第3話 傘が見つける
「ふぅ~…」
裕也は疲れを剥ぎ落とすように浴槽の中で息を漏らした。
「【カサ】ねえ…また明日居たりしてなバス停に」浴室の天井を眺めながら今日あった不思議なことを思い返していた。
確かに雨は降っていた。降っていたけれども、降っていなかった、か…
謎解きのような言葉を脳内に繰り返していたが、答えが見えるはずもなく風呂の中にブクブクと沈んで思考をリセットする。
ザーー
「ん?雨が降り始めたか?」
シャワーを見たが勿論出てはいない。外から聞こえる雨音が浴室に届いてきたのだろう。
そろそろ出るか、長湯もほどほどにしなくてはっと。
風呂好きの裕也は30分ぐらい浴槽に浸かるのだが、雨音が昼間の出来事を思い出させたのが興が醒め、浴槽から出ることにした。
脱衣所で着替えていると玄関が開く音がする。
「ただいま~」と声がした。
ああ、父さんと母さん帰ってきたのか。
玄関で聞こえるのは母の声であったため、裕也は急いで着替えてリビングに向かった。
「お帰り母さん。今レンジで温めるからさあ」と夕食をレンジで温めだす裕也。疲れ切っているのか母はテーブルの椅子に突っ伏して「ありがと~」と力なく返事した。壁掛け時計を見たら21:30になっている。
「遅くまでお疲れ、ところで父さんは?」
いつもなら一緒に帰ってくる父の姿が見当たらない。その一言を返すのも限界ですと言わんばかりの母は「もうすぐしたら着くと思うわよ~…」と虫が鳴くような声で返してきた。
両親は同じ職場で働いているが事務方と営業なのでタイミングがズレる事もままある。とはいえ半年に3回程度なのだが。などと考えていると玄関が開く音が聞こえた。レンジの肉じゃがが一つ仕上がったので直ぐにもう一つの皿を入れてレンジのスイッチを入れる。
「ただいま」
父の声だ。
リビングに入ってきた父も疲弊しているらしく顔色が良くない。テーブルに突っ伏している母は右手をチョイっと上げて「おかえりなさい」のジェスチャーをした。父も椅子に座り「あ~」と言いながら背もたれに上半身を預けていた。
「二人ともお疲れ。今日は肉じゃがにした」裕也は肉じゃがを二人の前に出し冷蔵庫からビールを取り出し二人に酌をした。
「うっう、良い子に育ったねえパパ」「そうだねぇママ」とお決まりの文句で裕也の酌を肴に、晩酌で一日の疲労を達成感に昇華していた。
裕也はふと気になり二人に話す。
「なあ父さん母さん、傘持ってたのか?」
二人はビールを飲みながら首を傾げる。
「あんた何言ってんの?何で傘がいるのよ」と母は言う。父も不思議そうな顔をしている。
「いや、だってさあ、今雨降ってただろ?」裕也も首を傾げる。
ん?あれ??
「降ってないわよ、雨」
母は裕也にそう告げた。何か背中に氷が走るように寒気がする。裕也は急いで玄関で脱がれている両親の靴を見たのだが、間違いなく乾いている。そして玄関のドアを開けるとやはり降っていない。
ん~…耳鳴りの類か?長風呂で耳がおかしくなっていたのか?などと思いたかったのだが、昼間の件とダブってしまう。何だか非情に気味が悪くなった。
「ちょっと裕也~、リビングのドアは閉めなさ~い」
すっかりほろ酔い状態になっている母が飛び出した時に開いたままになったドアを閉めろと抗議してきたので、玄関の鍵をしてリビングに戻った。
「そういえば帰る途中、泉中学校の男の子を見かけたなぁ」と父がぼんやり口にする。
「こんな時間に?悪い子ねぇ」とけらけら笑いながら母は感想を述べる。
「学生服だったから泉中学校だとおもうけどね。夜に黒い学生服だと本当に見えないのな。びっくりしたよ」と父は苦笑していた。
「ふ~ん、まあ部活や塾なら有り得る時間と言えば時間じゃね?」
裕也は反射的に反論を述べる。連想したくなかったからだ。あからさまに先程から昼間の出来事の再現のような事が起きているのが気味が悪いと思ったからだ。
「俺、課題があるから今日はもう上がるな。おやすみ」と両親に言いリビングを出る。
裕也は二階の自室へと戻り電気をつけた。カーテンは空いたままで外の風景が見える。やはり雨など降っていない。そのまま力いっぱいカーテンを締めベッドに寝転がった。
「やべぇ、本当に課題してないな。でもまあ、昼以降の授業のやつだし、昼休みするか…」横になった体が鉛のように重く感じ、徐々に意識が遠のいていった。
『夜闇は人を不安にさせる。それは生物の持つ本能なのだろう。見えないものに対する恐怖感。生存本能から生み出される警戒心。それが夜闇』
『だが裕也。そんな夜闇だからこそ、人は容易く本性を見せると思わないかな?
特に雨の夜は、ね』
ザーー…
「雨が降っているのか?ああ、ここはバス停か。バス遅いなぁ。寝ちまってたよ」
視界が雨で溶けた世界に裕也は一人ベンチで大の字になっていた。どうも寝ていたらしく、目を覚ました裕也は顔を擦って膝に肘を置き前屈みになる。
「は~…長い夢見た感じだな。全然覚えてねーけど。ふぁ」欠伸をしながら目線が地面を捉えていた。で、今何時だったっけ?そう思いポケットから携帯を取り出したが充電が切れていたのを忘れていた。
「やっぱり時計でも持つべきなのかなあ…嫌いなんだけどなあ、金属が常時肌に触れるのは。あの締められる感覚がねぇ…」金属アレルギーではないが、縛られている感覚が嫌いということらしい。実に残念だが、まあ良しとする。
変な寝方をしていたため首が重いのだろう。彼は前屈みになりながら首をぐるぐる回す。すると地面に落書きを見つけたようだ。
【花】
確かにそこにはあの【花の文字】が書いてある。彼は首を止めてその文字を見た。
「何だったっけこの文字?…誰かが書いたような、でも、悪い気はしないな」
文字の意味が与える印象か、それとも書体か、そこには優しさを感じたのだろう。彼の仕草は警戒する事もなく文字をじっと見つめた後、首を傾げて呟いた。
「花、か。そういやばあちゃんが今朝花瓶の水換えてたっけ」
彼は連想ゲームの様に他愛もない日常を思い出していたようだ。
そこで初めて『私は彼に言う』。喜び飛び付きたくなる心を抑えて。
「裕也、ここで【思い出せる】んだね。本当に君という奴は!」
抑えていたのだが、感極まった私は彼に飛びついてしまった。
「わ!ちょっと!!誰だお前!!」立ち上がり慌てふためく彼に押し戻されるのだが、私は捕まえたものは離さない。それが私だからだ。彼はそんな私を見て半ば諦めたのだろう、振り解く力が一気に消え失せる。それを確認して私は彼を解放した。
ただし、私の手は彼の手を離しはしていない。正確には『もう離れない』のだ。
彼は訝し気な顔をしながらも右手を私に握られたままの体勢でベンチに座った。私も彼の右隣に座る。「つーか、お前誰だよ?」と言った。
だから私はニコリと笑い、その問いに答えた。
「私は
・・・・・・・・・・・
「ん?…ふぁぁ~…今何時だ?」
裕也は寝床で自分のベストポジションを探すようにもぞもぞ蠢いていた。
随分と寝相が悪かったらしい。いつもと逆方向に頭があることに気が付くのに時間がかかった。寝る前に充電していた携帯に辿り着きロック画面の表示を見た。
「んげ、まだ朝の5時半かよ。もう一回寝よう」
そう言いながら平日には危険な二度寝を試みようとしたのだが、今は両親の繁忙期だと思い出し渋々体を起こした。
「ん~…朝飯でも作るか」
盛大な欠伸をしながらベッドから起きて着替えを始めた。
「何だこれ?痣か」
自分の右手首に紅い筋が一周しているのに気が付き声が零れる。痛みは無いが原因が思い出せないのは実に気味が悪い。
何だったかな?確か、そんな感じの夢だったかな?まあいいか。
なんとなくそう思った裕也は右手首の痣に気味悪さをいつの間にか感じなくなっていた。
・・・・・・・・・・
「あらまあ、裕也あんた、今日は早いじゃないのさ」
台所で既に朝食の準備をしている祖母に驚かれるところから一日が始まった。
「おはようばあちゃん。なんか目が覚めたから手伝うよ」と裕也はマイエプロンを取り出し台所に立った。だが熟練の主婦である祖母はほどんど用意を終えていた。純和風の味噌汁に鮭の塩焼きが出来上がっている。
「じゃあサラダでも作るよ」と言うと「サラダはいいから大根おろし頼むよ」とおろし金と大根を手渡された。
本日の朝食の純和風スタイルを崩されるわけにはいかない、そう言いたそうな鬼軍曹には逆らえないと悟り、裕也はゴリゴリとおろし金で大根おろしを作り始める。
「あんたその痣どうした?」と不意に祖母は裕也の右手首を指刺し問いかけた。
「ああ、なんか朝起きたらこうなってた。昨日バス停で待ってた時に虫にでも刺されたかも。痛みも痒みも無いから大丈夫だろうけど」
そう言いながら袖を捲り祖母に見せた。
「ふ~ん、まるで時代劇で罪人が彫られる入れ墨みたいだねぇ。腫れてはないけど痒かったり痛かったら病院行くんだよ?」
味噌汁に入れるネギを刻みながら祖母は心配していた。だが、痣の感想が独特だなあと変な気持ちになる裕也であった。
「入れ墨ねぇ…」とまじまじと痣を見る。よく見ると二本の線が交差するように右手首を一周している。
「鎖の跡?」奇妙な感想が裕也の口から洩れたが、自分の感想を深く考える前に「ほら手が止っとるよ」と鬼軍曹の指示が飛んできたので作業に戻った。
・・・・・・・・・・
「いただきます!」
夜風は挨拶をしながら既に箸を持ちつつ味噌汁を飲んでいる。
「あんた本当に行儀が悪いねぇ。ちょっとは落ち着いて食べなさい」
祖母はそんな孫を笑いながら微笑んでいた。
「お兄ちゃんがこんなに早く起きているとか奇跡?」
朝練がある為に妹の朝は早い。
「陸上部の朝練大変だなあ」
「お兄ちゃんもまた陸上部入ればいいじゃない?なんで入らないの?」
口にご飯を投げ込みながら夜空は裕也に理由を聞いた。
「俺はさ~、山岳部入りたかったんだよな~。でもウチの高校になかったんだよ山岳部。既に高校が山にあるとか何とかって理由でないらしいわ」
裕也は鮭を摘みながら肩を落としていた。
つまるところ山岳部がない理由は「ここに通うことが既に登山だから」と高校の立地に嫌気がさしていた先達の意思らしい。実際は小高い山の中腹を切り開いて校舎を建てているので登山というほどでは決してない。
「おい、しっかり咬め。太るぞ?」と脅し文句と仕返しを口にしたのだが、妹にはまるで効果がない。
「じゃあ行ってきます!!」と朝食を飲み込んで駆け足で妹は出ていった。
そんな孫を見送りつつ祖母は「は~…本当に誰に似たのかねぇ」と大きなため息をついていた。少し笑えたが裕也もそろそろ出掛けなくてはと玄関に行く。
「あら、あんたも今日は早くでるんだねぇ。歩きかい?」
「今日は自転車にするよ。課題が残ってて学校でサッサと終わらしたいからさ」
そう言いながらバッグを自転車に乗せ玄関で見送る祖母を見た。
そこから見える祖母の隣に昨日の花瓶が見える。その花瓶の花になんとなく心を引かれた裕也は祖母に問う。
「そういえば昨日、花を替えてたっけ夕方に」
「ん?ああ、あんたが帰ってきたときに替えてたじゃないか。それがどうかしたかい?」
祖母は花瓶を見てそう返してきた。裕也は何か忘れているような気がしたが、時間が惜しかったのでそのまま自転車に跨り「いってきます」と言い走り出した。
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