第6話



「……慶様」


 セルディムが出て行った後、おずおずとエンプティが慶に近づいて来た。

 これまでずっと、あの小さな領地のふしぎな領主に畏怖を覚えて、まともに喋れなかったらしい。

 

「勝てそう、ですか?」


 慶はしばらく、セルディムが描いた絵の列を眺めていたが、何も言わなかった。

 代わりに、部屋の隅にある画材用のロッカーの前に立ち、がしゃんと開けた。

 そこには未使用のキャンバスがいくつか、木材の腐りかけた古いイーゼルが二つ、印字の読めなくなったダンボールに放り込まれた絵具があるだけだった。

 

「慶様?」


 慶はあかるいところにイーゼルを引っ張り出し、そこにすでに完成しているかのような丁寧さで真白のキャンバスを立てかけた。

 そしてセルディムがやっていたように水の満ちたポットに絵筆を浸す、なんてことはせずに素手にそのまま絵具をぶちまけ始めた。

 泥団子でもこねるように絵具を極彩色に混ぜ合わせると、躊躇することなく七色の手形を純白のキャンバスに捺しつけた。

 手を離すと、掌紋がくっきりと残っている。

 ふっとそこに冷たい息を吹きかけると、慶は次から次へと手形をくっつけ始めた。

 捺し、伸ばし、引き、拳で軽く叩く。

 何がなにやら分からずあうあうするエンプティなど歯牙にもかけず、慶は塗り絵を続けていく。

 そしてキャンバスに空隙がほとんど見当たらなくなると、一歩下がって、出来上がった絵を見上げた。

 それはほとんど扉のような大きさだった。なんの形も為していない、奔流のような色彩だけが荒れ狂っている、その題名のない扉絵を慶は、大切になどしなかった。

 雷が裂けるような音を立てて、絵は倒れた。左手一本を突き出して、描いたばかりの絵を壊した慶はようやく答えた。

 

「分かんねぇ」


 ○


「……あまり僕のアトリエを荒らさないで欲しいな」


 ぐっ、と首筋を掴まれて、慶は動けなくなった。痛いほどに力がこめられている。


「これでも、画材は貴重でね。無駄にして欲しくないんだ」

「無駄?」


 慶は、へし折れたイーゼルと、その上で真っ二つになった極彩色のキャンバスを見下ろした。


「いい絵だろ?」

「君は自分が創った作品を破壊するのか?」

「ああ」

「……ふむ」


 首筋から圧力が消える。振り返ると、セルディムが解けかけていた絵具まみれのバンテージを指先まで巻き直しているところだった。

 

「言いたいことが、分からないわけじゃない。なるほど……これが君の創作か」

「初めてやったが、悪くないもんだな。またやらせてくれよ」

「……それはやっぱり、挑発か? それとも本心かい」

「賭博者なら、それぐらい察せ。とはいえ、場を荒らしたのは済まなかったな」

「いいさ、君が勝てば、どうせ全て君のものになる」

「――俺は、勝ち抜き戦をやると言ったろ」

「挑発さ」


 ふっ、と慶は笑った。そしてポーカーフェイスを作って尋ねた。

 

「足跡は捺印し終わったか?」

「ああ。

 これぞ、という配置にしてみせたつもりだ。

 足跡六つ――探し出せれば君の勝ち、できなければ――」

 

 セルディムが、静かな暖炉の上に砂時計を逆さに置いた。さらさらと砂が流れ落ち始める。部屋を出て行く二人も見ずに、セルディムは呟いた。


「僕はここにいる。真嶋慶、君が負けるのを、ここで待ってる――じゃあ、『お稼ぎ』よ」


 そして、扉は閉ざされた。

 


『アリューシャン・ゼロ』の見取り図を、慶は脂貨三枚でショップから買い取った。

 それはカジノの片隅にある小奇麗な雑貨屋で、商品の仏花が気配と音を消していた。

 ニコニコするメイド服のスレイブドールに手渡された見取り図を慶は壁に叩きつけるようにして張った。

 構造は簡単。

 乗降用のタラップのある甲板。同じデッキにカジノがあり、そこから上下層へと移動できる。

 下層デッキはボイラーのある機関部。バラストグールでも移動できるため、ここに足跡がある可能性はある。

 続いて上層は、カジノデッキから螺旋階段で上っていく。セルディムが構えていた領室も上層にあり、フーファイターズが占拠している場所だ。

 セルディムに挑戦している現在、ほかのフーファイターズの領室へ入ることは出来ない。

 ゆえに、せいぜい足跡があるとしても扉の前まで。

 時空が歪んでいるとしか思えないほど続く螺旋階段なので、すでに通過したセルディム部屋以外の五つまで探査していると、やや時間が奪われる。

 だが、問題はやはりカジノデッキだろう。

 蒸気船というよりは、戦艦といった方がいいような巨大な空間には等間隔に賭博台と給仕の奴隷人形、そして亡者たちがひしめいている。

 とてもすべての空間を探査など出来るものではない。物陰やくぼみなどいくらでもある。

 それに加えて、セルディムは、壁を歩ける。おそらく天井も。

 頭上を見上げると、シャンデリアのそばまで階段で上がれるようになっており、眩い光の裏側に足跡が蹴り込まれていたとしても、セルディムはそこまで慶を再び案内できるだろう。

 しかもその階段からはさらにバルコニーデッキへ続く道や、奴隷人形たちが作業するパイプ管だらけのバックヤードにも繋がっている。

 どちらかといえばカジノデッキよりも、その裏側に広がっているごちゃごちゃした空間の方が、足跡を残すには適しているかもしれない。

 いや、そう読んで、あえてすべての足跡をひとつのデッキに集中させる――そういう手もある。

 蒸気船が広大だからと言って、数学的に均等に足跡をバラけさせる必要はない。

 そんなことをすれば、一つ見つかり逆算されれば全部やられる。

 そんなことはやるまい――絵描きのような人種と勝負するのは未踏経験だったが、セルディムは計算ずくの馬鹿じゃない。

 少なくとも慶はそう感じている。


「慶様?」


 慶は壁に張りつけていた見取り図を引っぺがして丸めて捨てると、エンプティを振り返った。

 慶に買い与えられたポーク・ハンバーガーを両手で慎ましく食べながら見返してくるエンプティに、慶は毅然として言った。

 

「エンプティ、お前、俺の味方だよな」

「え、は、はい。そうですけど」

「じゃ、お前――足跡、探して来い」

「えいっ」


 ぺちん、とエンプティが慶の頭を叩いた。

 慶が少女のおでこを鷲掴みにする。


「うん?」

「だ、だって慶様が無茶なこと言うから! に、人形は亡者と賭博師の勝負に干渉できないんです。だ、だからわたしがたとえ足跡を見つけても、それを慶様に教えることは出来ないんです!」


 慶は手を放した。


「ま、そうだろな――だが、何事も頑張り次第だ。そうだろ?」

「そ、そうなんですか?」


 涙目で額をこすりながらエンプティが聞き返した。


「頑張り次第って……わたしにどうしろっていうんですか」

「たとえばこんな命令なら聞けるか? ……この蒸気船に捺印されたセルディムの足跡を見つけたら、そこを『動くな』っていうのは」


 エンプティが青眼を見開いた。


「……そ、それは」

「それなら、『教えてる』ことにはならない。たとえばお前が天井にある足跡を見つけてそこで立ち止まっても、俺には一発で足跡が分かるわけじゃないからな。どうだ」


 エンプティは逡巡していたが、やがてこくんと頷いた。慶はわしゃわしゃとその頭をかき回してやってから、

 

「いいぞ、じゃ、さっそくやってもらおう」

「は、はい」

「いや、お前じゃない。――脂貨よこせ」


 エンプティはどこから取り出したのか、いつの間にか茶色い紙袋を持っていた。

 ジャンクフードショップで安いランチを包んでおくようなその紙包みを受け取ると、慶はその中から黄金の脂貨を鷲づかみにして引っ張り出した。

 そして、そのまま壁際へと歩いていく。

 そこには、沈黙した奴隷人形が目を閉じて椅子に腰かけている。

 その膝に、慶はジャラジャラと脂貨をばら撒いた。

 少女人形の膝から滑り落ちて床に当たった脂貨は、なぜか慶が手放したよりも少なかった。

 ゆっくりと、その人形の目が開いていく。

 まつげが震え、唇から呼気が漏れ、うつろな瞳で慶を見上げる。慶は笑った。

 

「おはよう、ガラクタ人形」


 奴隷人形も微笑み返し、ゆっくりと立ち上がってスカートの裾を摘む。

 恭順の意志を見せたその人形を、慶はもう見ていない。

 奴の視線にあるのは、壁際いっぱい、どこまでも続いている沈黙した奴隷人形の行列。

 紙袋に手を突っ込み、己自身の依代(よりしろ)を慶は指先で弄ぶ

 。そう、手はいくらでもある。いくらでも。

 慶が選んだ戦略。それは、古めかしくも効果的な――

 

 ――――人海戦術。

 

 

 

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