灯台の魔法使い

宇賀いちほ

嵐の夜

誰かの呼ぶ声が聞こえた気がして、後ろを振り返った。いつも通り、そこには草原が広がっているだけだ。風にそよぐそれらと同じように、振り返った少女、クラムの黒い髪や腰元に巻いた古い布の裾も揺れる。

 時間がゆっくり流れているように、それらの光景がスローモーションになって見えた。草原の奥、遠い空の向こうでは黒く厚い雲と、稲妻が走るのが見える。こちらへ来るのはまだ先だろうけれど、いずれ来るのは確かな嵐。クラムは腕に持っていた木の枝を抱え直し、また数本の木を拾って今の住まいまでの帰路を歩いた。


 住まいの灯りを見てほっとする。草原から家までを繋ぐ、水たまりのような丸石の中央を踏み渡る。玄関の重厚な木のドアの前に来ると、拾った木の枝を片腕で持ち、ドアのリングを打ちつけた。しかし返事はない。

「先生?」

 思わず口から溢れた声は、中に届かせるつもりのないものではあったが、嫌な予感がしてドアノブに手をかけた。引いてみるとやはりドアは何の障害もなく開いた。

 息をついて中に入る。部屋の暖かい空気と懐かしいような香りに包まれる。暖炉の中で木の弾ける音の方へ進み、オレンジの灯に照らされた部屋の中、木目の調子のよく出るリビングテーブルの前に先生は立っていた。

 白い衣に、淡い水色に金の装飾が入った縁取りのされている、古い魔術師のような装いを纏い、手には分厚く重たそうな本を持っている。開いてページを捲る目は伏せられ、こういうときには凹凸のはっきりした横顔のラインがよくわかる。長い、銀にも似た灰色の髪は緩い三つ編みにされ、肩を境に体の前側に垂らされている。

「ああ、おかえり」

 姿を見てやっとクラムに気付いた様子だった。よほど集中していたらしい。

「先生、鍵開いてましたよ」

 暖炉のそばの薪置き場に腕の荷を下ろす。カラカタと木同士が当たって音がする。後ろからは「そうかい」と特に気にする様子のない返事がくる。

「閉めておくからって言ってたのに」

 それを信用して出て行ったのだから、少しは不貞腐れもする。そんな風に思って手を洗いに洗面台に向かうと、ふわりと花の甘くいい香りがした。

「香り出しをしたんですか?」

  リビングに向かって声をかけると、先生は現れてこちらへ来る。

「そうだよ、見るかい?」

 好奇に満ちた目で頷くと、先生はそのままクラムの横を過ぎて廊下を歩いていく。その背を追うと、裏戸のそばの空間に、たくさんの花咲く木の枝が逆さに吊るされていた。

 息を吸い込むと、あの蜜を含んだような花の香りが身体中に広がる。先生は壁に寄りかかり、クラムの様子をおかしそうに見ている。先程まで不貞腐れていたのが無かったかのように、少女は花の香りに夢中になっている。

「キミは本当にこういうときは気分屋だね、猫を飼ってるようだよ」

 そう言われてクラムは我に帰る。

「私はどちらかといえば犬の属性ですよ。主人に忠義ですから」

 先生が意外そうに目を開いて続ける。

「私にかい?」

「協会にです」

 まるで何を言われるかわかっていたように間髪入れずに来た返答に、先生はふっと笑う。クラムも少し笑い、また枝花に顔を近づけ香りを感じた。


 しばらくして、家の屋根に激しくあたる雨の音がし始めた。日はすっかり落ちて夜になっていたから、停電になるのを心配して電気は点けず、暖炉の火といつくかの小さな蝋燭のみを灯りにすることにした。

 先生がマッチ箱を出してさっと慣れた手つきで火を起こし、テーブルに並べた蝋燭達に灯していく。火のついた蝋はゆっくりと溶けて蜂蜜のようにトロンとして、ゆっくりと一筋滑り落ちていく。

 その様子を向かいから、頬をついて眺めていた。

「先生、マッチ恐くないですか?」

  先生の長く白い指が止まる。「マッチが?」と言い、間をおいてクスクスと笑い始めた。顔の横に掛かるモノクルの金の糸が細かく揺れる。

「火が近いから、指が燃えそうとか思ってるんだろう」

  見事に言い当てられ、まあその通りなので、クラムは顎を乗せる手を平から甲に変え、蝋を見るのを続ける。

「やってみるかい?」

 先生が笑い含んだまま箱を差し出すように見せてきたので、それには答えず言葉を続ける。

「何でもっと持ち手の部分を長くしないんでしょう……危ないのに」

「上手くやれば燃えないよ」

 慣れさ、と。いつの間にか全ての蝋燭に火は灯し終わっていて、先生はマッチ箱を元の壁際の古い戸棚の引き出しへと仕舞った。

 けれどクラムは尚もその態勢のまま小さく揺れる橙の光を見続けている。少女にとって心地がよかったのだ。先生はその様子を見て、先程までとは違う温かい笑みを浮かべ、けれどそれは一瞬で、すぐに目を閉じて先程までの会話の続きをする。

「まあ、材料が勿体無いからだろうね」

  身も蓋もない答えに、クラムはとりあえず納得して腰を上げる。

「蓋をしていけば良いですか?」

 ああ、と先生が頷くのを見て、テーブルの脇に置いてあった、蝋燭達の分だけあるガラス製のカバーの元に行く。手に持つと見た目より重くて、頑丈なものだとわかる。蝋燭の乗る、魔法のランプにも似たようなくすんだ金の台に被せると、カランと金属同士の当たるような高い音がした。

 ガラスは台と少しだけ間が開くように設計されていて、火が消えることはない。いくら「魔法使い」と呼ばれる先生のつけたマッチの火だからと言って、やはり酸素がなければ燃えないのだ。

 クラムは完成した蝋燭台を片手に一つずつ持つ。

「では、私は灯台側から行ってきます」

「ああ、頼むよ」

 先生の返事を聞いてから家の西側へと歩く。

 湿った木の匂いがするのは、実際に家の中が濡れたからではなく、湿気を木が吸い込んだからだろう。それか、外の雨に濡れた植物達の香りが、家の、虫も雨水も通れないところを潜って、入り込んできているからだろうか。

 廊下の、備え付けられている蝋燭置きに手に持っていた二つを置き終えて、壁の小さな窓から外を見た。開けるようにはできていないそれは、しっかりと壁に嵌め込まれていてびくともしない。外は暗くて、ただ強い雨風だけが当たってきている。

 ふとクラムは上を見上げた。灯台のことを思ったのだ。蝋燭はまだ残っているけれど、足を灯台の方へ向けた。

 この家と灯台とは繋がっている。歩いていた廊下から、そのままさらに奥の古戸を開ければ、その先がもう灯台の中になる。西の海を守るこの大灯台は、螺旋状の階段があって、光の元まで上がれるようになっていた。

 灯台は冷たい石の壁でできているから、家より一層空間の温度は低かった。階段を踏み込むと、先程まで歩いていた木の床との違いをはっきりと感じる。そのまま上がっていき、光の元まで着く直前で、外の世界が今どれだけ荒れているのかを感じ取り足を止めた。ここまで登ってきておいて。嵐なのはわかっているのだから、予想はつくのに。外へ開いた出口を見ながら、壁に少し体を預ける。木の枝を拾っていたときに聞こえた声のことを思い出していた。

「誰が呼んだの?」

  クラムは嵐に向かって、他の誰にも聞こえない声で呟いた。


 蝋燭を家の中に置き終わると、火の灯りでぽうっと照らされ、温かさが増した感じがした。今夜はリビングの大きい部屋で一緒に寝ることになって、ベッドの上から布団だけを持ってきてカーペットの上に敷く。先生の分も敷き終わって布団の上に座ると、部屋の中に置かれたキャンドルも相まって、何だかキャンプをしているような気分になった。外は激しい風雨のまま、ここだけが安全で、安心できる場所だ。

 しばらくすると、寝着に替えた先生も部屋に来た。普段着ている服とほとんど変わらないように見えるが、日中のものよりはゆったりとしたつくりになっているらしい。

 隣の布団に座った先生は、「キャンプのようだね」と同じことを言った。枕を抱えながら答える。

「嵐に閉じ込められたみたいですね」

 屋根に当たる雨と風の音が強い。

 家にある窓はそのさらに外側にある木戸を閉めてあるので、ガラスに直接の被害はないが、木戸のガタ付きは激しかった。普段は閉めないものだから老朽化に気づかないのもあるだろう。

「この嵐が過ぎたら、木戸は作り直そうか」

  クラムの思っていることを察してか先生は言う。

「先生が作り直すんですか?」

「いや、キミが」

 ムッとした顔をする。まあ先生を守るのが仕事なのだから、やれと言われればやるけれど。

「命令ならやりますよ」

 言うと一瞬先生の表情が真剣なものに変わった気がしたが、ほんとうに一瞬のことだったので、幻か定かでない。

「冗談だよ。村に行くことにしよう」

 村という言葉を聞いて、クラムが目を輝かせたのを先生は見逃さなかった。

「キミはあの村が好きだね」

「だってみんな優しいですし、面白いですもん」

  村は、ここから少し離れた森のそばにある。昔はこの灯台まで来るための関所だったと、いつだか説明してもらった。おかげで小さいながら色んな職人の住む豊かな村になったと。一人がひとつの職を引き継ぎ、繋いできたそうだ。

「職人さんにあてがあるんですか」

「まあね、だてに長く住んでいるわけではないから」

  そう言って外を見る。モノクルの掛かった高い鼻筋の輪郭をぼうっと見ていると、瞬間、バリバリバリと地面を割るような強い音が響き渡った。続けて振動も微かに感じる。天井しかないのに思わず上を見上げる。

「落ちましたね」

「そうだね、離れているけれど。村の方かもしれないね」

 それはクラムも思った。森があるのはあちらの方だし、今聞こえたのもその方角だった。

「燃えていないといいですね」

「そうだね。きっと雨が濡らしてくれているから、火は大丈夫だよ」

 クラムは寝転んで枕に頭を横たえる。先生はその姿を見て笑う。

「行ったときにまた様子が見れるから、今日は寝るといい」

  おやすみ。そう言い先生も横になる。柔らかな灯り達の中で、先生の隣、クラムも目を閉じた。


 遠くで声がして振り向く。草原の中、見覚えのある光景な気がするのに、いつのことだったか思い出せない。でも今までと違うのは、きちんと人の姿があることだ。空には雲が掛かり、灰色をしている。雪でも降りそうだ、と思った。

 遠くにいる人は男の子だった。呼ばれているのはわかるので、そちらの方に向かう。フワフワとした短い草を踏んでいた。柔らかいので、きっと生まれたばかりの草たちだった。地面を踏み歩きながら、なぜあちらから来てくれないのだろう、と疑問がわく。でもきっと、あちらに見せたいものがあるのだろう。歩いて向かう。さっきまでなかったはずなのに、霧に体が包まれていくような感じがして、足が埋もれて……


「クラム」

 はっきりした声に目を覚ました。まだ状況のわからない目で声に目を向ける。先生が覗き込んできていて、目が合うとホッとした様子になった。

「起きれるかい?」

 促され、片腕をつきながら上体を起こして座る。そのとき初めて顔の周りに張り付いた髪に気づいて、自分が汗をかいているのがわかった。

 指で張り付いた髪を取ると、先生が額に指を当ててきた。先生の方を見ると、座ったまま目を閉じている。先生が何をしているかわかるので、クラムも大人しくそのまま目を閉じた。頭の中を読んでいるのだ。

 普通なら聞こえの悪いものでもあるが、先生は腕が良く、巧みに心や繊細な部分には立ち入らないから、心地が良いものだった。懐かしいなと感じた。来たばかりの頃は、よく同じようにやってもらっていた気がする。もう一年くらいになるのか。

 少しして額から指が離れるのがわかり、目を開けた。先生は珍しく難しい顔をしていた。

「どうしましたか?」

「いや……」

  先生は口元に手を持っていき、何かを考えるように黙ってしまう。蝋燭の柔らかい灯りに照らされるその姿を、まだ寝ぼけたままの頭で見る。目線をずらし壁に掛かっている時計を見ると、針は深夜二時を指していた。

「クラム」

  やっと先生の口が開かれる。

「最近何か、声を聞きいたかい?」

 いつもより静かな声で聞かれた問いに、クラムは草原でのことを思い出す。

「枝を拾っていた時に」

「どんな声だった」

「はっきりとはわからないんです。ただ、呼ばれたような、気がしました」

「……そうかい」

  まだ嵐が来る前だね、と。先生は締め切られて外の見えない窓の方を見る。表情は変わっていないのに何かを睨みつけるような異様な雰囲気だ。

「何か、あったんですか」

  聞くと、先生は「いや」と目を閉じる。再び瞼が開くと、真っ直ぐな紺の瞳が向き合う。

「今日は外に出てはいけないよ」

  先生の雰囲気にクラムが頷くと、先生は優しく笑って横になる。クラムも同じように薄い布団をかぶる。あ、と横になったまま先生を見上げた。

「でも、アーバンリキュガルが出たら私、行きますよ」

  先生はまた難しい顔をした。

「だって、それが仕事ですから」

  先生は納得しているようには見えなかったけれど、「今日は出ないから、もう寝なさい」と、それだけを言った。クラムは嵐の音の微かにする中で、再び目を閉じた。


 先生はすぐに眠ったその寝顔をしばらく見て、立ち上がると数ある火のついた蝋燭台のうちの一つを持って、一度その火を消すと、手のひらを芯にかざし、もう一度火をつける。

 暗い廊下を渡り、灯台へと上がっていく。階段の壁を蝋燭の揺らぐ小さな灯りがほのかに照らす。

 壁をそこだけ切り取ったような出口から外へ出ると、強い風がその周りだけ緩む。その空間の中央にある光の台まで行くと、台の蓋を開け、溜まる液の中心にある芯に蝋燭を近づけ、火を移す。ぼうっと灯りがつき、次第に強い光になる。それを見てガラスの蓋を閉め、光の外側にある鉄のカバーをゆっくりと手で押す。軽い力だったが、それにより始まった回転が安定するのを見守ってから、空との境界を作っている柵のもとへ近づいた。

 荒れ狂う世界の中で、雷鳴と鋭い稲妻は続いている。それらがここに直接に来ることはないが。

「欲しがっても、渡すことはないよ」

 早く去ることだ。

 雨と風に消される声だが、そこにさえ届けば充分な、確固たる宣言だった。言って去り、先生の姿が消えたその後も、強い炎の色をした光は回り続けた。

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