第3話
九月十六日。
いつもの習慣の延長線として、朝方は特に機嫌の悪いご主人様を寝室から引き摺り出し、肉厚なベーコンと卵をメインにした朝食を共にし終えると、私は普段の仕着せからふた揃いしかない私服の一つに着替え、久方振りの外出へと足を踏み出した。セント・トーマス街の屋敷からタヴェナント邸のあるメアリーズヒル地区までは、そこまで遠い距離というわけでもない。歩いて精々十五分と言ったところである。
セント・トーマス街に居を構えるのがブリューゲッド家を筆頭に数百年の歴史を誇る古い貴族の名門ばかりであるとするなら、メアリーズヒルに家を所有しているのは近頃大いに羽振りを効かせているブルジョワジーばかりである。元は地方のジェントリから身を起こしたこの人々は、今となっては鉱山業に海運業、紡績業、金融業などに進出し、およそ我が王国の富の半分以上を稼ぎ出すといわれる活躍ぶりを見せていた。無論これらの新紳士達は、古色蒼然たる地方の邸宅とそれを囲む荘園の暮らしを愛する貴顕の方々からは徹底的に見下されていたが、その彼らも食うに困れば恥を忍んで連中の裏口から金を借りるか、さもなくば伝来の家宝を競売会社を介して連中へ売り立てに出す─近頃かのダッガン伯爵家が破産を避けるため、十七世紀の煌びやかな装飾写本や絵画のコレクションを売り立てに出したことは記憶に新しいだろう。ご主人様は首尾よくその中の最良の品々を廉価で得られたことにご満悦だった─かを選ばなくてはならない。げに嘆かわしき風潮である。
タヴェナント邸の佇まいは正しくそうした新興資本家の気風を象徴しているかの様で、金ぴかと似非芸術で飾り立てたバロック風のファザードによってメアリーズヒルに君臨している。外面の装飾で言えば公爵家よりも数段豪奢なのは間違い無いが、私としてはその役者根性がどうあっても気に入らぬ。無論友人であるクリストファーの悪口を言うつもりはないが、それでも合わぬものは合わぬのだ。
見せつける様に戸口の掃き掃除をする若い見習いメイドに小銭を渡して中へ取り次いで貰うと、すぐに立派な白鬚を生やしたバトラーが姿を現し、
「失礼ながらお名前を伺っても」
「カハル・ボードマン。クリストファー君のお招きで参りました」
「お話は伺っております。お二階の方へどうぞ。ご案内を致します」
先に準男爵殿にご挨拶すべきかと思ったが、話によると今は次の庶民院総選挙に向けての運動で地方を飛び回っているらしく、いつ帰るかはわからないとのこと。どうやら、タヴェナント家はブルジョワジーの典型的かつ理想的な人生をしっかりと歩んでいるらしい。恐らくは数年のうちに彼はどこか売りに出た僻地の荘園を形ばかり買い取って地主となり、どこかの金に困った伯爵家のご令嬢を息子に娶せることだろう。そうすれば晴れて貴族社会の仲間入りも射程に入るというわけだ。閑話休題。
ビロード製の敷物で規定された順路を辿り、エントランスホールから二階南棟の角部屋に至ると、直ぐにあの溌剌とした若々しい声が私のノックに応じた。
「失礼するよ」
「よく来てくれた、カハル。今お茶でも用意させよう。最近いいものが入ったんだ」
「ありがとう、クリストファー」
「おっと、昨日は特に言わなかったが、その仰々しい呼び方は無しだ。俺とお前は同格の友達、つまり、一々面倒でまどろっこしい呼び方は抜きだ、そうだろ?」
「……わかったよ、クリス。悪かった、余所余所しくして」
「それで良いんだ。ちょっと待ってろ、今座れる場所を作るからな」
我らがご主人様には一歩か二歩劣るものの、彼もまたその筋にかけては大変『勉強熱心』な青年である。私と同い年であり、今年王立学院の中等部を卒業する予定の彼なのだが、部屋を一瞥しただけで進学先は何処なのかすぐさま解った。
「君も魔法使いを目指すわけかい?」
「ああ、そうだよ。王立学院で研究をするか、魔術協会で免許を取るかは決めかねてるけど」
「だが、親父さんは君に家を継いで欲しいんじゃ?」
「会社の株は持っておくけど、俺に経営の才覚は多分ないからね。そのうち人手に渡すことも考えないと。そら、テーブルが空いたから座ってくれ。床に散らばってる本は極力踏まないでくれよ」
流石に本やノート類の片付けを魔法で一瞬のうちに、とはいかないらしい。私は彼に勧められるまま卓に着き、メイドたちが持って来た紅茶の良い香りの中、片付けを続ける彼の背中に問いかけた。
「それで、結局私に見せたいものってのは何なんだい?昨日は気になってほとんど眠れなかったよ」
「まあ待っていろよ。今必要なものを探して……ああ、あったあった」
「何だよそれ」
「まあ見てろって」
クリストファーが本の山から探し出したのは、こちらの国では見慣れない筆記体でびっしりと記された羊皮紙の手書き草稿で、一瞬目に入れただけでは理解し難い複雑な幾何学図形や、異様な光景が彫刻された香炉のような道具の絵図が付属している。私はそれは何だ、と問おうとしたが、彼はにやにやと笑うばかりで答えようとしない。そして、私のティーカップに入った紅茶が湯気と香りを失い尽くした時、彼はやにわに立ち上がって、
「ついてくるんだ、カハル。面白いものを見せてやろう」
「お、おう」
彼はその手稿の束を小脇に抱え込み、使用人達のいない静まり返ったホールの階段を降りて行った。彼はそのまま玄関から外に出るでもなく体を左側に旋回させ、大階段の下の壁に隠されるように作られた扉に小さな鍵を差し込んだ。昔、貴族の家ではこうした隠し部屋めいた仕掛けを作ることが流行した時期があったそうだが、この家もそうなのか。私はそう問おうとしたが、答えが返ってくる望みはほとんど無かったので、口はずっと閉じておく。
「足元に気をつけろよ」
クリストファーは初歩的な魔法で蝋燭に火を灯すと、それでかろうじて周囲を照らしながら、トンネルの様な半円形に切り取られた狭苦しい暗黒の地下通路を進んでいく。幸いなことに空気穴が何処かに空いている様で、絶えず吹き込んでくる風のおかげで私は魔法無しでも窒息せずに済んだ。通路は体感で十から十五メートルほどの長さがあっただろうか、屋敷の地下深くに掘り抜かれたそれを抜けると、私たちは灰色の石膏とセメントで隙間なく固められた小さなドーム上の部屋に出た。部屋の中心には酸素を消費せずに光続ける魔法の洋燈が吊るされ、丸テーブルと同じ形の椅子が一組ずつ。その上には薬包紙に包まれた青緑色の粉と半分程中身の入った水差し、そして三角形の水晶─プリズムが置かれていたが、何の用途かはさっぱり分からない。
「カハル。お前はご主人様の─ブリューゲッド博士の魔法を直ぐ側で見ていたから、そこまで新鮮味が無いかも知れないが、俺にも研究テーマと言うものがあってな」
「君の研究に関係していると?」
「そうだ。ああ、すまないが部屋の扉は閉めておいてくれ。鍵も忘れずに」
私は言われた通りに扉を閉めて鍵をかけ、彼が研究とやらの準備を整えるのを黙ってじっと待っていた。薬包紙に載せられた青緑色の粉を喉奥に流し込むと、水差しから直接中身を飲み下す。続いて発せられた声は高熱で炙られた肉さながらに焼け焦げた様な粘付きを帯びていて、同一人物のそれとは全く信じられなかった。
「クリス、いったい何を」
「……時を、超えたいと。そう思わないか」
「時間を?」
「そう、だ……時を超える。遥かな時間を遡り太古の真実を明らかにすることも、未来へ流れてこれからの世界を知ることも、永遠の夢だ……しかし、あの博士でさえ、その魔法は知らないはずだ」
彼はよろめきながらテーブル状に置かれたプリズムを手に取り、片方の掌に乗せて切れ切れに呪文を紡ぐ。しかし、私の耳に聞き取るには、その音律はあまりにも既存の言葉から離れすぎて─否、それはもはや、『我々の』言葉であったのかどうかさえ、確信が持てない。彼は切れ切れに、鼻を曲げんばかりの煙を口から噴出させ、アヘンをやり過ぎて脳が病変し切った患者が廃人となる前の最期ののたうちを漏らすときの様に、狂犬の吠え声と蒸気を噴き上げる工場の煙突が吹き鳴らす底冷えのするラッパを織り交ぜた音で構成された呪文を口にした。
すると、掌に乗ったプリズムが七色の光に包まれたかと思うと、吐き出された煙を巻き込みながら彼の双眸の中に吸い込まれていく。廃人ののたうちは一瞬にして幸福の恍惚へと境地を一変させ、逆に表情は目の前で開かれた天国の門を見守る者のそれへと緩む。神のお力は偉大なるかな、神の御名は偉大なるかな。かつて救世主と共に十字架にかけられた
ところが、五分ほど様子を観察していると、恍惚の境地に大きなひび割れが走り、超越者への畏れと生命への執着に由来する恐怖が入り混じった表情が取って代わる。だらりと垂れた涎の雫が砂時計の様に着実に下へ伸び、伸び、そして落ちる。その途端クリストファーはこちらへ『戻って』来た。左右の焦点は完全に失われ、二度、三度ぶるぶると頭を振って何かを追い払う様な仕草をすると、掌に乗せていたプリズムをからりと地面に落とす。
「クリス、大丈夫か、クリス」
「やめろ!俺に触るんじゃない!こんなこと、やるべきじゃなかった!」
「やるべきじゃなかったのは見ればわかる、どうしてやるべきじゃなかったのかと聞いてるんだ」
「『見つかった』!『見つかってしまった』!俺はもうおしまいだ!博士に手を伸ばしたのが間違いだったんだ!」
「落ち着くんだクリス、一旦上に戻ろう。お茶でも飲んですっきりしたら……」
「いいや、駄目だ、駄目だ。俺はもうこの部屋から出られない。この部屋からは逃げられない。いいか、カハル・ボードマン。俺はこの部屋から出ない、断じて出ない。そしてお前もとっとと消え失せろ。失せちまえと言ってるんだ、くそったれ!」
私は困惑していた。浴びせかけられた酷い侮辱に抗議するよりも、友人を心配して声をかけるよりも先に、言葉にし難い困惑が心の全てを占めていた。私は彼に何と言葉をかけてやったら良かったのか。答えが分からないまま闇雲に数字を方程式に当てはめる作業にも似た焦燥の中、私はすごすごと部屋を退去した。明かりのない真っ暗闇の通路に、私の影の最後の一欠片が消えて行った時、背中の後ろで扉が閉じられる音が響く。それはクリストファー・タヴェナントという男の精神と外の世界が完全に断絶し、彼の正気と狂気を結ぶ細い細い絆が消え失せてしまったことを意味していた。その日、私は一人の友人を失ってしまったのである。
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