第4話
何だったのだろう、あれは。
メアリーズヒルの街並みが遠ざかって行くにつれて、私の心には冷静さと共に一種の虚しさが去来していた。理由はよく分からないが、私は友人に拒まれた。貴重極まる同格の友が今しがた失われてしまったのだ。
相手を責めるよりもまず、その寂しさだけが先に立った。セント・トーマス街に戻る気にもなれず、ぼんやりとテムズ川にかかる大橋の真ん中に立ち、流れて行く川の濁った水面を見つめていても、気分は晴れない。私が何かしてしまったのだろうかという答えのない、考えても仕方のない問いだけがぐるぐると循環する。
十五分もそうしていただろうか。後ろを何台の辻馬車が通って行ったか、もはや数えることも馬鹿らしくなってきた時、
「カハル、カハル?何をしてるんだこんなところで」
「え……あ、ご主人様?」
振り返ってみると、そこに居たのは果たして私のご主人様─こと、例のブリューゲッド博士本人であった。背中に長く伸びた白髪を頸の辺りに留めて、この盛夏でも皺一つない紺色の背広を白シャツの上に着て、下には色味の似た細身のズボンを履いている。襟元に下げたポーラー・タイにあしらわれた宝石の名前はよく知らないが、おそらくお気に入りの虹瑪瑙のブローチだろう。
「お前、こんなところで何をしてるんだ。今にも飛び降りそうな顔をして。心配したぞ」
「ご主人様こそ。女公爵閣下が従者も連れず、下町をほっつき歩くなんて不用心ですよ」
「心配ない。並の暴漢ではわたしに傷一つ付けられんさ」
飄々と言い退けるが、完全な事実である為に私としても反論のしようが無い。ご主人様は単なる魔法学者ではなく、実務家たる『魔法使い』としても稀代の才能を持つ。昨日披露されたアイスクリームを作るだけの魔法も一見すると下らないが、冷却と念動力の二つの現象を同時にコントロールする極めて高難度な術式である。それを杖も詠唱も無しに息をする様に使える辺り、その力に疑いを挟む余地はない。
「で、結局どうしてこんなところで黄昏ているんだ?タヴェナント邸に遊びに行っていたんだろ、喧嘩でもしたのか」
「喧嘩、喧嘩と言えば……そうかも知れません。まあ、くだらない話ですよね」
「話してみろよ。他ならぬお前のことだ、悪いようにはしないし力にもなる」
「……別に、ご主人様のお気にされる様なことはありませんよ」
クリストファーの様子は明らかにおかしかった。あの不気味な薬にしろ、文字に起こし難い奇怪な呪文も、恍惚から恐怖に歪んだ顔貌も。何もかもが異常だった。およそ人間が生きている常識の世界を踏み外しかけた、全く別の世界が顔を出した瞬間。それを垣間見たことで、私の精神には埋めようもない穴が穿たれた様な気がしてならなかった。
だが、それでも。私の口はあまりにも重かった。この人にそれを話して良いものだろうか。この人を、他ならぬ私のご主人様を巻き込むのは、果たして許されることなのだろうか。
「……カハル。お前も大概隠し事が下手くそだな」
ふとご主人様が笑う。深海色の双眸を細め、緩やかに唇を上向きにカーブさせながら、私の肩を組んで橋の真ん中から歓楽街の方角に歩き出した。
「特別だ、わたしが茶でも一杯奢ってやるよ。ケーキをつけてやったって構わない。だからその代わり、そんな顔で隠し事をしてくれるな」
「……すみません、ご主人様」
「別に謝らないでもいい。行くのはいつもの喫茶店でいいか?」
はい、と答える代わりに小さく頷く。やはりこの人は優しい、優し過ぎるのだ。貴族としても魔法使いとしても。その温かみにどこまでも甘えてしまいたくなる自分がほんの少し─嫌だった。
大橋から北側に舵を切り、人の流れと馬車の流れに正直について行くと、やがて庶民向けの低価格な店が一エーカーに数十軒の割合いで密集するかのソーホーの雑然とした通りに辿り着くのだが、ご主人様は目が回る様な雑踏の中を躊躇いなく早足で歩き切り、一軒の喫茶店の敷居を跨いだ。しわがれ声のマスターが酷い北国訛りで「いらっしゃい」と言いながらマグカップを磨く薄暗いその店は、かつて王立学院の博士課程に居た頃密かに通っていた隠れ家なのだという。
「よく一人になりたい時にここへ来ていたものさ」
そう呟きながら私と共に窓際のテーブルに席を占めると、ご主人様は徐にホットチョコレートとツナのサンドイッチを二人前注文した。
「今日は特別だ。尤も、いつかお前にも教えてやろうと思っていたんだがな」
「いいんですか?」
「ああ。お前ならいいよ─但し、もし他人に教えたら酷いぞ。なんたって、わたしは他人に自分の居場所を荒らされるのが一番嫌いだからな」
もしもこの店がくだらない新聞記者の目にでも留まって、隠れた名店として混雑する様になっては困る。いっそ自分が買収してしまおうかとも考えたが、冷静な口調でマスターに諭されて断念したのだとか。
「まあ、わたし専用の店になったが最後、喫茶店としては死んだも同然だろうからな。よくわかる話だよ」
幸い店は殆ど混んでいなかった為、程なくして注文した品物が私たちの間に運ばれてくる。だが、ホットチョコレートと名が付いているはずのマグカップにはこれでもかとホイップクリームが盛り付けられており、その蓋をわずかにずらしてみると、カカオの薫る濃い色合いの液体が姿を見せる。
「わたしの好みに改造してもらってるわけだ。文句はあるか?」
「いいえ」
恐る恐る口を付けてみると、柔らかなクリームの味わいと僅かに苦味を帯びたチョコレートが口の中でうまく混ざり合い、まろやかな甘みとなって舌を包み込む。美味い、ささくれ立っていた心がゆったりと安らぎを得て、自然と筋肉が解れる。
「美味いか?」
「はい、ご主人様」
「そうか。なら、さっき何があったかも話せるな」
刹那、ご主人様の双眸から柔和さが消え、殺意にも似た剣呑な感情が瞳を支配する。海の底に引き摺り込もうとする化け物を彷彿とさせる顔のまま、ご主人様は冷酷に私に告げた。
「気が付かないとでも思ったのか、お前の体に染みついた嫌な魔法の臭いに。硫酸を直接嗅いだような不快な気分だ」
「ご、ご主人様、私は」
「口を閉じろ、カハル。次お前が口を開いていいのは、私の質問に明確な答えを返す時だけだ。さもないと、お前は人間の形をしてこの店から出られないぞ」
本気だ。本能的にわかる。この人が指一本動かすだけで、私はズタズタに引き裂かれて死にかねない。奥まった黒眼の中に強い猜疑の光が宿り、獲物を狙う毒蛇よろしく丹念に私を睨め付けると、ご主人様は再び形の良い唇を動かして言葉を続けた。
「カハル、わたしはお前を信じている。少なくとも、身体中に返り血が飛んでいたとしても、お前が人殺しをしていたとは思うまい。だが、」
「……っ」
「それをわたしに話してくれないのは頂けない。カハル、わたしの怒りと失望を身をもって知りたくはないだろう?」
「ご、ご主人様、それは」
「口を開くなと言った」
命令を忘れたのか。言外にそう意図を含んだご主人様の声音は、魔法を使わずとも十分に私の心身を氷の鎖で縛り上げた。弁明さえ許されない、今のこの人にとって、私の思うところなど地面に転がった小石ひとつ分の価値にもならないのだろう。再び沈黙して俯いた私を前にして、ご主人様はもう一度問いかけた。
「カハル。正直に言え、今ならまだ間に合う─勿論、間に合わないということはあり得ないのだが。お前の口から出てきたことなら、何であれ信じよう。人を殺したというのなら死体を埋めてやっても構わんし、怪しい女に言い寄られたというなら、さっぱり手を切らせてやる。尤も、後者の場合は誰であれ無事に済まそうとは思わんが……まあいい、それで、答えを聞こう。必要なことを端的に、包み隠さず話せ。お為ごかしは不要だ」
話すより他にない。選択の余地はもはやどこにも残されていなかった。私はごくり、と喉を鳴らして唾を飲み込むと、ゆっくりとタヴェナント邸での出来事をはじめからひとつひとつ話し始める。辿々しく、順序の混乱もあったであろう話にご主人様は黙って耳を傾け、時折ホットチョコレートを口にしながらも、視線は一切私の視界から逸らさなかった。無限にも思える時間、おそらくは十数分でしかなかったことだろう。私が最後まで語り終えて口を噤むと、そこで初めて、
「……幾つか、確認しておきたいことがあるのだが」
「はい」
「話を聞く限り、お前はその魔術に直接関わってはいないのだな?あくまでも側で顛末を見ていたというだけだと」
「はい」
「そうか、それなら一先ずはいい。安心した」
辺りを包み込んでいた鋭角的な空気が解れ、私たちの間にいつも通りの、少し緩やかな主従としての関係が戻って来たような気がした。私はほっと胸を撫で下ろすと、うっすらと霜が─実際に降りていたのだから仕方がない─降りた硬いツナサンドを口にしたが、からからに乾いた口の中ではうまく咀嚼することも出来なかったので、止むを得ず水の力を借りた。私が生命の危機から脱した喜びの味を涙と共に楽しんでいる間にも、ご主人様は眼を鋭く細めて思索の中に沈み込み、
「……カハル。クリストファー君が使ったという例の魔術について、もう一度詳しく話してくれないか」
「え、ええ……その、まず彼は私に羊皮紙の手稿を見せてきました。ただ、書かれている文字や幾何学図形の意味はよくわからなくて、なんのことやらちんぷんかんぷんで……」
「まあ、魔導書というのは大概そんなものだ。使える人間が読んで初めて意味をなすようなものだからな。不幸なのは、彼がその魔導書を読めて、尚且つ理解できてしまったことだ」
「ど、どういうことです?」
ご主人様は私の問いかけには直接答えず、代わりに次の質問をこちらに投げかけた。
「それで、彼が儀式に使ったのはなんと言ったっけ」
「青緑色の粉末と、三角柱のプリズムです。多分水晶で出来ていたのかなと」
「……ふうむ」
「思い当たる節があるんですか?」
「無い、とは言わない。だが、わたしとしてもこの世の魔法全てを知っているわけではないからな」
同じ様に自分もツナサンドを食みつつ、窓の外を流れて行く雑踏に眼を向ける。こういう時、この人はいつも無数の考えを頭の中で巡らせている。自分如きには到底及ばない高度な理論を構築しているのか、はたまた今晩の主菜は何かと予想しているのか。だが、その思索によって私は何度も命を救われて来た。この人が考えてくれる限り、待っているのは必ず幸福な結末のはずだ。私は半ば信仰にも近い感情で、時が過ぎるのを待っていた。しかし、今一度動いた唇から発せられたのは、
「……どうにもし難いな」
「え?」
「どうにもし難いと言ったんだ、カハル。少なくとも、お前の友人は諦めた方がいいかも知れない。勿論手は尽くそう、命が助かる様に最大限やってはみるが、よくて精神病院に一生ぶち込まれるだろうな」
「そんな、それじゃあ一体、彼はあの儀式で何を見たっていうんですか?」
「お前が知るべきではないものだよ、カハル。まともに生きていたいと望むなら、多少の好奇心には目を瞑っておくんだ。少なくともわたしが手を出すなということには相応の理由があるってことを理解できない君でもないだろう。黙っておくんだ」
「……」
「まあ、彼のことは任せておけ。手は尽くすさ─一週間程、来客は断っておいてくれ。図書室で調べ物をしなければならないからな。仕事の一切は執事長に任せておく。ああそれから、君もそうだ。わたしがいいと言うまで、君も図書室に入ってくるんじゃない。食事は扉の前に置いておけ。必要なものがあれば紙に書いておくから、メイドに取り次げ。いいな、絶対だぞ」
「……はい」
よほどひどい顔をしていたらしい。サンドイッチを食べ終え、ホットチョコレートも空にしたご主人様は黙って席を立つと、そのままがしがしと手荒く私の頭を撫でたのだ。大丈夫だ、安心しろと言う様に、温もりのある掌が私の頭を覆い、慈しみの雨を降らせた。しかし、そのことがより一層深い不安の霧を心の中に広げたことは決して言えない─私の頭を撫でるご主人様の顔には、その下にあるものが透けて見える程に悲痛な、無表情の分厚い仮面が張り付いていたのだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます