第7話
「カハル、目を覚ませ、カハル!」
手足の感覚が少しずつ戻る。覚醒する直前、夢と現実の合間に味わうかの様な不快感と不自由感の中にいた私は、鋭くも温かみのあるその声でこちら側へと戻って来た。多大な努力の末に目を開けると、すぐそこには感情の波にゆらめく深海色の瞳がいて、間抜けな私の顔を映して大きく収縮した。
「よかった、目を覚ましたな、カハル!」
「ご、主人様、私は……」
「今は何も言わんでいい、ほら、水だ。早く飲め」
押し付けられたコップから冷たい水を喉に流し込むと、それで順繰りに機能を取り戻した胃腸がすぐさま激烈な反抗を示し、朝に食べたトーストやベーコンを胃液と共にまとめて外へと吐き出させた。ああ、くそ、床が汚れてしまう。どうやら私は何処かのベッドに寝かされている様だったが、それが何処かを考える余裕はもはや無かった。
げえげえと胃をすっかりカラにし終えると、ご主人様はいつも通りのなんでもない魔法で吐瀉物を処理し終え、一転して厳しい顔つきのまま私の方を顧みた。
「……もう一度、同じ問を繰り返す必要がある様だ、カハル」
「はい、ご主人様」
「お前、何を見た?」
「……言葉に、できぬものです。分からないのです、兎に角。分からないですが……兎に角、恐ろしいものを見ました」
「クリストファーを殺した犯人には会えたか」
後から思えば妙な問いだったが、私もご主人様も、彼の命を奪った犯人が何であるのか、ある種の確信を持っている様だった。私がその問いに小さく頷くと、ご主人様はこれまでに見たことのない形相で強く唇を噛み締め、
「……済まない、済まなかった、カハル。皆全てわたしが悪い、お前を連れていくという判断をしたわたしの責任だ。どうか許してくれ」
「ご主人様、それは、構いません。でもどうか─私に秘密にしていることがあるのなら、少しだけでも、教えて頂けませんか」
「……そう、だな。そうすべきだったんだ。わたしがそれを秘密にしていた所為でもあるのだから。少し待っていろ、カハル。今、ココアを持って来てやる。それを飲み終えたら、場所を移そう」
温かくて甘いマグカップ一杯のココアを飲み干した後、私はご主人様に支えられながら、久しく立ち入っていないお屋敷の地下へと降りて行った。その間に私はあの魔法で目の当たりにした光景について、拙い言葉を当てはめながらぽつりぽつりと垂れ流す様に話していたが、ご主人様はそれを優しく聞きながら、ゆっくりと階段を降りて行った。
「何かあった時にでもと思ってな。用意を整えておいたんだ」
酒蔵のすぐ隣に作られた空き倉庫の扉を開けると、ご主人様は手を翳して呪文を唱える。
「『Glanney seose!』」
すると、部屋の中に転がされていた木箱の中から大量の漆喰やペンキが飛び出したかと思うと、迅速に壁を白く塗り込め始め、おまけに木組みで設計された部屋の輪郭そのものが変わっていく。ややあって、それがタヴェナント邸の地下室と同じある種のドーム状に整えられると、ご主人様は言った。
「お前にはしばらく、ここで過ごして貰う。不自由をかけるだろうが、命を助ける為だと割り切ってくれないか」
「……それは、あの『獣』から、ということですか」
「そうだ。奴は執念深くお前を付け狙うだろう、奴の姿を直視した時には、もはや全てが終わりだと思っていい」
『獣』。不思議とその形容が口から出て来たことに、私は自分で驚いていた。『獣』だ、奴は『獣』なのだ。ご主人様は部屋の中央に立って、チョークでひどく複雑な魔法陣を描きながら、言葉を続ける。
「その『獣』は今から数十億年の太古、我々に直接繋がる祖先としての生き物が現れるずっと前にこの世界から別れた、『鋭角の世界』─言い換えると、尖った空間に暮らすものだ。お前も見たんじゃないか、曲線のない、直線だけで形成された奇妙な世界の幻影を」
「……はい」
「本来その世界と我々の世界、『鈍角の世界』、つまり歪曲した空間は決して触れ合うことなく、分厚い時空間の壁に隔てられているが、時にそれを超える何かしらの事象が起きる場合がある。例えばそう、時空間をくしゃっと丸めて、そこを強引に飛び越える様な真似をしたりとかな」
「時を越える、って、もしかして」
「そうだ。あの『獣』はそれを狙う。こちら側の時空間が何らかの働きによって形にブレを生じさせた時、次元を隔てる分厚い壁に僅かな穴が穿たれる。彼らの世界には空間はあっても時間は存在しない。過去と現在と未来が渾然一体となった世界だ。それと同じことをこちら側でした時、ごく稀に二つの世界の間に通路が出来てしまう場合がある……まあ、面倒な理論的な説明は省こう。兎に角、時空間を下手に飛び越える手段を使ったことで、クリストファーもお前もあの『獣』に目をつけられてしまった、そういうことだ」
「もしかして、あれは時を超えて追いかけてくるのでもいうんですか?」
「あぁ、そうだ。何十億年もの時間をひとっ飛びにして、奴は突然此方に現れる。青黒い煙がしゅうしゅうと出て来たら最期と思え。すぐにそれはお前が見た悍ましい形質の肉体を形成し、襲い掛かってくるだろうから」
但し、とご主人様は付け加えた。
「奴らが此方の世界に顕現する為にはある条件が必要だ。それをクリア出来ない限り、お前は手出しを受けない」
「そ、それは?」
「鋭角だ。奴らは『角度』から現れる。言い方を変えよう、時間の跳躍が奴らの世界と此方の世界の通路を開くのだとすれば、空間的な通路も開かれていると考えることができるだろう。その通路こそ、この世界に偏在する角度だ。奴らは一二〇度以下の鋭角が無ければ、此方へと顕現することができない。だからわざわざこの部屋をこんな形に改装したんだ」
「も、もしかして、クリストファーがあのドーム状の部屋を作ったのも?」
「さあ?まだあの手稿を全て読み解いたわけではないからな……だが、不完全とはいえ、彼はあのドームの中に引きこもっていたからこそ、一週間命を永らえることができたわけだ。偶然であったとしても、中々に幸運な男だと思わんか」
魔法陣を描き終えたご主人様は、私にその中に入る様に命じると、幾つかの短い呪文を唱えて両方の肩を軽く叩いた。そして、愛用の虹瑪瑙のポーラー・タイを襟元に締めて、
「ひとまず、この空間からわたしは角度を消しておいた。そして、部屋の中心にはお前の姿を隠す魔法陣を描き、序でに最後の手段として不浄なものから身を護るまじないを三重にかけてある。その虹瑪瑙には、非常時に炸裂する魔力を込めてあるから、常に身につけておけ。発動する呪文は─」
「はい、ご主人様」
「それから、身の回りに常に鋭角を作らない様に気をつけるんだ。ごく些細なものでもダメだ……それこそ、ガラス瓶の破片なんかにもな。食べ物と水は定期的に運ばせるが、魔法陣の中からは絶対に出てはいかん」
「……善処、します」
乾いた声が喉から飛び出す。ご主人様は最後にありったけの力で私を抱きしめると、
「カハル、三日耐えてくれ。その間に作りかけの魔法術式を完成させる。あの『獣』は、今の所撃退することは出来ても殺し切る手立てが無かったんだ。だが、お前の命を守る為だ。何を代償にしても、必ず完成させてやる。だから安心して待っていてくれ」
「……危ないことは、どうかなさらないでくださいね」
「……あぁ、勿論だ」
冷たくなりかけていた心臓に、再び温かい血が流れ込む。一度は絶望に囚われていた心がもう一度息を吹き返す。私はご主人様の背中に手を回すと、同じだけの力を込めて強くその華奢な体を抱いた。希望を決して離すまいという決意を、流し込むように。
では、また後でな。ご主人様が部屋の扉を閉じて上の階に登っていくと、私は一人ぽつんとドームの中央に取り残された。この地下倉庫は存外広く、魔法陣の中も手足を大きく伸ばして寝転んでもまだ余裕がある程の面積がある。しかし、角度を避ける為当然ながら窓や家具の類もなく殺風景で、暇を潰すための本さえ置かれていない。
「(どれ程小さな角度からでも襲ってくる、か)」
ご主人様の見立てでは、クリストファーはふとした時に割ってしまったブランデーの壜の破片からあの化け物に襲われてしまったのだという。その程度のことでも致命的になるのならば、やはりどんなものもここには置いておけまい。
そして、もし本当に逃れる術がそれしか無いのだとしたら、人間は早晩精神の均衡を失って決定的に狂ってしまうことだろう。現に私自身、後三日もここで過ごすことを考えると、心が鬱々としてくる。
そもそもとして、生活空間から角度を完全に無くすことなどできるのだろうか。どれほど堅牢に作った部屋であったとしても、僅かな空気の出入りや地下水の漏出はどうしても避け得ないし、石膏やモルタルの壁にもやがて微細なひびが入ってくることだろう。流石のご主人様でも、そこまで防ぐことは不可能なのではあるまいか。
「(もし仮に、ご主人様が間に合わなかったらどうなる。私はここで、惨めに殺されるだけではないか)」
僅かによぎったその考えを私は必死に振り払う。なんたってご主人様だ、あのブリューゲッド閣下だぞ。この王国で五本の指に入る魔法使いが、私のことを守ると言ってくれたのだ。それに全幅の信頼を置けずにどうするつもりだ。自分一人では何一つできない癖に。
「(だが、あまりにも……あまりにも、)」
孤独だ。そのことが何よりも私の心を蝕む毒の霧になった。恐ろしい化物よりも、人智を超えた超古代の秘密も、ベールの向こうに広がる酷薄極まる世界の真実も。それら全てよりもなお、孤独は私の心を締めつけた。ご主人様はお言葉通り、三日経つまでここへ帰っては来るまい。あの扉を開けた時に生じる角度さえ致命的になりかねないのだから。確実に殺し切る魔法を設計するまで、あの人は戻るまい。
だが所詮、あの人は当事者じゃないんだぜ。そう叫び始める悪魔の首を絞めながら、私は魔法陣の中でのたうち回った。ほんの僅かでも気を抜けば、あの化物が襲って来るのではないか。夜に襲われたらどうするつもりだ?あの人とて、常に駆け付けてくれる訳じゃないんだぞ。煩い、ご主人様を侮辱するな!
地下のドームの中で、私は時間の感覚を早々と失っていた。ご主人様は電球の形をした魔法の明かりを空中に吊るし、昼は明るく夜は暗くすることで大まかに時間がわかる様にしてくれていたが、それでも変調が生まれることは避け難い。たかが三日と侮るなかれ、その中で過ごした時間は、私にとっては数年か数十年にさえ思われたのだから。
悪夢もまた、時間を酷く引き延ばした。あの魔法で断片的に垣間見た、遥かなる混沌の過去。そこに住まう不浄な者ども─隣人ではない、全く違う何者かより生まれ落ちた者どもの姿が、幾つもの影となって私の意識を覆い尽くした。どうやら彼らは、私の経験する時間とは全く異なる領域を広げているらしく、それは常に長大なオペラとして展開し、舞台そのものに大きな穴を開け続けた。数年に及ぶ苦難の日々を送ったかに思えて目を覚ますと、魔力燈はまだ暗いままで、もう一度目を閉じると再び待っているのは地獄だ。私はむしろ、ご主人様がここに居なかったことに感謝した。聞くに耐えぬ呻き声を─永久に精神病院の牢獄から出られぬであろう気狂いの懊悩と醜態をご覧に入れずに済んだのだから。
かくしてまた、朝が来た。
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