第10話 王太子、逃げ場なし

 王都まであとわずか――そう聞かされていた公爵家の兵たちは、いつも以上に引き締まった表情を見せていた。早朝の澄んだ空気の中、先頭を行くリディアは静かに手綱をあやつりながら、遠くにうっすらと見える城壁を見据える。高くそびえるその壁は、国の中枢たる王都を守る要塞そのもの。しかし、その門はまるで固く閉じられた表面だけが誇らしげで、内部に潜む不安や混乱をかえって隠しているようにも見える。


 街道沿いの地形を確認するため、副官が馬を駆け寄せてきた。


「お嬢様、視察の結果、王都近郊には大規模な兵の配置は見られませんでした。兵士らしき者が散見される程度ですが、動きは鈍く、統制が取れていないようです」

「そう。ここまでの道のりで実感しましたが、王家の兵はまとまりがないのね。局所的な抵抗しかしてこなかった」

「はい。王太子殿下の命令が周知されていないのか、それとも逆に誰も従おうとしないのか……。ただ、城壁の周りにいる守備隊は一応それなりの数がいそうです」


 リディアは「ありがとう」と軽く微笑むと、再び遠くの城壁へと視線を戻した。もし正攻法で攻めるのであれば、弓矢や攻城兵器を使った大規模な戦闘が避けられない。だが、ここに至るまで公爵軍はほとんど血を流さずに領地を制圧し、民衆を味方につけてきた。彼女が望むのは、無駄な犠牲なしに王都を屈服させることだ。とはいえ、あの王太子や取り巻きの貴族たちがそう容易く降参するとも考えにくい。


「父上の主力部隊は今どこに?」

「こちらの伝令では、もうすぐ合流地点に到着とのことです。おそらく、午後には追いつくはずです」

「わかったわ。なら、それまでの間にわたくしたちが先に城壁周辺を抑えてしまいましょう。敵が慌てて飛び出してくれば好都合ですし、何もしなければ包囲網を形成する時間が稼げますから」


 副官に指示を出し終え、リディアは軽く手綱を引いた。兵たちは統制の取れた動きでそれに続き、どこか浮き立つような空気を保ちながら王都を目指す。公爵軍の旗印が風にはためくたび、その存在感は周囲の人々に「もうすぐ国の中心が変わるかもしれない」という予感を与えているようだった。


 王都の外周に点在する家並みを越え、堅固な城壁がその全貌を現し始めると、リディアは馬上から周囲を観察した。まだ騎馬隊と数百名の兵しかいないが、一行の士気は高く、すぐさま戦える態勢にある。実際、王都近くで暮らす農民や商人の多くは、公爵家が到着すると聞いて村外れや街道沿いに姿を現し、恐る恐るこちらを覗き見る。この様子だと、王家に心底仕えているというよりは、事態の成り行きを見守っている者が大半なのだろう。


「やや、これが王都か。ここまで来るのは久しぶりだが、やたらと静かだな」

「本来ならもっと行き交う人も多いはずですが、騒動を警戒して閉店している店もあるとか」


 兵士同士の小声のやり取りが耳に入る。まだ城門の前までたどり着いてはいないのに、外周域からして活気が感じられないのは異様だった。王都といえば、この国の政治と経済の中心地。だが、今は緊急事態だと察知して人通りが減り、城壁内では何らかの混乱が起きているのかもしれない。


 やがて視界が開け、城門がはっきり見えた。厚みのある二重扉が閉ざされ、周囲に古めかしい見張り台がいくつも並んでいる。見張り台の上からちらちらと人影が動くのが見えたが、声を上げる様子はない。公爵軍の姿を見て怯えているのか、それとも指揮系統が混乱しているのか。


「さあ、どう出るかしらね。呼びかけをしてみましょうか?」

「はい、お嬢様。兵を前面に配置し、威圧感を出すのがよろしいかと」


 副官の言葉に従い、リディアは騎兵を城門前に展開させる。軽装の歩兵も二列に分かれて続き、なかなか壮観な布陣が完成する。城壁の上で動いていた兵士たちが、その様子を見て慌てているのが遠目にも伝わる。


「おーい! 公爵家の軍だぞ! 開門するか、それとも抵抗するか、今ここで答えろ!」


 先頭の一人が大きな声で呼びかける。しかし城壁からは明確な返答がない。ただしばらくの沈黙が続くだけだ。兵士の中には「もしかして誰も指示を出せる者がいないのでは?」と首をかしげる者もいた。


 ほどなくして、見張り台に立っていた男らしき人物が、がくがくふるえながら声を張り上げた。


「こ、こちらは王都守備隊だ! 勝手に近づくな! いったい何のつもりだ!」

「何のつもりも何も、公爵家は正式に宣戦を布告している。王太子がわたくしたちを侮辱した代償、ここで払ってもらうわ」


 リディアは馬上で凜とした声を響かせる。城壁の上の兵たちはうろたえたように顔を見合わせ、どこかで怒声らしきものが飛んだ。指揮官がいないのだろうか、あるいは複数の指揮官が割れているのか――官僚主義の縦割り組織の弊害がこういう形で露呈するのだと、リディアは半ばあきれつつ観察する。



 一方、王宮では全く別の混乱が渦巻いていた。玉座の間に集まった貴族たちが、昨日から持ち越しの会議を開いているが、意見は割れるばかりで決まらない。


「公爵家が城門まで来ているという報告があるぞ! 早く兵を動かさないと、危険ではないか!」

「いや、まだ正式な事態だと確認できていない! そもそも誰が指揮を取るというのだ!」

「殿下は? 殿下は一体どこにいらっしゃるのだ!」


 玉座は空っぽ。王太子エドワードは、裏でこそこそと別の部屋に籠もっていたのだ。彼は取り巻きの貴族に囲まれながら、顔色を青くしてわめいている。


「き、聞いたか? 公爵軍が城壁まで来たそうだ……どうする、どうやって追い返すんだ!」

「どうするもなにも、殿下が婚約破棄を一方的に宣言なさったからこじれたのでは……」

「そ、それはそうかもしれないが! わたしが悪いって言いたいのか!」


 取り巻きは言葉を詰まらせながら、曖昧あいまいに誤魔化す。そもそも彼ら自身がエドワードをあおって婚約破棄を早めさせた手前、いまさら責任をなすりつけられるわけにはいかない。


「まずは城壁の守備隊を増強するんだ! 兵を集めろ、何としても集めるんだ!」

「殿下、その兵の確保はどのように? 王都の予備兵はまだ再編成もできていませんし、装備も以前のまま……」

「そんな細かいことは知らん! 早くやれ!」


 指示が上から下へ飛ぶたびに、各部署の貴族や役人が顔を見合わせ、誰一人責任を取りたがらないまま駆け回る。結局、兵士の数がなかなか集まらず、装備も古いままで、正式な戦線を張るには程遠い状況だ。王太子が掲げる「王家の威光」だけでは、もはや兵がついてこない。


「殿下、城壁の上の守備隊から連絡が入りました! 外に公爵家の部隊が陣取っており、どうにもこうにも……」

「ど、どうにかならんのか!」

「それが、命令系統も混乱しており、門を閉ざす以外に何の対応も……」


 エドワードは頭を抱え、取り巻きたちも何も言えず顔を下に向ける。もともとこの王太子を深く敬愛している者は多くはなかったが、今やその数はさらに減っていると言っていい。官僚主義の縦割り組織は、何も決まらないまま時間だけが過ぎていく。城壁の守備隊からは悲鳴交じりの報告ばかりが飛び込んでくるが、彼らにしてみれば王宮にいる偉い貴族が助けてもくれない状態だ。

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