には三枚の万札が握られている。

「え、ちょっ、どうしたの」

 驚きながらも、彼女の背中を撫でる。

 ほぼ同じ背丈の私たちは、カップルのように抱きついたところで身長差が生まれることはない。だがしかし、よだかが私の肩に頭を乗せると、その等分の重さが私の肩に伝わった。

「あやめを買いたい。三万円で、あやめを買わせて」

 『ありきたり』を買ってから、買う側が値段をつけることはなかった。それは暗黙の了解で、売る方が価値を決める。

 だからよだかには訊くことになる。

「どうして三万?」

「僕の全財産」

 耳元で、よだかのソフトなソプラノが聞こえる。じんわりと涙に濡れているその声は、普段よりも低かったが、十分に私の感情を揺さぶりかける。

「買わせて。お願い」

 よだかが懇願する。

「僕のものになって」

「……え?」

 とりあえず話を聞くよ、と言って彼女を抱きつきから離す。人気のいないところで話したい、と言われよだかに手を引かれる。

「どこまで行くの」

 手を引かれながら、尋ねる。もう玄関先まで来ていた。

 よだかがぽつりと、私の手を引きながら背中でつぶやいた。

「──親が蒸発した」

「お母さん?」

 うん、と頷く。

「多分、『男』のところにいった」

 よだかが私の手を離し、対面する。私の言葉にはない存在。

「駆け落ちってやつ? 愛娘を置いて?」

「『愛』も買っていればよかったね」

 悲嘆に声を染めて、よだかが言う。

「ごめん」

 私は視線を下にずらす。そして、その時はじめてよだかの髪が短くなっていることに気づいた。ばっさり、と。乱雑に切られている。

 でも、堪らなく似合っていた。

 玄関に入り込む夏の光が、うつろな表情をするよだかに翳を落としていた。

「買わせてくれないなら、あやめに、僕を消して欲しい。この世から」

「いやだよ、」

 彼女の本音を聞いて、一気に悲しみが込み上げてくる。

「それとも、『海辺の街』を消せばいいのかな。どっちが買えばいい?」

「──行こうよ」

 私が言った。

「海辺の街に」

「うん」

「そのお金は、交通費にとっておいて」

 

 私たちはそのまま玄関で靴を履き、学校を出た。


 「海辺の街」へは電車で一時間半もすればたどり着くらしい。シーズンだから人が多そう、とよだかが言う。

 目的地に着くまでは、あまりネットにあがっている写真は見なかった。行く前に私たちの理想からかけ離れていたら面白くない。

 私たちは電車内で隣に座る。ガタンゴトンと鳴る走行音にただひたすら耳を傾け、揺られながら手を繋いでいた。

 あまり言葉は発しなかった。会話で間を繋ぐ気には二人とも到底ならなかった。無言の時間は、とても長かった。

 繋いでいる手は、どちらとも無く出た手汗で濡れまくり、びしょびしょだった。でも気にはならない。よだかは生きていて、私も生きている。

 最後の乗り換えで、手を繋ぎながら移動をする。再び座席に座った時、私は言った。

「売るよ」

「あやめ」

 意味もなくよだかが私の名前を呼んだ。それとも、確認の意味が含まれていたのだろうか。私は頷きもせずに、『あやめ』がいくらかを告げた。

「二万八千円」

 交通費としてスマホにチャージした二千円。それを抜いた額。

 それが私の、『あやめ』という言葉の、名前の、価値だった。価値にした。

「あやめ」

 またよだかが私の名を呼ぶ。

 私から『あやめ』を剥奪するということは、『あやめ』という名前も失うことになる。

「よだか、本当にいいの? 私の名前は『菖蒲』だよ? 私が売ったら、あなたの苗字も消えてしまう」

 しょうぶよだか。

 菖蒲夜鷹。私はもう、よだかの苗字を呼べなくなる。

「呼ばなくていい。そんな名前」

「そうだね」

 ここが電車でなければ、私たちはキスをしたことだろう。よだかと目があった。よだかの視線と私の視線が、綺麗に吸い付いた。

 

 目的地には十五分後に着いた。まだ日は全然落ちる気配を見せず、しかし人はあまりいなかった。奇しくも平日だったからだろうか。

 太陽が天高く登っている。私たちのことを、一番に見つめている。

 海は燦々と輝いている。

 駅の北口、海と正対するほうには、街がたしかに在った。

 そこは確かに、海辺の街だった。

「どう? 私たち、ここで将来働いている気がする?」

 とよだかに尋ねた。

「いい街だね」

 彼女はそう言うだけだった。老人が桟橋で釣りをしている。その日の仕事を終えた漁師が軽トラに乗って、アスファルトに舗装された道を走り去る。

 いい街なのは確かだった。

「海の家があると思っていたよ」

「私も」

 私たちは手を繋いだまま、砂浜に駆け寄った。

 波は一定のタイミングで満ち引きを繰り返している。

「このまま進めば、僕は世界から消えられるのかな」

「あんまり、イメージはつかないけど」

 やってみる? と訊く。

「やってみる」

 手を離した。よだかは靴を脱ぎ、裸足になった。そのまま素足で砂浜を歩き、波に足を沈めていく。

 スカートが波に触れ、濡れる。

 よだかは腰のあたりまで進んだ。

「無理」

 きわめて明るく、残念そうによだかは言った。彼女は笑っていた。

 その時、大きくうねりを伴った波がよだかに押し寄せた。

 彼女は頭から波を被り、地面に叩きつけられた。

「よだか!」

 一瞬、彼女の姿が見えなくなる。私は一目散に走り出した。

 また一瞬の後、その波が引くと彼女はぷはっ、と海水を吐きながら姿を現した。

「良かった」

 駆け出して、姿が見えるまでに、私はスカートの位置まで海に入っていた。

「濡れちゃった」とよだかは子供のように笑った。

「私さ、よだかを買おうと思う」

 彼女は何度か波に足をすくわれながら砂浜の、私の方へ戻ってくる。

「いいよ」

 顔の濡れた女が、私に一瞥もしないで、波に気を取られながらそう答える。

「いくら?」

「決めて」

「プライスレスだよ」

 私は即答する。

 その答えに、その速さに、よだかはにやりとした笑みを浮かべた。

 彼女が私の近くまで戻ってくる。私は手を伸ばし、彼女の体を引き寄せた。濡れた制服はよく水を吸いこんでおり、彼女の体温をよく感じさせた。

「お願い。私の『名前』もプライスレスで買ったことにして」

 よだかの耳元に、そう囁いた。

「うん。いいよ」

 このままでいたかったが、どうにか気持ちを振り絞り、密着していた彼女の体と離れた。

 三十センチほどの距離で彼女と見つめ合う。

「なんて呼ぼうか。君、それともあなた?」

「私があなたじゃない?」

「じゃあ僕は君か」

 お互いの名前を売り渡して、とうとう目の前にいる女の子を呼ぶ術を失った。

「君はきれいだね」

 だれかのセリフみたいに、彼女が言う。

「あなたも、きれいだよ」

 私と彼女の目が合う。

「「すき」」

 どちらからともなくそう言った。好きは売っていなくて良かった。

「もっと適した言葉がちゃんとあったね」

 ふふ、と私は笑う。

 そうして私たちは、互いを見つめながらキスをした。はじめてのキスだった。海水の味がした。

「あなた。風邪をひくよ。戻ろう」

 手を繋ぎながら二人で砂浜に戻り一緒に尻をつけた。

 私はその辺に転がっていた木の棒を拾う。

 木の棒で砂浜に「よだか」と書く。

「僕にも貸して」と言うので、彼女に渡す。

 彼女は「あやめ」と書いた。

 波は徐々に、文字を書いたこちらの方まで迫り来る。

「次かな」「次だね」波が引いていく。

 そして私たちの名前は波にさらわれて消えてしまう。

 私たちはそれを見て、笑い合った。

「消えたね」

 

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