『一言で私を滅ぼせるあの男へ』

 空気が重い。

 息を吸い込むたびに、胸の奥が締め付けられるようだ。静寂が耳を圧迫あっぱくし、頭の中で自分の心臓の音だけがやけに大きく響く。

 背後で扉が勢いよく閉まる音がした。その鋭い音に私は肩がびくりと跳ね、我に返った。


 これはただの会議ではない。

 意図的なものだ。白石部長……間違いない。彼女が仕組んだのだ。

 張り詰めた沈黙が私を押し潰そうとする。その場に立ち尽くしながら、腕の中の書類を握る手に力が入る。紙の端が指先でくしゃりと歪んだ。


「……し、失礼しました。資料をお届けに——」


 声が震えるのがわかった。熱が顔に昇り、腕に抱えたファイルをまるで盾のように胸元へ押しつける。

 助け舟を出してくれる人はいないか——そう思って視線をさまよわせたとき、私はを見つけた。

 彼は何も言わなかった。

 だが、彼の周囲に張り詰める空気は異質いしつだ。冷たく鋭い視線を向けるわけでもない。ただそこにいるだけで、この部屋全体が彼の一声を待っているかのように。


 そして私は悟った。

 ここでは、彼の言葉なしに動く者などいないのだと。


 隙なく仕立てられた黒いスーツは、広い肩と引き締まった体を完璧に包み込んでいる。鋭い顎のラインと頬骨ほおぼねは、まるで彫刻家ちょうこくかが丹念に削り出したかのように精緻せいちで——

 漆黒の髪はわずかに波を描き、額の上で静かに垂れている。


 しかし、何よりも圧倒的だったのは、

 深く、鋭く、視線を交わした者の全てを見透かすかのような——そんな目。


「あなたは、どちら様?」


 緊迫した空気を切り裂くように、鋭い声が飛んだ。

 声の主は、彼のそばに座る一人の女性だ。

 完璧に伸びた背筋、体のラインを際立たせるネイビーのワンピース——その立ち居振る舞いのすべてが、洗練された威圧感を放っている。


 藤堂玲奈とうどうれな。グループの研究開発けんきゅうかいはつ部長ぶちょうにして、経営陣けいえいじんの一人。

 社員名簿しゃいんめいぼで見たことはあるが、直接言葉を交わしたことはない。


「ここに入っていい許可なんて、誰が出したの?」


 冷たい声が、空気を凍らせる。


「え……す、すみません……」


 私は思わずファイルを胸に抱きしめるように握りしめた。


「最上階にすぐ届けろって、そう言われて……」


 彼女の完璧な眉がわずかに動き、さらに言葉を続けようとした瞬間——。


「そんなに怖い顔をしなくてもいいんじゃないか、藤堂。」


 別の声が割って入った。

 椅子にゆったりと身を預け、口元に微かな笑みを浮かべたのは、一人の男性だった。


 一条いちじょう颯真そうま。黒崎グループの財務ざいむ本部長ほんぶちょう

 社内でその名を何度も耳にしたことがある。そのたびに、畏敬いけいの念を込めて語られていた人物だ。


「どう見ても新入社員だろう?ミスの一つや二つ、あるものさ」


 柔らかい笑みを私に向けられ、張り詰めていた胸の奥が少しだけ緩む。


「冗談はご遠慮ください。黒崎グループでは、ミスは許されません」


 藤堂はわずかに眉をひそめ、それから視線をゆっくりと——

 会議室の中心に座る、その男へ向けた。


「特に、このような重要な会議では」


 藤堂の声はさらに柔らかくなり、まるで彼だけに話しかけているかのようだった。


「黒崎社長のお時間は、大変貴重ですから」


 その言葉は、雷鳴らいめいのように響いた。

  ——

 思考が一瞬止まり、その名前が頭の中で何度もこだました。


 黒崎グループの社長。

 この巨大な帝国の中心に立つ男。

 ただ一瞥するだけで、部屋全体を沈黙させることのできる男。


 そして今——その視線は、私に向けられている。


 一言も発していないのに、彼を中心に世界が回っているようだ。

 漆黒の瞳。鋭く、深く、射抜くような眼差し。

 その視線の重みに、私の膝が震えそうになる。


 彼は椅子にゆったりと身を預け、一方の手をテーブルに置き、もう一方の手を顎に軽く組んでいた。

 静寂が一層張り詰める。

 まるで、この場にいる全員が、彼の言葉を待っているかのように——。


「橘 綾音」


 低く、深みのある声が空気を震わせた。


 私は一瞬、息をのむ。

 ——だがすぐに気づいた。

 彼の視線が、一瞬私の胸元へと動いた。

 そこには、小さな社員証がクリップで留められていて、私の名前が記されている。


 彼の視線が私を捉えた瞬間、その強烈きょうれつさに背筋が凍った。

 言葉も、動きもない。ただ、その視線の重みに圧迫され、呼吸が奪われるようだった。

 まるで、彼の許可がなければ息すらできないかのように。


「はい」


 私は拳を握りしめ、答えた。

 黒崎 徹也。

 彼こそが鍵——すべての鍵だ。


 父の失踪に隠された真実。

 十年以上も私を苦しめてきた疑問の答え。

 どんなに危険でも、どんな犠牲を払っても——私はあの男に近づかなければならない。


 すべての答えを握るその男へ。

 一言で私を滅ぼせる男へ。


 その答えは、手を伸ばせば届く——

 私に、踏み込む覚悟さえあるなら。









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危険なゲーム~冷徹な御曹司に囚われて 星空暁 @Hoshizora_Aki

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