あなたの笑顔が好きでした

青木海

一夜の過ち

 地元の小学校の同窓会で、卒業式以来14年ぶりに初恋の彼と再会した。

 

 体育の授業の時に、いつも列の先頭に並ばされていたちんちくりんだったのに、身長は私を見おろすほどに高くなっていた。


 そんな小柄な彼によく似合っていた半袖短パンの学生服は、カジュアルな紺色こんいろスーツに変わっていた。


 毎朝登校してくると、後ろ髪が寝癖でピンと立っていたくせの髪は、ヘアワックスで固められて年相応の色気をかもし出していた。


 それでも、彼が笑った時の笑顔だけは、あの時と1ミリも変わっていない。


 私が、彼のことを好きになるきっかけとなった、あのはじけるような笑顔だけが、彼を彼だと証明していた。



 同窓会が始まると、会食の席は彼と隣同士で座った。どちらが誘うでもなく、自然とそうなった。


 幹事の乾杯の挨拶と同時に、一斉にグラスのぶつかり合う音が会場中で鳴り始めた。


 私もお酒の入ったグラスを持ち、近くの席の人間や、隣の彼と乾杯をした。

 

 

 会も終盤しゅうばんに差し掛かってきた頃。

 

「あの時の約束ってさ……まだ覚えてる?」

 

 彼は、少し気まずそうにしながらそう訊いてきた。


 視線がテーブルに落ちているおかげで、お酒で紅潮こうちょうしたほおがよく見える。


 ふと、寒い冬の朝に、降り積もった雪にダイブして、頬を赤く霜焼けさせた幼少期の彼の姿が思い出された。


 確か、あの約束をしてくれた日も、今日みたいに雪の降りしきる日の放課後だった気がする。

 

「約束って、『大きくなって再会したら結婚しよう』って言ってくれたやつ?」


「そうそれ! 覚えていてくれたんだ」


 嬉しそうに言いながら彼の笑顔がこちらへ向くと、不意に視線が重なった。


 ドクンと心臓が大きく跳ね、思わず目を逸らした。


 小学校時代から結構な時間が経ったというのに、私はまだ彼の笑顔に弱いみたいだ。


 小さく深呼吸をして、気持ちを落ち着けてから、再び彼の目を真っすぐに捉えた。


「さっきまでは忘れてたよ? でも、あんたの間抜けヅラを見たら思い出したの」


 嘘を言った。今でも、約束をしてくれた時の彼の笑顔と、当時の気持ちは、はっきりと覚えている。

 

「あははは! 間抜けヅラって、ひでぇ!」

 

 彼は可笑しそうに笑った。

 

 何が、『ひでぇ』だよ。正直、顔面を思いっきり殴りつけてやりたいところだ。


 彼は、ビールが少し残ったグラスを左手で持つと、グッとあおった。その瞬間、店の照明に照らされてキラリと光る物があった。


 彼の左手の薬指には、シルバーの指輪がはめられていた。


 私ではなく、他の女性が渡した指輪が。

 

 数年前に、彼が結婚したことを噂で耳にした。当時の私はひどく落ち込んだ。約束を信じていたのは自分だけだったんだと、後悔と悲しみと怒りが混色こんしょくとなって、頭の中を塗り潰した。食事をとる気力さえ失せてしまい、体重は1ヶ月で10キロ近く落ちてしまった。


 今になって思えば、連絡先も知らない元同級生と再会できる保証ほしょうなんてどこにもなかったし、おとぎ話のような約束を真に受けていた自分もどうかしていた。それでも、彼のあの笑顔だけが、私の脳裏のうりに焼き付いてどうしても離れなかった。


「この裏切り者。私はまだひとりなのに」


 目を細め、彼をにらみつけた。


「わりぃわりぃ。でも、結婚を考えられる余裕ができた頃には成人してたし、付き合ってる彼女がいたんだよ。約束をしたのはガキの頃だったからさ、あいちゃんもさすがに覚えてないかなって思っちゃったんだよね」


 彼は、顔をらせながらばつが悪そうに言った。

 

「でも、あいちゃん本当に綺麗になったよね。すらっと痩せててスタイル良いし、モテるでしょ?」


 お前のおかげで痩せたからな?

 てか、さっきから気安く下の名前で呼んでんじゃねぇよ。下手なお世辞せじもいらねぇんだよ。

 

 お酒がまわっているせいもあって、私を見捨てた彼への、恨みのこもった愚痴ぐち濁流だくりゅうのようにあふれてくる。


 この際だから、文句の1つでも言ってやろうと口を開けようとした時、ちょうど幹事の人間が前に立ってめの挨拶を始めた。


 出鼻でばなくじかれてしまい、文句を言う気力がなくなってしまった。


 ポーチからスマホを取り出して時間を確認すると、時刻はすでに21時をまわっていた。


 すると彼は、急に顔を近づけて耳元でささやいてきた。

 

「よかったらさ……この後2人だけで飲み直さない?」

 

 彼の意図いとは、明白だった。

 飲み直しの誘いなんてただの口実で、その先にあるを求めているのだろう。


 本気で殴ってやろうかと思った。


 また私の気持ちをもてあそぶのか。奥さんに悪いとは思わないのか。


 断ろうと思ったその時。

 

「どうかな? 久しぶりに会ったら、もっと話したくなっちゃってさ」


 彼の笑顔がはじけた。


 私の心臓は、再び大きく跳ねて、バクバクと早く強く脈打ち始めた。


 その時、私はさとった。やはり私は、彼の笑顔から逃れることはできない、と。


 体裁ていさいとか、人の家庭の事情とか、もうどうでもよくなった。


「うん、いいよ。私もまだ飲み足りないから」


 またあの笑顔が見られるのなら、既婚になった彼と一夜いちやを共に過ごすのも悪くないと思った。

 


 時刻は10時をまわった頃、私と彼はホテルの一室で身体からだを重ねていた。


 飲み直しのために入店した居酒屋は、10分も経たないうちに後にした。そのままどちらが誘うでもなく、自然とホテルに吸い込まれていった。


 シャワーを浴びてベッドルームへ行くと、すぐに彼は私をベッドに押し倒してきた。


 罪悪感ざいあくかんが無い訳ではない。でも、彼の笑顔を見ることで、私の心を温め続けてくれているあの頃の気持ちを再び味わうことができる。そう考えると、すべてが二の次だと思えた。


 ゆがんだ顔を見られるのが恥ずかしくて、彼が動いている最中は、顔を手のひらで覆っていた。

 

 とはいえ、彼は笑顔でいてくれているのだろうかと気になって、少し手をずらして彼の表情をのぞき見た。

 

 瞬間、ぎょっとして全身に鳥肌が立った。

 

 彼の大きく開かれた眼はぎらついていて、荒い息遣いはまるで獣のようだと感じた。


 何かが違う。


 私は彼を欲して、彼もまた私を欲している。それなのに、どうして……。


 そこでようやく、私は違和感の正体に気付いた。

 

 私が彼の笑顔を好きだったのは、私という1人の女性へ向けられていたからだった。

 でも今の彼は、私の気持ちなんて1ミリも考えてくれてはいない。ただ自分の欲を満たすために、女である私を利用しているだけだ。それは別に、私でなくても構わないのだろう。

 

 突如、ひど虚無感きょむかんが私の心を襲ってきた。


 やめたくなった。逃げ出したくなった。


 けれど、それは手遅れだった。


 上に乗っている彼は、私の身体をがっちりと掴んでいて、身動きが取れなかった。お酒もまわって力が入らず、振りほどくなんて到底不可能だ。


 なすすべもなく、私は終わるのを待つしかなかった。


 しばらくして、ようやく彼は私の上で果てた。


 私は、そのタイミングを見計らって、脱力しきった彼の体を押しやってベッドから降りた。


 椅子に置いていた衣服を素早く身に着けて、ポーチの紐を肩にかけた。


「あれ、もう帰っちゃうの? それなら連絡先だけ――」


「黙ってろカス。次、私に色目いろめ使ってきたら奥さんに全部ばらしてやるからな。この粗○ンが」


 私は、言うだけ言って部屋を後にした。


 何やら彼は怒って言い返してきていたみたいだが、全く耳に入ってこなかった。


 ホテルの外に出ると、雪はまだ降っていた。

 

 私の脳裏のうりに焼き付いていた昔の彼の笑顔は、完全に消えていた。

 胸を温めてくれていた思い出もすっぽりと抜け落ちて、空いた穴から虚しさだけが血液のように流れ出してくる。


 心の支えを失った感覚がして、体がぐらりと揺れた。


 溢れそうになる涙を手の甲で拭った。


 この一夜いちやが、私にとって良かったのか悪かったのかはまだわからない。


 それでも、未来で良かったと思えるように生きて行こうと、あの約束を交わした日と同じように降りしきる雪に誓った。

 

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あなたの笑顔が好きでした 青木海 @aokiumi

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