第6話
死ぬかと思った。いや、さては既にもう私は死んでいるのではあるまいか。ものの数分の内に内臓を二、三回丸ごと掻き回された様な不快感と共に地上へ着陸した私は、そのままご主人様に引きずられてタヴェナント邸の中に押し入る様にして足を踏み入れた。出迎えたのは昨日の老執事であったが、皺と白鬚に包まれた顔いっぱいに焦慮を浮かべ、ご主人様が姿を現すや、
「ブリューゲッド閣下!ようこそおいで下さいました、さあ、どうぞこちらへ」
「事情は粗方察しがついている─地下室だな?」
「はい、閣下」
『閣下(ユア・グレイス)』の発音が妙にずれている様な気もしたが、その程度のことを気にするご主人様ではない。迷いなく大股でホールを突っ切り、例の階段の下に取り付けられた隠し入り口から、細い地下通路の中に潜り込む。
「一週間ほど前から、この地下室から出られなくなったのです。お食事を運んでもお姿を見せてくださらず……」
「やはりか、間に合うといいのだがな」
やがて私たちは、先週にも目の当たりにしたあの奇妙なドーム状の部屋の前までたどり着いた。固く閉ざされた扉の前に立ったご主人様はドンドン、とそれを叩き、
「タヴェナント!クリストファー・タヴェナント、聞こえるか!わたしだ、ブリューゲッドだ!電報を見てここに来た、頼む、ここを開けてくれ!」
「─博士、あぁ、博士!遅いのです、もう、遅いのです……どうか、この扉を開けないでください。貴女まで巻き込みたくはありません。そんなつもりではなかったのです、貴女に憧れてしまった、たったそれだけの理由だったのに─あぁ、神様!」
「クリストファー、大丈夫だ、ここを開けてくれ!わたしはお前を助けに来たんだ。助けられる、きっと……だから命が惜しかったら、早く此処を……」
その時、扉の向こうで驚きと凄まじい恐怖の叫びが響き渡り、がたがたと何かが暴れ回るくぐもった轟音が耳に届く。それを聞きつけてご主人様はすぐに中へ押し入ろうと試みるが、どうやら扉に魔法の鍵がかけられているらしく、開錠の呪文無しには直ぐに開きそうもない。
「クリストファー、早く此処を開けてくれ!お前の魔法は高度だ、だがそのせいでお前は死んでしまうぞ!」
もはや答えはない。断末魔と破壊音が非常にも止み、束の間の静寂が狭い地下通路を満たす。ようやく呪文を組み上げたご主人様が扉を打ち破ると、我々はすぐさま中に駆け込んで状況を確認し─そして、ぐにゃりと世界そのものが溶け落ちるかの様な惨状を目の前に突きつけられた。
「クリス……」
力無く膝をつく私の前には、クリストファー・タヴェナントの形に広がった青黒い液体の痕跡だけがあった。ドームの中は文字通り『硫酸を直接嗅いだ様』な不快な刺激臭に満ちており、横倒しになった丸テーブルからは例の魔導書の手稿やブランデーの瓶の破片などが散乱している。よく見るとその硝子の欠片の幾つかにも同じ液体の様なものが付着しており、酒と反応してしゅうしゅうと不快な煙を立てていた。
「……一足遅かったか」
ぼっちゃま、と泣き崩れる老執事を尻目に、ご主人様はテーブルから落ちた手稿を拾い上げざっと中身を確認する。そして苦渋に満ちた表情で首を横に振り、
「カハル。済まなかった、お前の友人を助けられなくて」
「いえ、そんな。むしろご主人様こそ、お怪我はありませんか」
「いや、無い。だがそれにしたって……馬鹿なことをしたものだ。こんなことをしてまで、わたしに追いつこうなどと……」
些か上昇志向が強い嫌いがあったとはいえ、ご主人様にとっては可愛い後輩だったのだろう。誰かの死に本気の感情を表すこの人を見るのは随分と久しぶりだった。私も、常ならぬ最期を迎える羽目になってしまった彼のために祈ろう。そう思って、一度は目を背けた床の方に目を落とした時、
「これは、プリズムか?」
その三角柱は青黒い得体の知れない何かに塗れてもなお、透き通った虹色の光を放っていた。私は液体に指先が触れない様、慎重に水晶の面だけを手に取って、それを持ち上げようと試みる。それが大いなる誤りであると、知ることも無しに。
「駄目だカハル、触るな!」
「えっ」
遅かった。私の指先が石に触れた直後、ばちばちと爆竹の様な音と共に魔力が爆ぜ散り、私の視界を覆い尽くす。凄まじい光と共に流れ込む力によって私の意識は濁流の中の小枝宜しく容易く押し流され、かつて友人が目の当たりにした景色の方角へと向かっていく。
「(なんだ、彼は一体、何を見たのだ?)」
─漂白された視界の中で最初に気がついたのは、ベールの向こうで蠢く何者かの存在だった。瞬きの百分の一程度の時間、この部屋に閉じこもり、果てのない狂気の奥底へ沈み込む友の姿が見えた気がしたが、容赦無く時間は『巻戻って』いく。過去へ、過去へ!ただ果ての無い過去へ!この地下が、土砂の積み重なる地層に埋もれる前の果てなき時代、原始文明、既に絶滅して久しい生き物達の闊歩する時代、やがて木々はシダへと巻き戻り、荒涼たる陸地を覆う苔となり、やがて海へと退いていく。その海もまた、数十億年の歴史の中で形作られてきた。節足動物、海蠍、直角貝─エビの様な奇妙な生き物。それさえも姿を消し、地球は虚無に覆い尽くされたかにも見える。ところが、我々の知る歴史を遥か一周した果ての向こう側には、さらなる者どもがいた。さらなる者ども、そうとしか言いようがない者ども。彼らは我々の先駆者ではない、我々の隣人ではない。我々の神が作った─共に地上を分つべき被造物ですらない者ども!彼らが支配する太古の中に投げ出された意識は際限なく加速を続け、それすらも超越した場所へ─恐ろしき混沌、神が『光あれ』の言葉と共に光と闇を分つよりも以前の中に流れ込み、その泥濘の中に溜まる。切れ切れに散った意識の破片がつなぎ合わされなかったことは幸運だった。それを直視した時、私は私で居られなくなってしまうのだから。幸いなことに、私は自分の理解を超えたものを『忘れる』ことができたのだ─カハル、カハル・ボードマン!神々の愛おしむ子よ、どうか我が下に帰れ─その泥濘の中にいるものは何だったのか。光と闇が、一つのものが二つとなり、我々が悪しきに言論で物事を語り始める前に潜んでいたものがいるのだとすればそれは何か。直線だった、そう、直線だった。私があの泥沼の中に見出したのは、古代の哲学者達が追い求めてなお手に入れられなかった直線だけの素晴らしき世界─ではなかった。螺旋を描く幾何学図形は、我々の数学で語れる様なものではなかった。それは直線で構成されていながら内角の和が一八〇度にならない三角形によって構成された、丸い四角形であり、内接する六角形で完全な面積を求めることができる円であった─カハル、こちらへ戻れ、早く帰れ─五次方程式の代数解を求める為の公式があの尖塔の壁に刻まれ、素数がどのような法則性の下に現れるのかという答えが、穴を開けることなく裏返しにされた直方体の中心に描かれている。そして、それらの真ん中に─遥かな直線だけで構成された世界の中心に、そのものはいる。目はない、体も無い。形すら無いがそれは直線であり、こちらを見ていた。胃袋無くして飢え、足無くして駆け回るそれは、私を見ると閉ざされた口の中から獰猛な平べったい牙を閃かせた!それが、逆にそれこそが、私が何者であるのかを私自身に思い出させてくれた。『死』を恐れるという素晴らしき本能が、超越者気取りで目眩く過去の幻像に溺れていた私の中に甦った時、凄まじい力が襟首を引っ掴み、元来た方角へと一挙に引き戻していく。だが、『それ』は諦めない。諦めてはくれるだろう。その目が確かにこちらを見つめ続ける視線を感じながら、私の視界は再び無限の白に染め上げられた。
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