美しい人

てゆ

第一話 嵐の夜

 私が豪商の家であるイスカリオテ家に売られたのは、十歳の時でした。その頃、私にはとうに物心がついていましたが、かつて自分がどういう暮らしをしていたのかも、どういう経緯で売られたのかも、全く覚えていません。

 今と昔との落差が激しいほど、幸せは急速に腐って心を蝕みます。それはきっと、心を守ろうとする本能が無自覚に働いた結果だ、と今では思っております。


 この家に五人いる私たちメイドは、「名前」を用いることを禁じられています。「物にいちいち名前を付ける人などいないから」というのが理由らしく、個人は命令の際にクイッと持ち上がる顎の方向で識別されます。まあ、こんな決まりは気分次第でいくらでも破れるのですが、これまで自らの名前を明かした人は一人もいません。私が過去を忘れ去ったのと同様に、「人間だった頃の自分」を思い出したくないのでしょう。

 日夜、色々な家事雑用に追われ、冷たく硬い物置で眠りにつく時、私はいつも「こんな仕打ちは酷過ぎる」と思っておりました。ですが、後から知った話によると、こういうメイドに対する仕打ちは、どの裕福な家でも大差なかったようです。


「あなた、お腹は減っていませんか?」

 横になる私の肩を叩き、親友は言いました。重い体で寝返りを打ってその方を見ます。彼女は、薄い皮膚一枚に守られた弱い赤子を抱くように、見覚えのあるバスケットを両手で持っていました。

「盗んだの?」

 窓から差し込む細く白い月光が、この悪行を暴かんとしているようで、私の心臓は鼓動を速めます。

「いいえ、拾っただけですよ。今日の昼、うちに挨拶に来た商人が、あのタヌキ親父に食べ物の詰め合わせを贈りましたよね? ですが、その中身が気に入らなかったのか、窓の外に捨てられていたのですよ」

 外に声が漏れる可能性など全く気にせず、彼女は私の傷だらけの手の裏で、その血色の良い唇を雄弁に動かしました。

「……もういいや、食べようか」

 他の三人が早々に眠っていることを確認し、外が一向に静かなことを確認してから、私は言いました。

「はい! それでは今日はバゲットで」

 彼女はその青い目を輝かせて、私たちには金のインゴットと価値の相違がわからない代物、バゲットをきっかり半分に分けました。


「美味しいね」

「はい、とっても美味しいです」

 食事中の彼女は、さながらネズミです。ネズミと言っても、この物置や台所に湧くような灰色のものではなく、一時期お嬢様がお部屋で飼われていたもののような、真っ白く美しいハツカネズミですが。

 彼女は私と同じ十八ですが、私よりもずっと若々しい勇気に溢れていて、美しいです。髪の毛だって、私の場合は真っ黒いボサボサなのを、耳の下辺りでぞんざいに切り揃えているだけですが、彼女の場合は金色でサラサラなのを、肩の辺りまで優雅に伸ばしています。

「…………」

 私がまだ三割ほど食べ残している時、バゲットを完食した彼女は、物も言わずに窓を眺め始めました。

 あまり日光が入ると中の物品が傷んでしまうから、そういう作りになっている。そんなことはとうに存じていますが、やはり嫌らしく感じてしまいます。もっと低く、もっと大きな窓であったとしても、私たちは脱走なんて企てないのに。


『コンコンコン』

 あれから少しして、もう一度ボロキレのような布団に潜った時、物置の扉を穏やかに叩く音が三回聞こえて来ました。

「はい」

 彼女は穏やかな声で答えましたが、その起き上がる動作は俊敏です。

(待って!)

 そんな叫びは、隙間風のない胸の中にあるのに、今にも崩れてしまいそうです。一度、泣きながら声に出してしまった時は、振り向かないままの彼女に、暴れ馬のような後ろ蹴りを食らわされました。

(あなたは私より大人なんでしょ?)

 と叱られているような気持ちになりました。

『大丈夫』

 廊下の灯りに照らされながら、ご主人様に手を引かれている彼女は、こちらを振り向いて唇の動きだけでそう言いました。せっかく見えなくなっていた犬の首輪のような内出血が、光によって再び呪いのように浮かび上がります。

 いつになく穏やかな足音が去った後、私は今日も泣いてしまいました。


 ご主人様や他の商人たちを見て、私は学びました。「更に裕福になりたい。そんな誰にでもある欲望は、永遠に満たされない」と。「そして、人は富めば富むほど汚くなり、より多くの人を蹴落とすことになる」と。

 虐げられている仲間を見ても、心が熱くなるだけで、体は動こうとしない。そんな状況を何度も経験して、学びました。「結局のところ、私たち人間は自分が一番大切なんだ」と。「美しい人なんて、この世界にはいないんだ」と。

 そう学んだはずなのに、別に水をやっているわけでもないのに、「この世のどこかにいるかもしれない美しい人に、この身を捧げたい、ここから連れ出して欲しい」という叶うはずのない夢は、日に日に大きくなっていきます。


 そして、ある嵐の夜のことです。私の中の器に溜まったホコリは、ついに溢れて私の大切な一部に――敏感で向こう見ずな何かに触れました。


「はあ、はあ、はあ」

 自らの荒い息、鼓膜を直接に叩いているような大雨の音、幽霊の悲鳴のような風の音、空を切り裂くような雷の音。私は屋敷を飛び出していました。

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