【第2話】 祖父江堂書店



『御贔屓にしてくれているお客さんに迷惑はかけられない。『祖父江堂』が無くなったら困るお客さんもいるんだ。瑠樹るきにとっても絶対に悪い話じゃない』

『どう考えても、瑠樹が一番の適任者なんだよ。この店を継いでくれ』


 一年前の夏に、祖父はわたしを呼び寄せるためにそう言った。


 足腰が弱ってしまい配達が難しくなってしまった。それが、私に店を譲る理由だという。


 当時のわたしにはいろいろなことがいっぺんに起こっていた。


 美術系の短大を卒業し、中小企業というよりは零細よりの企業に事務員として就職して六年。イラストで食べていく夢を諦めることができずに、SNSからたまに来る依頼を受けていた。しかし、それも一向に鳴かず飛ばず。


 会社の給料は上がらない。都内に一人暮らしをしていたため、多いとは言えない月給は家賃や生活費に消えていった。「不景気だからなぁ」というのが口癖だった上司から、会社が二回目の不渡りを出したことが告げられたのは突然のことだった。事実上の倒産である。残務整理を行ったあとに社員は解雇となった。


 おまけに短大時代から付き合っていた恋人は、他の女性を妊娠させて去っていった。


 ショックだった。


 なにがショックかといえば、恋人が浮気をしていたことではない。浮気相手を妊娠させたことでもない。そのことに対して、さしてショックを受けなかった自分に対して衝撃を受けた。


 別れ話を切り出されたチェーン店のカフェ。目の前に座った恋人だった男は「俺は謝らない。だって瑠樹るきは今、ほっとしているだろ?」と言い捨てて、席を立った。


 会計を済ませて店を出ていく彼の後ろ姿をぼんやりと見送った。


 驚かなかったといえば嘘になる。それでも六年ほどは一緒にいたのだ。だが、いつからかそれは恋でも愛でもないと気がついていた。


 まだ氷も溶け切らないアイスコーヒーをかき混ぜながら考えた。

 わたしは確かに今、ほっとしているのだ。それを、表情に出していたのだろうか、と。


 そんなときに祖父から声をかけられた。


 母に相談をすると「いいんじゃない? あそこはのんびりとした土地だし。あなたは少しゆっくりとしたらいいわよ」。スマートフォンの向こうからのんきな答えが返ってきた。


 祖父はわたしが一番の適任だと言っていたが、それは、わたしが無職になったからだ。祖父なりにわたしのことを心配してくれていたのだろう。と、当時はそう思っていた。


 収入がない以上はアパートは引き払うしかない。実家の狭いマンションに戻るのも躊躇われた。母からの一言もあったために、だから、わたしは祖父の申し出を受けた。わたしはたぶん、自分が思う以上に疲れ切っていたのだ。


 



 ✻


 引き継ぐ際にとんでもないすったもんだがあった末に、半ば無理矢理にわたしに店を押し付けた祖父は旅立った。


 旅立ったとは云っても天国へというわけではない。


 本当に旅立ったのだ。海外へと。


 常春で暖かく、日本よりも物価の安い国に移住するといって。


 なにが足腰が弱ったからだ。めちゃめちゃ元気じゃないか。呆れも半分あるが、祖父が人生を楽しんでいるのは孫としては嬉しくも思う。



 あれから季節が一巡りして、また夏がきた。


 たまに暖かい国から届く陽気な絵はがきは、祖父が元気で暮らしているということを教えてくれる。




 

 ✻


「瑠樹、お茶の葉がもうない」


 キッチンから顔を出したしろさんは、空っぽになった銀色の緑茶の缶を振った。


 何回も計算をやり直しても、今月もギリギリの帳簿から顔をあげて振り返る。


「あれ? この前、買ったよね?」


 確か二週間ばかり前、隣町に買い物に出たときにお徳用の大袋で買ったはずだった。


「全部飲んでしまったから、もうない」


 白さんは悪びれもせずにぺろりと長い舌を出す。


「さすがに飲みすぎ。麦茶のパックならあるよ? 夏なんだから、水出しで麦茶を作って飲んでよ。私も冷たいものが飲みたいから」


「冷たいのはいささか身体が冷えすぎる。……あったかいお茶の方が好きなのに」


 白さんはこの世の終わりだとでも云うように大げさに首を振ってみせた。耳にかけられるほどの長さの色素の薄い髪が揺れる。両耳の横だけ真っ白になった髪がのぞく。まるでイヤリングカラーのようだ。その両耳の横の白い髪色は地毛の白髪なのだが、普通の意味での白髪ではない。


 もう。しょうがないな。


「じゃあ、お店を閉めたあとにモールに買いに行こうか?」


 卓上のカレンダーを確認する。大丈夫。今日の夕方には配達は入っていない。


「いいのか?」


「それで今日の夕飯はフードコートで食べてこようよ」


 買い物から帰ってきてからキッチンに立つと夕食が遅くなるし、なにより面倒くさい。


「瑠樹にしては気前がいいな。ワシはなにを食べようかな」


 白さんは嬉しそうに笑う。

 笑うと右側の頬にだけ、えくぼができる。


「あ、でも、あんまり高いのはだめだからね」


「……やっぱりケチじゃな」


「はいはい。そう思うのならもっとうちに仕事が来るようにしてね」


「ここが潰れないでいるのはワシのお蔭なのに。瑠樹はまだまだ解っていないな」


 白さんはやれやれと肩をすくめて大きくため息をついた。

 身振り手振りがいちいち大げさだ。


 だけど……まあ、うちが潰れないのは確かに白さんのお蔭なのかもしれない。だったら潰れないという現状維持だけじゃなくて、もうちょっと生活に余裕が出るくらいには繁盛させてくれてもいいような気もするけど。


「こんにちはぁ。白くんか瑠樹ちゃんいる?」


 階下の店で黒川のおばさんの声がした。


「はあい。今行きます。ちょっと待っててくださーい」


 階段を覗き、下に向かって返事をする。


 黒川のおばさんはお隣さんだ。お隣といっても田んぼを挟んでのお隣さん。


「いいよ、ワシが出る。帳簿を終わらせてしまえ」


「そう? じゃあ、お願いね」


 白さんは「おばちゃん、おまたせ」と階段を降りていく。「あら~、白くん、相変わらず男前だねぇ」。黒川のおばさんが大きく笑う声が聞こえた。





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