第3話



 雲か煙か。

 とにかく白くてふわふわしたものの柔らかそうな手が、いづるの袖を掴んでいた。

 くいくいっと引っ張ってくる。

 振り返ると、大きな目と目が合った――といっても、いづるは無地の仮面を被っている。なので向こうの丸くて黒目がやたらと大きい双眸は、いづるの隠された目から少しずつ視線をずらしていって、額のあたりを見つめていた。


「やあ」と雲の塊は言う。

「やあ」といづるは答える。

「買っていかない?」


 雲の塊は、串に刺さった自分そっくりのそれを突き出す。焼けた砂糖のにおいがした。

 昔なつかしの綿菓子。

 いづるはポケットから長財布を取り出して、五百円玉を雲の目玉の前にかざしてみたが、むくむくと雲が大きくなり始めてしまったので、どういうことかと飛縁魔のわき腹を小突いてみる。

 

「そりゃあおまえ、人間の金なんかで綿菓子喰おうなんざ煙々羅(えんえんら)も怒るさ」

「煙々羅?」

「こいつのことだよ」と煙と目玉と腕でできた、子どもの落書きみたいな妖怪を飛縁魔は指差した。

「人間の金なんかみんな捨てちゃえよ。ここじゃ鼻ッ紙にもならないぜ」

「うん、言われてみればそれもそうだね。ここには通貨を発行する銀行なんかないもんな」

「金貸しは人間の仕事」


 と煙々羅がどこからともなく煙草を取り出して、すぱすぱ吸い始めた。


「妖怪はそんなことしない」

「悪かったね」


 いづるは素直に頭を下げた。

 

「じゃ、何で支払えばいい?」

「そうだね、うちは綿菓子ひと串、五十炎だね」

「円?」

「妖怪はね、金のやり取りをしない代わりに、魂をやり取りするんだ。見てごらん」


 親切な煙妖怪は、白い脂肪の塊みたいなぶくぶくした手の平に真紅の硬貨を乗せて、いづるの前に突き出した。

 硬貨は、人の親指より少し大きく、角と牙を生やした憂鬱そうな男が描かれており、裏ッ返してみると、舌先が二つに分かれた陽気な女が刻まれていた。妖艶に笑っているが、その頭には鉄の環に三本の足がついた鉄輪が被せられている。

 どちらの面にも、一、と刻まれていた。

 

「お化けの国らしい金だな」

「これはね、正しくは金じゃない、魂の破片なんだよ人間くん」

「魂の――? じゃあ、僕も七日後にはこうなるのかな」


 いづるは人差し指で、ちっぽけで退屈な自分の未来をちょんちょんと小突いた。

 

「ああ。人間ひとりでだいたい、一万炎くらいかな。そこからは一魂って数えるんだ。ありがたいことだよ。この硬貨を食べなければ我々は消えてしまうんだ」

「じゃあ、綿菓子なんて買ってる場合じゃないじゃないか」

「なら君は、靴下に穴が開いてても買い換えないのか?」

「うーん」といづるは首をひねった。そして自分の疑問は、彼らにとって失礼だったのかもしれないと考えた。

「だろうよ。――――ねえ飛縁魔、あんたいい魂をとっ捕まえたね。彼なら一魂どころか、五、六魂になるんじゃないか。不思議な男だ。拾いものだね」

「ふふん、そうだろ? あたしは日頃の行いがいいんだ」


 飛縁魔はご機嫌でがま口財布から一枚の硬貨を親指で弾いた。弾丸のように放たれたそれは煙々羅の身体に突っ込み煙の小さな飛沫をあげ、彼は満足げに瞼を開閉させる。こうして彼らは魂を喰うわけだ、といづるはじっとそのさまを記憶に焼きつけた。

 

「毎度あり」

「ねえ、僕もわたがし」

「いくぞ、人間」


 飛縁魔は綿菓子に顔を突っ込んでむしゃむしゃ食べ始めた。いづるの分は買ってもらえなかった。いづるは名残惜しそうに煙々羅の屋台を振り返りながら、ぼそりと、

「働かざるものは喰うべからず、か」とぼやいた。

「あの世も世知辛いや」


 ◯


 妖怪たちは、横丁の中で、煙々羅のように屋台をやっていたり、何をするでもなくうろついていたり、バラック小屋の屋根で寝ていたり、物陰からいづるをじっと見つめていたりした。

 いづるにとっては物珍しい異国に来たようなもので、きょろきょろと首を振り回し、なにかを見つけては「おや?」っと伸ばし、すぐに「うおっ!」と仰天し縮こまる。

 

「まるで子どもだなァ」


 呆れてため息をつく飛縁魔に、

 

「おもしろいなあ。おもしろいよ。うわあ、すごい」といづるは大樹のような足が通り過ぎていくのを見送りながら答えた。

「ふうん」と飛縁魔は喰い終わった綿菓子の串を唇でぴょこぴょこ動かして、

「あたしは生まれたときからここにいるから、何が珍しいのかわかんねえや」

「そういうものかもね」

「そういうものなんだろうね。ちぇっ、あたしも人間に生まれれば、もうちっとメリハリのある暮らしができたのかな」

「退屈かい、あの世は?」

「つまらねえよ――正直、耐え切れそうにない。あたしはね」

「人間もそう変わらないよ。何をして死ぬまで過ごせばいいのかわからない」

「おまえは最期までわからなかったか?」

「ああ、だから、いまでも本当は退屈なんだ」

「あたしと同じだな――」


 飛縁魔はぺっと串を路端に吐き捨てた。


「よし、じゃあ憂さ晴らしにいこう。実は――」

「ああ、博打は僕も好きだよ」


 先手を打たれた飛縁魔は、二の句が継げなくなって息をのんだ。


「どうせ、そんなことだろうと思ってたんだ」


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